野沢啓「言語暗喩論のたたかい」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

野沢啓「言語暗喩論のたたかい」(「イリプスⅢ」11、2025年04月15日発行)

 野沢啓「言語暗喩論のたたかい」が書いているのは「言語暗喩論」ではない。彼の評論が、いま、現代詩(あるいは批評?)のなかで、どう評価されているか、という問題である。いや、野沢の論が評価されないのはなぜか、という問題である。
 野沢は、いったい野沢の周辺にいる「批評家(評論家)」たちがどういう人間なのかを明るみに出すために「小野十三郎賞」に「挑戦」した。ここでの「挑戦」というのは「受賞」をめざした挑戦ではなく、選者の批評眼を判断するための挑戦である。野沢の評論は受賞しなかったが、それは三人の選者が野沢の論を理解できなかったからである、というのが野沢の結論である。野沢の論が理解できれば、野沢が受賞したはずである、というのである。
 ある選考委員の評価を引用したあと、野沢は、こう書いている。

みずからは詩の根源に迫ろうとする力業に挑戦しようとしたことも考えたこともない人間が、なんのリスペクトもなしに他者の仕事をこんな安手な屁理屈で片づけようとするのは失礼であるばかりか批評する力の不在をしか示していない。こんな人間がひとの本を読まずに選考することはおこがましいだけだ。

 ここからは、野沢が野沢の仕事を「詩の根源に迫ろうとする力業」ととらえていることがわかる。そしてそれは「リスペクト」されるべきものだととらえていることもわかる。そして、それをしないひとを「失礼であるばかりか批評する力の不在」した人間だと断定している。
 私は、ここで批判されているひとが「批評する力」を欠いた人間か、判断はしない。
 ひとは他人のことばを読むのは、何も筆者がやろうとしていることを理解するためや、筆者をリスペクトするためではないだろう。選考委員だって、同じだろう。私は、そういう目的で、だれかの本を読んだことなど一度もない。ただ、そこにある「ことば」と向き合ったとき、自分のことばがどう動くかを知りたいだけである。「私を知る」ため以外に、本など読まない。新しく動き始めることばを、あ、これが私なのかと思って、読み、書くだけである。そして、その思ったこと、書いたことにも、私は執着はしない。それは「過程」にすぎないから、すぐ忘れてしまう。それで困ったこともない。そのとき、あることばといっしょに動いた、ということにだけ興味がある。
 そのとき、私のことばが正しく動いたかどうか、それを判断するのは読んだひとであって、書いたひとではない。さらにいえば、書いたひとが「正しい」と思っていることは、別なひとから見れば「屁理屈」であるかもしれない。他人の理解を問題にしてもはじまらない。ひとは、それぞれが、それぞれの「流儀」で考えるだけである。そうした「勝手」を拒否していたら、ことばから楽しさが消えてしまう。
 もし「正しい」ことが限定されているなら、こんなに本が世界にあふれていることはないだろう。みんな、それぞれ「正しい」と思っているから、読みきれない数のことばがあふれているのだ。ある意味で、すべてがわがままな屁理屈にすぎない。屁理屈を承知で、ひとは、他人のことばにつきあうのではないだろうか。
 好きな著述家のことばは何度も読み返すが、それは、またいっしょにことばを動かしてみたいと思うからである。尊敬も、軽蔑もしない。だいたい、読み返すたびに、私のことばは違った具合に動くから、尊敬とか軽蔑とかは、意味がない。
 あ、脱線したが。
 先に引用した野沢の文章の最後の部分。

こんな人間がひとの本を読まずに選考することはおこがましいだけだ。

 そうなのかなあ。
 繰り返しになるが、ひとはだれでも読みたい本だけを読む。それでいいんじゃないだろうか。選考委員だって、それでかまわない。
 これは、逆に考えてみればいい。ある賞に選ばれたからといって、その作品(本)を私が読んでみて、何か感じるか、感じないか、私のことばが動くかどうかが問題である。賞は、読者がその作品を読むきっかけのひとつにすぎない。それ以上の意味はない。だから、小野十三郎賞には選ばれなかったけれど、今回の野沢の文章を読んでみたいと思うひとも出てくるかもしれない。もしかすると、野沢も、そうしたことを期待して今回の文章を書いたのかもしれない。受賞と同じように、「宣伝効果」はあったということにならないだろうか。
 さらに言えば、選考委員のなかに、野沢なんか大嫌いだ、野沢には絶対に賞をやらないというひとがいたってかまわないだろう。野沢の作品よりも、ほかのひとの作品の方が優れていると思うけれど、野沢にお世話になっているから(野沢を批判するといつまでも批判され続けるから)、野沢に賞をやってしまえ、と思うひともいるかもしれない。人間なんだから、どんなことでもする。それでいいんじゃないだろうか。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。

お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com