蜂飼耳「突貫工事」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 蜂飼耳「突貫工事」(「文藝春秋」2007年04月号)。

枝から落ちる雫のおもてで
新宿が分かれてしまった

 この書き出しにとても惹かれた。
 雫がぷっくらふくれる。その表面に新宿の風景が凸面鏡に映ったときのように、左右に引き伸ばされていく。小さな雫、その球面の輝き。「分かれる」は、そうした左右に引き伸ばされていく風景であり、その風景のなかへ人が歩いていく。瞬間的に、地上の風景と雫のなかの風景が入れ替わり、小さな雫に閉じ込められることで、風景全体がこころのなかにすーっと入ってくる。
 そういう情景を思い浮かべた。たぶんこれは私の「誤読」である。
 詩の全行は次のようになっている。

枝から落ちる雫のおもてで
新宿が分かれてしまった
いくつもに
地下道、前をいく人の
靴下は左右 ばらばらなのです
顔を避ける心臓のひとつひとつが夜な夜な
画面に向かう 感情すらも仮のもの
地下鉄、前の人の頬には飯粒
目は文字に探られるるる
ひらがながふえているる

 「地下道」「地下鉄」。
 あ、蜂飼の「分かれてしまった」は地上と地下に分かれるのか。「落ちる」その雫の延長線上に新宿がわかれていくのか。地上と地下だけではなく、新宿を行く幾人の人にも、「いくつもに」分かれていくのか。
 そして、分かれながらも「目」のなかへ必ず帰ってくる。

目は文字に探られるるる
ひらがながふえているる

 末尾の「るるる」「るる」の繰り返しが、雫が落ちる前の震えのようでおもしろい。