エミリオ・エステベス監督「ボビー」 | 詩はどこにあるか

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監督 エミリオ・エステベス 出演 アンソニー・ホプキンス、シャロン・ストーン、デミー・ムーア

 いろいろなエピソードがからみあう群像劇。からみあいながら1968年を描き出す。出色は、なんといってもケネディーの演説である。この映画はケネディーの演説をもう一度思い出すためにつくられている。
 自分たちをみつめよう。自分にできること、将来へ向けてしなければいけないことをきちんと判断しよう。そのシンプルで力強い演説が、登場する人々のありようと密接にシンクロする。
 登場する人物のそれぞれが「現在」の問題を抱えている。そして、自分一人ではもちきれないでいる。なんとか自分にできることはないかと探しまわっている。今、ここにある現実の「壁」と、自分のいのちをどうつきあわせればいいのか、苦悩している。その苦悩にひとつの方向性を与え、希望を与えようとするケネディーの演説。ことばが、まだそうした夢を担っていた時代が浮かび上がる。
 この映画は映画である。しかし、その映画が伝えようとしているのは、映像でも音楽でもない。ことばである。人間はことばで行動する。人間に希望を与えるのはことばなのである。
 たとえばホテルの厨房のチーフ(アフリカン・アメリカン)がスタッフ(ラティノ・アメリカン)に贈る円卓の騎士をたたえることば。ことばを頼りに、人は自分の行動を制御し、自分の行動に責任を持つ。
 ことばを放棄したとき、ことばが孤立したとき、そこでは「暴力」が暴れ回る。
 「暴力」に対して、ことばはどのように復権できるだろうか。ケネディーが暗殺された厨房、その混乱、苦悩と悲しみ。それを背景に、ケネディーの演説が覆いかぶされるとき、その瞬間、この映画は1986年を描きながら、1986年を超えて、現代に響いてくる。
 ことばをどうやって取り戻すか。

 この映画がとても不思議なのは、ケネディーの演説が流れた瞬間、ことばは自分の現実のなかで取り戻すしかないということが、フラッシュバックのように襲ってくることである。群像劇。その登場人物たちはいがみあい、いがみあうことで傷つき、悲しみ、どうしていいかわからなくなっている。そのうちの何人かが凶弾の巻き添えで傷つく。そのとき、人はどうするか。傷つけあってきたことを忘れ、ひ弱な人間に戻って、彼(彼女)にできることをする。自分自身を守ることを忘れ、今そこで傷ついている人を守ろうとする。たとえば出血する腹部に自分の手を重ねる「がんばって」と励ます。たとえば倒れ人を抱きながら「ヘルプ」と叫ぶ。いがみあっていたことを忘れ、そこにある不幸に対して、自分のできる行動をする。声をかける。そこから、ことばは生まれる。群像劇のひとりひとりが、過去の苦悩、怒り、悲しみを超えて、今、ここで引き起こされた暴力に対して立ち上がっている。そこからことばが生まれようとしている。彼らの「がんばれ」あるいは「だれか助けて」「医者を呼んで」という声の積み重ね、それがケネディーのことばの源であることが、最後の最後の瞬間にわかる。群像劇。ばらばらな人間の苦悩が群像劇として描かれなければならなかった理由はそこにある。どんなどらばらなものであっても、暴力の惨劇の前では、互いに寄り添い、ことばを見つけ出す瞬間がある。そのことを伝えるために、群像劇は描かれなければならなかったのである。

 美しい--ということばは最適ではないだろうと思うけれど、この、ことばを浮かび上がらせる瞬間の力強さは美しい。思わず引き込まれ、入り乱れる声に、肉体が揺さぶられる。ばらばらの群像劇であっただけに、それを「がんばれ「助けて」という最初の声にする力が「愛」なのだ浮かび上がらせる瞬間--その瞬間が歴史の悲劇であるにもかかわらず、美しいと感じる。
 エミリオ・エステベスはとてもすばらしい仕事をした。とてもすばらしい作品を作り上げた。映画館へ駆けつけ、脱帽すべき作品である。