高橋睦郎の作品の末尾の2行。
私たちのなかの詩人を殺す以外に
詩を救う方策はない
これは痛切なことばである。「詩は病んでいる」。詩の内側からむしばまれている……というようなことが語られ、 100年前にひとりの中国の詩人が身を投げたという人工湖のほとりに立って、高橋は、そういう結論に達した。
その頃すでに 詩は救いがたく病んでいた
病因はほかでもない 詩人なのだ
詩人が内側から 詩を蝕んでいる
詩を救うには 詩人を殺すしかない
彼は投身することで 詩人を殺したのだ
少なくとも彼の中では 自分を殺すことで
詩は健やかによみがえったに違いない
この行を読んだとき、私はふいに谷川俊太郎の「詩人の墓」を思い出した。「何か言って詩じゃないことを」という1行を思い出した。「詩」は「詩じゃないこと」のなかにしかない。これは矛盾だが、矛盾だからこそ真実なのだ。
「詩」と呼ばれるものを一つ一つ否定していく。そこからはじまることばの運動。そこにしか「詩」は存在しない。「詩は何か」という既成事実のようなものを拒絶する、それまでの「詩人」のすべてを拒絶する。そういうことを高橋は「殺す」と言い換えている。
*
北川もまた「詩」を殺すことに懸命である。
黄とは何でござりましょう。アッ、ハン、漢字の世界でしょうな。
バカ言っちゃ、いけない。黄は黄変し、漢字は妖変する。
黄は黄であって黄ではない、正体不明の熱量。
漢字は弱い葦をたぶらかす、有毒物質。
見ていろ。やがて黄に炙られた空が、大音響とともに落下してくる。
何を書いているのか。おそらく高橋が書いていることと共通する。中国の詩人との交流で考えたことを書いている。北川は高橋のように「意味」を正確にしようとはしない。「意味」という病を詩が病んでいると感じているからだ。意味になる前の、ことばにならないものをことばにしようとしている。矛盾であるが、その矛盾が「詩」である。
「意味」を拒絶するというよりも「意味」を破壊する。そんなことは、本当は、しかしできない。どんなふうにでたらめを書いても、それがことばとして書かれてしまったときから、それは解読され、解読をとおして「意味」に堕落する。詩はいつでも「意味」に堕落するものとして存在する。--ということさえ、「意味」になってしまう。
どこまで、それに対してあらがえるのか。
北川の作品に出会うと、私はいつでも、「ああ、私は呑気な感想を書いているなあ」と思ってしまう。私の思考は、どうすればもっとも破壊的でありうるかというようなことより、その破壊のなかにさえ、何かを構築しようとする力を感じ、それに対して、いいなあ、と思ってしまうのだ。
北川が破壊しようとしているもの、それを私ならこんなふうに破壊することができる、というような提案がほんのちらりとも思い浮かばない。
そのことは北川の作品が非常にすぐれているということなのだが、北川は、そんな呑気な感想など誰にも求めていないだろう。北川のことばの運動を越えて、だれかが、北川の破壊しそこねていることば、詩というものを、徹底的に破壊することの方こそ望んでいるに違いないと感じる。