どうやら二人は「トパーズ号」という船で世界一周の旅をしたらしい。その体験を詩にしている。高橋順子の「1」。
大船とはいえど 鋼鉄の物質が水に浮いているわけである
横浜から乗ったおばあさんが 扇子をつかいながら
「あそこなら しんでもいい」
と言っている
あそこって あの珊瑚礁の島かしら
椰子の木陰にきれいな目をした黒い人たちがいた
「あそこなら しんでみてもいい」
うーん しとすが逆になる東北生まれの人が 「すんでみ
てもいい」と
この世の住処の話をしていたんだ
(谷内注 原文の「しとすが逆になる」の「し」「す」には傍点あり)
旅とは新しいものに出会って、自分の誤解を少しずつほどいてゆくことだろう。高橋のこの書き出しは実際の「異国」に触れる前から、そうしたことが始まっている。これからどうなるんだろうと期待を誘う。
そして、旅で何か新しいものを知ったと思っても、実はそれは自分が知っているものであったということも発見する。それが旅だ。人は知っていること以外は知ることができない。
同じ高橋の「5」。
或る土地には或る土地固有の速さがあって
旅人は自分の中の速度を知らされる
ベトナムのひなびた土地を歩いたとき
この速さは身に覚えがあると思った
たとえば自転車で走るタクシー、シクロに乗ったときに
とどいた風の速さは
わたしの子どものころのそれだった
いやそれよりももっとむかしの風だったかな
ベトナムの畦道はまがりくねって そこから
忘れていたそよ風が吹いてきて
吹きだまりをつくって
また吹いて
究極の旅は「自分の中」への旅である。高橋はそれを実践していることになる。
これに比べると新藤はちょっと違う。いや、かなり違う。自分自身への旅もあるにはあるが(たとえば「4」)、高橋よりは「内面性」が少ない印象がある。関心は、自分の外にある、といっていい。
「6」が生き生きとしている。
「ヨン様 そっくり! 」
その声に船上の人びとはどよめいた
「望遠鏡で見てごらん」
ほんとうにはにかみながら
上を見上げて笑っている顔は
「ああ! 南のソナタ! 」
ベトナムが
一人の青年の立ちつくしている姿で
急にいとしくなる
船が動き出すと
波止場の突端まで追いすがって来た青年!
けわしい顔で物を売りつけていた人びとの印象がうすれて
涙が出そうになつかしくなったダナンの土地よ
私は新藤の年齢も高橋の年齢も知らないが、たぶん新藤の方が年上のはずである。しかし、この連詩を読むと、新藤の方が好奇心が強く、視線が内から外へ外へと向かうのに対し、高橋の視線は外から内へ帰ってくる。そんな印象がある。
高橋の内面への旅、新藤の外への旅、それが交互におりなされ、動きだす。つづきが楽しみな連載である。