「パントマイム」に佐古の詩の狙いが書かれている。
虚空に
てのひらを小刻みに顫(ふる)わせて
蝶を現出させる
舞い上がり遊ぶ様を目で追う
動きにあわせてゆれつづける顔
見えてくる
見えないもの
佐古にとって詩とは見えないものが見えてくるということなのだろう。見えないものを見えるように書こうという意志がとても強い。たとえば、「幼年」。
ぼくはみた
行水するおんなの裸を
軒の鬼灯(ほおずき)は風にゆれ
下町の路地を
時が駆けぬけていった
見えないものを見えるように書こうとする意志が強すぎて、見えないものを見えたかのように書いてしまっている。「時が駆けぬけていった」。これは肉眼では見えない。肉眼で見えないものを見えるかのように書いてしまったために、この作品はありきたりの「現代詩」になってしまっている。見えないものは見えないままに書くことが大切なのだ。見えないのは何が邪魔をしているために見えないのか--それを書くということが、見えないものが見えてくることにつながる。
「十月の空」は美しい。
長の入院から解き放たれた
ある晴れた日のこと
飛行機雲がひとすじ伸びている
いずれは
ほどけて消えるさだめなのだが
いま
それはたしかにぼくの頭上にある
木漏れ日ゆれて
金木犀の香が運ばれてくる
ぼくは気づく
ほんとうは
ほどけて消えるのではなく
この美しい世界に
とけこんでいくのだと
「ほどけて消えるのではなく」「とけこんでいく」。とけこんで何かが見えなくなるということは肉眼で体験できる。たとえば、塩、あるいは砂糖。水のなかにいれる。白く見える。完全に溶けてはいない。水をぐるぐるまわす。白い粒子がだんだん小さくなり見えなくなる。溶けたのだ。こういう肉眼の体験は誰もがしていることだろう。そうした肉体の、肉眼の体験をくぐることで、ことばは確実なものになる。