映画「インサイドマン」 | 詩はどこにあるか

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監督 スパイク・リー 出演 デンゼル・ワシントン、クライブ・オーウェン、ジョディ・フォスター

 映画、というよりは珠玉の短編小説というべきか、あるいは読む脚本(?)というべきか……。映像で勝負するのではなく、ひたすら、ことばでしかたどりつけない部分へと誘い込む作品。したがって演技派をそろえながらも、もっぱら「真実」を隠して語らない、ひたすら「真実」からいかに遠くに、しかし「真実」と強く結びついているかを、目で演技するというスタイルを全員がつらぬく。まあ、緊迫感があると言えば言えるかもしれないけれど、それはことば、あるいは精神の問題であって、醒めた見方をすれば、「なんだこれは」ということになる。映画は、そのあたりには存在しないスターの顔と肉体を見るもの。美男・美女がこの世のものとは思われない苦難に向き合い苦悩し、歓喜する表情と肉体の動きをみるもの。ことばのやりとりを聞くものではない。(途中に出てくる「アルメニア語」のエピソードなど、肉体とは何の関係もない。I ポッドの録音というのがその典型である。)目の演技も必要だけれど、それは本当に一瞬のもの、顔のアップの一瞬だけでいい。
 「頭脳犯」「交渉人」「弁護士」と、3人が3人とも冷静・沈着を売り物にしている「職業」という設定が、ドラマを小さくさせてしまっている。肉体が入り込む余地を小さくしてしまっている。これじぁねえ……。
 結末も、犯罪ものにしては不完全燃焼という感じがして困る。「すっごく頭がいい」というのはよくわかる。しかし、人が頭がいいかどうかなんて、どうでもいいことだろう。明るみに出た「本当の悪」は本当に明るみに出たのか。それを追求し、裁かないかぎり、明るみに出たとはいえない。「頭脳犯」は頭がよくてあたりまえ。普通の人間は、だれが頭がいいかではなく、そこで問題になったことがどうなったかを知りたい。たとえば、ライブドアの堀江容疑者がどんなに頭がいいかとか、村上ファンドがどんなふうに頭がよくてどんなことを企んだかではなく、単純に、そんなことは悪いことなんだ、逮捕されて当然なんだという肉体にかかわることがらを知りたい。(逮捕というのは肉体的自由を拘束する「事実」である。)この映画の残したものは「余韻」ではなく、なんというか、私はここまで頭がいいんだ、こんなにクールなんだという「自慢話」にすぎない。いやだなあ、これは。
 映画で見たいのは「頭」のなかの「明晰さ(クールさ、天才さ)」ではなく、あくまで肉体はこんなふうに動くという生な感じだ。
 
 単純に読む脚本としてなら 100点、ただし映画にしてしまっては 0点という奇妙な作品だった。