詩はどこにあるか(28) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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西脇順三郎「近代の寓話」(「定本西脇順三郎全集Ⅰ」筑摩書房)


考える故に存在はなくなる
人間の存在は死後にあるのだ
人間でなくなる時に最大な存在
に合流するのだ私はいま
あまり多くを語りたくない
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやつている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ

 形而上学的な問題(人間の存在は死後にある云々)と「お湯にはいる」こととが同じ次元で語られる。この唐突なことばの出会いに「詩」がある。
 また「お湯にはいる」はきわめて肉体的な感覚である。
 形而上学と肉体との出会いが唐突で楽しい。

 この詩は、

アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうつている

とつづくが、この「たおやめ」から「女同士で碁をうつている」という展開も楽しい。女性が横になって(くつろいだ感じで)碁を打つ――碁というのは、多くの人にとって男がやるものだろう。それを女性が横になって打っている、というのは刺激的だ。
 こうしたことばが引き起こす乱気流のようなものにも、西脇の「詩」がある。