監督 イングマール・ベルイマン 出演 リヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン、ボリエ・アールステッド、ユーリア・ダフヴェニウス
不思議なシーンがある。リヴ・ウルマンがエルランド・ヨセフソンを訪ねていく。エルランド・ヨセフソンはベランダで昼寝している。それをリヴ・ウルマンが部屋の中から見つめ、カメラに向かって説明する。「1分見つめて、それからベランダへ出ていくわ」とカメラに向かって自分の行動も説明する。「あと10秒」というようなこともことばにして語る。
普通の映画ではありえないシーンである。そういうことばは語られず、ただじーっと男を見つめる女が映し出されるだけというのが普通である。この映画は、そういう普通の映画ではない、とこのシーンは最初にことわっているのである。
では、どういう映画か。
リヴ・ウルマンがそのときにとった行動そのままの映画である。つまり、自分が今からしようとしていることを語るという映画である。観客に向かってもそうだが、そこに登場する人物に対しても、常に語る--語ることが、この映画の主題である。
私は字幕を読まなければわからない映画は大嫌いである。そんなものは映画ではない、と思っている。しかし、ベルイマンのこの映画は別格である。字幕を読まなければ何を語っているかわからないのに、映像に引き込まれて行く。苦しくなる。夢中になる。
私は、実は、この映画は12月に見た。すでに半月以上たっている。そして、語る映画であると書きながら、そこで語られたせりふなどひとつも覚えていない。生理中にチェロのレッスンをするのは苦痛だとリヴ・ウルマンに対してユーリア・ダフヴェニウスが語ったことくらいだ。
それなのに、この映画が忘れられない。
リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。別れた女と男。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。別れた男の孫娘。ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。娘と父の近親相姦そのものといった関係。エルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッド。父に甘えたい息子と甘えようとする息子を拒絶する父。エルランド・ヨセフソンとユーリア・ダフヴェニウス。祖父と孫娘。間に「息子(父)」をはさむことで距離ができ、そこには憎しみが欠落し、愛情だけが満ちあふれる。
語ることと距離。たぶん、それが本当のテーマなのだろう。
リヴ・ウルマンは語りながらエルランド・ヨセフソンとの距離を縮めてゆき、30年ぶりに再会する。そこには「時間」の距離もある。「愛」には距離が必要なのだ。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスには血のつながりがないという「距離」がある。リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンには30年という時間の「距離」がある。逆にエルランド・ヨセフソンとボリエ・アールステッドは本当は離れた場所に住んでいるのに今は娘のレッスンのために近付いている。近くに住んでいる。そのことが憎しみをあおる。語れば語るほど、その距離がぎすぎすする。
語ること、距離、そこに渦巻く愛憎。それをベルイマンは不思議な映像処理で見せる。たとえばリヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウス。2人はテーブルに平行にならんで料理の下準備をしている。2人は同じ方向をむいている。対立がない。平和である。2人を結びつけるのはテーブルの上の料理の材料である。そこには笑いがある。
ユーリア・ダフヴェニウスとボリエ・アールステッド。1つのベッド。娘の背中越しに父親が娘の見ている方向を見つめる。あるいはチェロのレッスン。向き合い、涙を流し、キスさえする。その愛憎のうごめき。
リヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソン。女は悪夢におびえる男を迎え入れ、いっしょに裸の体を並べる。リヴ・ウルマンとユーリア・ダフヴェニウスがそうであったように、平行にならんで、同じ天井を見つめる。平和がある。
向き合ったとき怒りがうずまき、平行にならんだとき平和が訪れる。接近が憎しみを駆り立て、遠い距離が平和をもたらす。--こうした関係を、ほとんど役者のアップで描き出す。何が語られたかを忘れてしまっても、その距離、対立、平行の印象が映像として鮮明なので、この映画を忘れることができないのだ。
それにしても、と思う。こんなふうに、一瞬一瞬、むき出しの感情が次々に変化する演技を、ほとんど顔だけで演じるのはたいへんなことだろう。ベルイマンは役者を酷使している。そして役者はベルイマンによって酷使されることによって輝いている。
音楽もすばらしい。強靱な映画である。