パオラ・コルテッレージ監督「ドマーニ! 愛のことづて」 | 詩はどこにあるか

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パオラ・コルテッレージ監督「ドマーニ! 愛のことづて」(2025年04月19日、KBCシネマ、スクリーン2)

 

監督 パオラ・コルテッレージ 出演 パオラ・コルテッレージ、バレリオ・マスタンドレア

 

 朝、ベッドで夫が目を覚ましている。妻が起きると、いきなり平手打ち。最初は理由がわからない。これが、なかなか、おもしろい。

 第二次世界大戦後のイタリアが舞台で、まだ男尊女卑の風潮が残っている。そこから女性が立ち上がる(選挙権を獲得する)までの過程を描いている。といっても、その過程はあくまで「背景」であり、前面には出てこない。これはなかなか憎い手法である。

 おもしろいシーンがいくつもあるのだが、私が気に入っているのは、主人公のパオラ・コルテッレージが昔の恋人と会うシーン。アメリカ兵からもらったチョコレートを一切れずつ口にする。そして、笑う。そのときチョコレートが二人の歯にこびりついている。いわば、汚い歯が見える。これが濃厚なキスシーンよりも、エロチック。いいなあ。彼らはチョコレートを食べることでキスをしている、セックスをしている。キスもセックスも、他人に見せるものではない。ふたりで味わうもの。

 で、というか、さらに、というか。

 この「口」が、バリエーションをかえて、おもしろい形で展開する。

 パオラ・コルテッレージが親友の女とたばこを吸う。この時代フィルターはまだなかったから、葉っぱが口につく。(歯につく?)それを彼女は何回も指でつまんで捨てる。たぶん、女がたばこを吸うことは、まだ許されていなかった時代なのだろう。口のなかにたばこが残っていたら、彼女はまた夫から殴られる。だから、気をつけているのである。(たばこも、とても重要な小道具なのだが、書くと長くなるので、これは省略。後半にとてもいいシーンがある。)

 問題になるのは、彼女の口だけではない。パオラ・コルテッレージには娘がいる。その娘が婚約をする。婚約後、娘が口紅をつけて美しくしていると、男が口紅を拭き取れ、という。ほかの男に「美しい」ところを見せるな。ほかの男に媚を売るな、おれだけのために奉仕しろ、というのである。娘は、どうしていいかわからない。パオラ・コルテッレージは「このままでは、娘は私と同じ目にあう」と思い、行動に出る。その引き金が「口紅(口)」。

 この「口と口紅」は最後のシーンで、とてもおもしろい形でもう一度登場する。女性に参政権が認められた最初の選挙。投票用紙に名前を書く。封をして投票する。そのとき封は、昔の封筒のように舐めて閉じるのだが、「口紅を拭き取れ、投票用紙に汚れがあると無効になる」と男の係員が告げる。女たちは口紅をぬぐって、それから封を舐める。投票する。(しかし、その前には、トイレでパオラ・コルテッレージは入念に口紅を塗る。シャツも着替える。つまり、自分自身を最高の「美」に高める。)

 これは一種の「女性蔑視」のような風潮(当時の)にも見えるが、パオラ・コルテッレージがあえてこういうシーンを入れたのは、逆の考えがあるからかもしれない。口紅なんか関係ない。口紅なんかに頼らなくても、女は生きていける。そういうことに目覚めた(女の自立の一歩)象徴として口紅をぬぐうを取り上げているかもしれない。もし口紅を塗るとしても、それは男のためではない(口紅をぬぐうとしても、それは男の奴隷になるためではない、美しいドレスを着るのも男のためではない、自分自身のためだ)と言いたいのだろう。男の「形式」なんか気にしていない。男は「形式」で満足するが、「形式」で女は満足できない。「形式」なんか、いつでも壊してやる。そういう「気迫」があふれている。ラストシーンに、口紅をめぐって婚約者と対立した娘が顔を出しているのも、その「理由付け」となるだろう。娘は、母(の強さ)を理解したのである。

 パオラ・コルテッレージのことを私は何も知らないが、とても意思がしっかりしていると感じた。あれこれ書かないが、それぞれのシーンが緊密につながり、人間の姿を浮かび上がらせている。

 そういう意味で、どうしても書いておきたいのが、この映画のなかにつかわれる音楽。単なるバックミュージック(ムードの盛り上げ)におわっていない。パオラ・コルテッレージとバレリオ・マスタンドレア(夫)がダンスするシーンが傑作である。男は女を殴りたい。ダンスのなかに、そういう衝動が入り込む。同時に、ダンスは肉体の接触だから(殴ることも肉体の接触だけれど)、そこに愛欲もまぎれこむ。けんかしていた二人がセックスをすることで仲直りするというのは、まあ、安直なストーリーによく登場するシーンだが、ここには何か、暴力に耐えながら、それでも夫といっしょに生きている女の不思議さもひめられている。

 ついでに。娘の恋人の父親。あれはジャン・カルロ・ジャンニーニではないだろうか。あの下品と上品が瞬時にいれかわる生々しさ(アラン・ドロンのように)、どこかに哀愁を秘めた大きな目。リナ・ウェルトミューラー監督が巧みに彼の個性を引き出していたが、私は、この俳優が好きである。