廿楽順治「肴町」 | 詩はどこにあるか

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 廿楽順治「肴町」(「ガーネット」51、2007年03月01日発行)。
 廿楽の詩の魅力を語ることは、私には非常に難しい。おもしろいと思う。けれど、そのおもしろいと思う気持ちをことばにできない。ことばにならない。

ここでは
なにを売ってもさかなになってしまう
ぜつぼう なんて
ひさしく聞いたことはなかったが
このさかなの目
だってそのひとつかもしれない
くさくて
にんげんなんかにゃ
そのにおいはとても出せない
そういうさかなになってしまえば
ぜつぼう
も おかずのひとつである
死んじゃいけないよ
語るやつらの権利にうんざりする
さかなまち
なんだからね
むざんにかわってしまった
(もとはとてもだいじなもの)
それを
籠ごとこうかんする
くさいねえ
わたしのまちは
どうしていつまでたっても
水の音がしないのだろう
かなしいものは束で売るほかないのだ

 1行ごとの(改行ごとの)、ことばの微妙な飛躍が「頭」ではなく、「肉体」を感じさせる。頭で整理したことばの運動ではなく、頭を通過しない(?)ことばの運動。ふっと、脇腹あたりからわきあがってくるような、やわらかなタイミングががおもしろい。
 3行目の「ぜつぼう」が「絶望」と書かれていたら、この詩は、たぶんとてもつまらない。
 「絶望」。「望みが絶たれた」状態。しかし、ここに書かれているのは、はっきりした「望み」と人間の関係なんかではない。「絶望」、「望みが絶たれた」状態と頭で整理する前の、もっとぼんやりとした輪郭のないものが「ぜつぼう」である。「望み」なんかは無視して、肉体が感じる「だるさ」のようなもの、肉体の「にごり」のようなものが「ぜつぼう」である。
 「ぜつぼう」は「絶望」と違って、頭をくぐりぬけない。ひたすら肉体(五感)をさまよう。「さかなの目」「におい」(くさくて)。
 人間には、頭にしまいこんではいけないもの、頭をくぐらせてはいけないものがあるのだと、確かに感じる。廿楽がそういうものを大切にしているということが、行間(行間としかいいようがない)から滲んでくる。

 「籠ごとこうかんする」のひらがなで書かれた「こうかん」にも、「ぜつぼう」と同じものを感じる。どんなことばにも「意味」はある。「こうかん」の意味はもちろん「交換」と漢字で書いたときのものだが、そういう「意味」を廿楽は遠ざけ、肉体を(耳で聞く音を)前面に出す。
 今、ここに、肉体をもった人間がいる。肉体が人間なのだということを廿楽はいつも語っているように見える。廿楽なら「にくたい」と書くだろうけれど。