こころは存在するか(50) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 Isabel Allende「Inés del alma mia」(penguinlibrosUS)に、こんな文章がある。 

Alcansó a estirar la mano para separar el mosquitero, pero se le heló el gesto al sentir la punta de mi daga en el cuello, detrás de la oreja. (70ページ)

 私は「mi daga」の「mi」に感心して、 読んでいる途中で、「ここが文学のおもしろいところですね」と思わずモニカ先生に言ってしまった。先生も「そうそう」と言う。
 dagaは、まあ、小さな刀。前にカディスで買ったと出てくる。そのときは「una daga」。二度目なので「la daga」で大丈夫というか、ふつうは「la daga」になると思う。でもイザベル・アジェンデは「mi daga」(私のナイフ)と書いている。「私のものである」を強調している。ここに、自分の安全(自分の身内の安全)を守るという強い意識があふれている。
 定冠詞を所有冠詞にかえる。そこに、「こころ」が動いている。
 私が考えているテーマは「こころは存在しない」なのだが、便宜上、ここでは「こころ」をつかって説明すると……。
 「こころ」は存在しない。「こころ」は、その瞬間その瞬間、作り出されるものである。ここでも「そのナイフ」ではなく(日本語の場合は、ただ「ナイフ」と書くのがふつうかもしれない)、「私のナイフ」と書くことで「私のこころ」が作り出されているのである。つまり、「強調」されている。
 文学を読むとは、そういう「強調」を読むことだと思う。「ストーリー」ではなく、作り出されるこころのありようを、強調を通してつかみ取ることだと思う。その強調の仕方は、作者によって、まったく違う。

 「こころ」は存在しない。しかし、ことばは存在する。
 「肉体」は存在するが、これは「私」が「誕生してから(生まれてから)」はじめて存在するのであって、それまでは存在しない。同じように、ことばも「発せられて(誕生して/生まれて)」はじめて存在する。作り出されて、はじめて存在する。
 私の「肉体」が存在したとき、同時に他の「肉体」も存在した。もちろん誕生してすぐにはそんなことは知らないのだが。「ことば」も「作り出した」とき、そこにほかの「ことば」も存在し、私が作り出した「ことば」に対していろいろな反応をする。「ことば」を作り出しながら、そういう「反応」を想像し、また「作り替えながら、作り出す」ということをしているのが、「ことば」を発するということだと思うが。
 「肉体」が存在するとき、周囲の「肉体」のなかに生きているさまざまな要素。簡単に「要約」すればDNA。同じように、「私のことば」が存在するとき、周囲のことばのなかのさまざまな要素、DNA(私はこれを「ことばの肉体」と勝手に呼んでいる)があり、それは「私のことばの肉体」のなかにも忍び込んでいる。隠れている。
 そういうものが、何と言えばいいのか、イザベル・アジェンデの書いた「mi daga」の「mi」にもある。それを、私は直覚し、「あ、おもしろい」と思う。こういう「おもしろさ」に出会えるのが、ほんとうの「文学」。「文学」のなかに、ことばは生きつづけている。