リュウ・ジャイン監督「来し方 行く末」(★★★★★)(2025年04月25日、キノシネマ天神、スクリーン3)
監督 リュウ・ジャイン 撮影 ジョウ・ウェンツァオ 出演 フー・ゴー
ファーストシーン。主人公がベンチに腰掛けている。このシーンを見た瞬間に、★5個。映像が、その絵画的空間処理が、とても美しい。主人公はベンチの左端(スクリーンで言うと右端)に座っている。反対側が、どれくらいの長さかはわからないが、背もたれが広がっている。主人公の左側(スクリーンでは右側)は、ベンチの背後の植え込みの緑。その向こうには北京の街。この「画面分割」が、とても美しい。ちょっとセザンヌを思わせる。セザンヌが大好きな私は、もう、これだけで大満足。
もちろん絵画的すぎる、という批判もあるかもしれない。しかし、このフレームは、カメラの演技ではない。カメラはいたずらに動かない。ただ、そこに据えられている。それがすばらしい。役者が演技をするのは当然だが、こういう画面を見ていると、まるで「街」そのものが演技しているような感じで迫ってくる。スクリーンのなかにあるだけで、それが「現実」になってくる。
どのシーンも、カメラが演技して、人や風景に近づいてゆき、そこから何かを引き出すのではなく、ただカメラがそこにあり、そこに映り込んだ街なり、さまざまなものの存在なりが、自然にそれぞれの位置を占める。そこから「生活」が存在していることを浮かび上がる。私は猫が怖いし、猫が大嫌いだが、この映画では、その猫さえが、まったく自然。
唯一、あ、これは「絵」を狙っているというシーンがある。主人公が、部屋の中の鉢植えを、光のなかへ動かす。(日が動いたので、その日の光にあわせて、鉢を動かす。)しかし、これも、私はいいなあと思う。「絵」にしているのはわかるのだが、それにあわせて「ことば」があるわけではなく、単に、主人公の「日常」として挿入している。このシーンがないと、この映画のカメラの魅力(実力)を見落としてしまうかもしれない。
いいなあ、いいなあ、と叫んでしまいそうになるのが、動物園の白熊のシーン。主人公は、白熊を見ない。背を向けている。その背後を白熊がゆったりと歩いていく。エリアのなかをひとまわりして、また主人公の背後を通りすぎていく。私が白熊が好きだからか(トラも大好き)、あ、このシーン、もう一度見に来ようかな、と思うくらい感心してしまった。主人公になって、そこに座り、その背後を白熊が通りすぎていったらいいだろうなあ。だれか、私の姿を、この映画みたいに動画にとってくれないかなあ。主人公になってみたいなあ、と心底思った。
この主人公のアクションをしてみたい、とか、このセリフを言ってみたい、ではなく、その主人公になって、ただ「撮られてみたい」というか、その「世界」に入ってしまいたいという感じ。主人公は、白熊が背後を通りすぎ、もう一度通りすぎることなんか、知らないのだが、その「知らない」ことをだれかが見ている、知っている、という、この世界。いやあ、いいなあ。ほんとうに、いいなあ。
そして、これはたぶん、この映画のテーマとも非常に密接な関係にある。
主人公は弔辞の代筆をやっている。主人公が、死んだひとを知っているわけではない。知らない。それなのに、故人を知っているひとから話を聞き、そこから弔辞をつくりあげる。ちょっと変な仕事なのだが。「知らない」ことでも、「知らない」に出会いながら、そのとき何かが起きる。他人から聞いた故人のエピソード、あるいは周囲のひとのことば。それは主人公とは無関係であるはずなのに、どのことばにも主人公は「自分」を見いだしてしまう。ことばのなかには「人間」がいる。ことばとは人間そのものだから、どうしてもそうなるのだが、ひとは「他人」のなかに常に「自分」を見る。他人を見ないことには、自分が見えない。「ことば」にふれない限り、自分を発見できない。
それに類似したことを主人公は、最後の方でちょっとことばにするが。
それがねえ、なんともいえず、白熊のシーンに重なるのである。上手く説明できない。説明する必要がないのかもしれないが。
最後の最後、もうひとりの主人公が、セーター姿でなくなるのも、いいなあ。大事な部分、決定的なことは、映像だけで見せる。映画は、やっぱり映像が勝負。ストーリーやセリフなんか、関係ないなあ。久々に「傑作!」と叫びたくなる映画。
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