大九明子監督「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」(★)(キノシネマ天神、スクリーン1、2025年04月27日)
監督・脚本 大九明子 出演 河合優実、萩原利久、伊東蒼
いま評判の河合優実が出演するというので、知人からもらった券で見に行ったのだが。券をくれたひとに申し訳ないが、時間の無駄、としかいいようのない作品。とても映画とは言えない。
監督は脚本も書いている。舞台なら、まだ見ることができるかもしれないが、映画では、とても見ていられない。大事な部分が、ただ「ことば」。長々としゃべる。舞台なら、役者の「呼吸」が、空気の振動としてつたわってくる。そこから人間の「存在感」がつたわってくる。しかし、映画では役者の「呼吸」は空気のなかにつたわってこない。だから、長丁場のせりふはむずかしい。「意味」なんか、たいくつなものである。しかも、いまの若者は、「ことば」を持たない。あんなたいくつなことばをながながと聞かされては、もう、あくびさえでない。
特に、クライマックスというか、ラストの「せりふ」がひどいなあ。
スピッツのなんとかという曲(タイトルを忘れた)を大音量(ボリュームのレベルを100)にして萩原利久が語る。人間の声はスピーカーに負けるから、その声は河合優実に聞こえないはず。実際、せりふのなかにも、「僕の話している声は君には聞こえない」というようなこどばがあるのだが、それを、なんと、大音量のスピッツの曲を絞り込み、萩原利久の声が聞こえるように「演出」している。あほらしい。こんな馬鹿げたトリックで、いったい何を表現したつもりなのか。
だいたい映画は映像がすべてで、せりふなんかいらないのだ。
韓国の「風の丘を越えて」のクライマックスでは、盲目の姉が弟の太鼓にあわせてパンソリを歌う。そこでは「声」と途中から消え、フルートの音にかわる。息づかいだけが、空気を動かす。ことばはないが、あるいはことばがないからこそ、姉の口の動き、弟の手の動きで「こころの声」が聞こえる。こころのなかで叫んでいる姉、その叫びをしっかりと受け止める弟。パンソリがおわっても、弟は何も言わない。姉も何も言わない。しかし、観客は、ふたりのこころがしっかりと抱きあったことを知る。もし、そこにことばがあったら、肉声があったら、観客には、ふたりのこころの声が聞こえない。感動しない。ことばがないから、息づかいだけがあるから、感動する。感動とは、あたえられるものではなく、あの場にあわせて、観客のこころが勝手にことばを発するときに生まれる。こらえてもこらえても、こらえきれなくなってこぼれてしまう涙。それが感動である。その瞬間を映像でつくりだすのが映画なのだ。
大九明子がどんな映画をつくってきたか知らないが、映画失格の作品である。
たぶんこの監督は、映画よりも、脚本よりも、「小説」の方が向いているかもしれない。しかも、その小説は、いわゆるエンターテインメントの小説。安直なことばで、ストーリーをつくり、安直などんでん返し、ハッピーエンドで幕を閉じる小説が向いている。
この映画で言えば、河合優実が「幸せ(しあわせ)」を「さちせ」、伊東蒼が「好き(すき)」を「このき」と言うところが、いわゆる「伏線」なのだが、こんなばからしい「伏線」しか、いまの若者は理解できないのか。ごていねいに、クライマックスでは、その「謎解き」までしてみせている。あまりにも観客をばかにしている。そんな説明など、してもらわなくても、わかる。
もしこの作品を「映画」にするのだったら(「映画」としてつくり直すのだったら)、最後のクライマックスのセリフのシーンを、萩原利久の口の動き(表情)、それを聞いている河合優実の目の動き(表情)だけにしてしまい、セリフそのものをスピッツの曲で消してしまうことだ。「風の丘を越えて」のように。それでもふたりの思いが観客につたわるなら、それは映画といえるだろう。それができないなら、単なる「粗筋」。
河合優実が出演する映画を、私は「あんのこと」「ナミビアの砂漠」「敵」と三本見てきた。今回の作品は四本目だが、今回は、見どころが何もない。これまでの作品は、河合優実の演技がよかったというよりも、河合の演技を引き出す技量が監督にあったということかもしれないとさえ思った。少なくとも、河合優実には「脚本」を読み、映画になるかならないか判断する能力はないのかもしれない、と私なんかは思ってしまった。
ともかくひどい作品。河合優実と伊東蒼が「役」を入れ換えた方が、河合は魅力的な演技をできただろうと思う。そういう意味でも、河合優実には「脚本」を読む力がない、と思ってしまうのである。河合優実を見たいという気持ちは、完全に消えてしまった。
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