小倉金栄堂の迷子(7)20250421 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 人込みのなかを通って帰って来たことばから渡されたことば、人込みのなかから返ってきたのにどんな匂いもしないことば、空虚なことばを、私は、私のなかのどこにおけばいいのだろうか。そう考えつづけた夜、鉄橋で止まっている貨車の夢を見た。長い長い貨車で、それが通りすぎたあと、その向こうに夕焼けの海を見た記憶がある、その貨車は、いま、橋の途中で止まり夢を見ているという夢を見ていたのだった。橋の下、暗い川を本が流れている。流れながら、水にページをめくられ、ゆらゆらとページをめくられ、文字が、ことばがゆっくりゆっくり水に身を任せ、オフィーリアにある。そういえば、ことばはいつだったか「千人のオフィーリア」という詩を書いてみたいと考えたのだった。私、「千人のオフィーリア」になる夢を見たことがあることばのなかで、次々にオフィーリアは流れては死んでいくのだが、それを語ることばだけは死なずに流れていく、流れながら少しずつかわっていく。流れとは、時間のことだった。その運動は空虚なのに、空虚ではなく事実なのだ。なぜなら、その背後には時間があるからだった、と考えたのは、人込みのなかを通って帰って来たことばなのだが、それを渡すはずのことばは、人込みのなかから帰って来たことばを待っていなかった。どこにもいなかった。