嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(110) | 詩はどこにあるか

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* (そして非在は湖を閉ざした)


ぼくの歩く音のみがきこえてきた

 「湖を閉ざした」の「閉ざす」はどういう意味だろうか。湖への入り口がなくなった、ということか。そこにあるけれど、そこに入ることはできない。
 あるいは「非在」と「閉ざす」は同じ意味かもしれない。
 湖が消える。消えたけれど、湖の記憶がある。ここに湖があったはず、と思いながら「ぼく」は歩く。歩きながら、非在の湖を思う。あるいは、いま、ここに非在だからこそ、湖を思うことができる。
 非在は、そのとき比喩になる。
 しかも「非在の湖」という超越的な比喩に。比喩でしか(ことばの運動でしか)存在し得ないものになる。
 そのとき、「ぼく」も消える。非在になる。しかし、「歩く音」は存在する。「ぼく」が存在した証として。
 「聞こえてきた」は、すこしむずかしい。この「きた」は過去形ではなく、現在形である。電車がホームにはいってくる。そういうとき「あ、電車がきた」という「きた」に似ている。「到来」である。「ぼく」が消えたことを認識する、その認識が「音」として到来するのである。

 

 


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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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