山本まこと『鏡と眼差し』 | 詩はどこにあるか

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 山本まこと『鏡と眼差し』(私家版、2007年02月20日発行)。

未決囚ほどにも本が読めない
それで成算もなく
うつくしい麦!
と言ってみる

 「夏のはじまり」の冒頭。この「言ってみる」が山本の「詩」である。「言ってみる」。そして、ことばがどれだけ動くか、意識がどれだけ動くか、それを追いかける。

散乱するひかりは
さらに塩のようなものをひからせ
空のうつろはしたたって
おやあ、なんだか
匂いたつ、欠如?
いや
それは何とも言えないのだけれど

 停滞し、疑問を抱え、推測し、そうした動きをすべてことばにし、否定する。その否定に「それは何とも言えないのだけれど」と、もう一度「言う」が登場する。
 ことばで考える--これは当然のことなのかもしれないが、山本ことばで考える。
 そして、山本はことばで考えることに、ちょっと馴れすぎている。書き出しからそうなのだが、ことばで考えることに馴れすぎていて、そこに「流通している言語」(すでに流通の期間が過ぎてしまっている、賞味期限の切れている)ことばが混じりこむ。「流通している言語」だから、とてもわかりやすい。わかりやすいかわりに、詩が「現代詩」になってしまう。
 1行目の「未決囚」のことである。「未決囚」って、一番最近新聞を賑わしたのは誰? 彼(彼女)は山本と、どういう関係がある? 山本は、たぶん、私のこういう質問を想定せずにことばを書いているだろう。
 「未決囚」から「うつくしい麦!」への飛躍にしても同じだろう。「未決囚」と「麦」の関係は? 「初夏」を「夏のはじまり」と言えば言えるだろうけれど、麦の実る初夏を「夏のはじまり」と、ほんとうに麦の生産者(農家のひとたち)は思うかな?
 「流通している言語」の「流通」にしたがって、ことばはどこにもぶつからずに動いていく。「停滞」さえも予定調和のなかにある。

蛍光灯にうかびあがる非人称のガレージで
睦み合い殺し合った半眼の誠実は裂けたまま
遅滞したことばの疼き
私よ、私を甘受せよ

 過ぎ去った「流通言語」、その文法が今も山本のなかで生きていることがよくわかる。