中編【鬼将軍史観による日本史の天下統一】 | 螢源氏の言霊

中編【鬼将軍史観による日本史の天下統一】





目次
前編【鬼将軍史観による日本史の天下統一】
中編【鬼将軍史観による日本史の天下統一】
後編【鬼将軍史観による日本史の天下統一】




■鬼将軍式の時代区分



改めて、鬼将軍による日本史時代区分の新案を見てみよう。




鬼将軍案 新時代区分法の詳細。




なお、当新区分は、以下のような基準を定めることによって極力、矛盾のないものに仕上げたことを自負している。


まずは目次だけを羅列する。



①日本の国家原則を定義している

②共同体・中央政府名を時代名に

③政権の中央政府化を始期とする

④連続性のある中央政府は一括り

⑤中央政府の交代・改称で区切る

⑥政治体制で時代を大別している

⑦政治体制の変容と国号の変更とが重なれば、中央政府の改称とする

⑧中央政府内の政変・政権成立は区切らない




今回の記事から詳細に解説してゆきたい。




①日本の国家原則を定義している



そもそもの話だが、従来の日本史歴史区分は、「日本史」と銘打っているクセに、日本がいつ建国されたかを明らかにしていない。


まぁ、建国されたのが昔すぎてよく分からないというのが実情だが、どうも意図的にボカしているような気がする。





そのせいで、日本が建国されたのは明治維新や終戦と誤答する日本人を生んでしまったのが、戦後教育の罪業である。


国史を学ぶ以上は、断定はできなくとも建国の時期を明らかにすることが重要で、もしそれがないなら土台のない建築と同じだ。



建国時期、国家体制、政治体制など、これらを総称して国家原則と呼ぶが、これこそが歴史を学ぶうえでの必要不可欠の土台となる。


鬼将軍史観における国家原則がこれだ。



・日本とは、西暦181年頃に神武天皇によって建国された国家である。現在は、天皇を象徴とした立憲君主制をとっている。


・日本の国体こくたいとは、天皇を中心とした国家体制である。天皇家による王朝を担保としており、交代することなく、現在も継続している。





ちなみに、神武天皇の即位=日本の建国の年を西暦181年頃と定めているのは、歴史研究家の八木荘司やぎそうじ氏の説に基づいてのことである。




②共同体・中央政府名を時代名に



これが、当時代区分の主軸となるものだ。


先述のとおり、「どんな連中が日本を仕切っていたか?」ということだが、人間を中心にして考えるのが歴史の基本であり、最低条件だ。



日本史の場合は、天皇を中心にして考えるのが妥当であり、日本が建国される以前は共同体、つまり集団や小さな国を基準にする。


したがって、縄文時代は「部族時代」となり、弥生時代は「小国時代」となる。





部族とは、村や集落を率いていた原始的集団、小国とは、邪馬台国や奴国など、当時の中国の文献にも載っているクニのことである。


そして、日本が建国された後に基準となるのは「中央政府」という概念であり、鬼将軍史観においてはこう定義される。



・中央政府とは、天皇、ならびに天皇の同意を得た者によって創設された、独立的と排他性を有した政権および統治機構。地方政権の対。



簡単にいえば、朝廷、幕府、政府のことだが、そのなかでも天皇の同意を得た、公的な政権というものに限られる。


もちろん、ヤマト王権(朝廷)は、天皇からの同意を得ているというより、天皇自身が率いる統治機構なので、これも含む。



これは昔でいう「天下」とほぼ同意義であり、中央政府の実権者や代表者のことを「天下人」というので、近代的な概念にとどまらない。


そして、朝廷時代よりも後は天皇から「日本の統治を任せる」と言われた連中が仕切っている組織のことだ。



されども、承久の乱以後の鎌倉幕府のように、天皇から同意されたというより、武力で脅して無理やり「同意させた」というケースも含む。


江戸幕府に至っても、ほとんど天皇家に圧力をかけて成立したようなものである。




③政権の中央政府化を始期とする



なんで、中央政府に限っているのかといえば、いちいち地方政権を拾い上げて〇〇時代としていたらキリがないからだ。


源頼朝によって創建された直後の鎌倉幕府は、まだ中央政府になっていないので、当区分では「朝廷時代」が続いている。



承久の乱で朝廷を従えることで、ついに幕府は中央政府になれたので、この時になってやっと「鎌倉時代」が始まるわけだ。


どうだろう、こう定義することで、鎌倉時代の始期は1185年だ!や1192年だ!とかいう、しょうもない議論を封殺することができる。





また、当時代区分を用いることで、室町時代に南北朝時代と戦国時代が重なっている、という問題も解決することができる。



室町幕府が中央政府になったのはいつなのか?


1336年、足利尊氏によって創建された時は、すでに光明天皇からの同意を受けていたので、立派な中央政府といえる。



だが、ほぼ同時期に、後醍醐ごだいご天皇が吉野に亡命して「南朝」という朝廷を打ち立てたことで、日本に朝廷が二つあるという以上事態が発生。


すなわち、室町幕府と南朝、二つの中央政府が日本に存在していたことになるが、中央政府が二つ存在することはあり得ないのだ。





先ほどの定義を思い出してほしいが、中央政府とは、「排他性を有した政権および統治機構」である。


法律用語においては、排他性とは他を排除するという意味より、「重複しない」という意味が大きいのだ。



結論からいえば、室町幕府と南朝という二つの政権同士が重複してしまった以上、どちらとも中央政府とは呼べない。


これは困った…!当時の人もそう思ったに違いないだろうが、空白にする訳にもいかない。



なので、当時代区分では、室町幕府(北朝)と南朝を合わせた「両朝」という名の中央政府があったと擬制ぎせいする(見なす)ことにしよう。





なんで従来どおり「南北朝」とは呼ばないか?

それについては後述する。



そして、1392年に南北朝の合一がなされて、めでたく室町幕府は唯一の統治機構、すなわち中央政府となったのである。


当時代区分では、この時点から「室町時代」の始まりとしたい。





南北朝合一後の1414年に、「後南朝」という勢力=政権が、後亀山天皇を支持して挙兵し、幕府に対抗を続けた。


この事件も、天皇から同意された政権の成立=中央政府の成立と見なせないこともない。



だが、天皇はすでに出家して後亀山〝法皇ほうおう〟となっていたので、〝天皇〟の同意とはいえず、よって後南朝は中央政府とは定義できない。


いうなれば、高度に発達した論理は、屁理屈と区別がつかないのである(笑)




④連続性のある中央政府は一括り



中央政府とはいっても、数年で消滅したり崩壊したりするケースがある。


かなり短期間なのに、中央政府の交代のたびに〇〇時代と区切っていれば、煩雑きわまりないうえに時代名だけが増えるいっぽうである。



比較的短期間のうちに終わった中央政府たち。



建武けんむ政権:1333年〜1336年(約3年間)
三好政権:1549年〜1568年(約19年間)
織田政権:1573年〜1583年(約10年間)
豊臣政権:1585年〜1603年(約18年間)



上記が、中央政府の定義に当てはまる政権だ。


こまごまと、建武時代、三好時代、織田時代、豊臣時代と銘打っていたら年表が大変なことになってしまうので、どうかこれは避けたい。



いわゆる「安土桃山時代」(織豊時代)とは、その名の通り織田政権と豊臣政権の総称だが、異なる政権を合わせているのはなぜか。


それは両政権に「連続性」があるからだ。



豊臣秀吉の政策は、そのほとんどが織田信長を継承したものだし、制度面でも踏襲したものが多いので、連続性があるといえる。


連続性のある政権は合体させることによって、時代区分が細切れになるのを防ぐという意図があって「安土桃山時代」が作られたのだろう。





しかし、三好長慶みよしながよしが打ち立てた「三好政権」が仲間外れになっているではないか。


ハッキリ言って、織田信長の政策のほとんどが三好長慶のパクリであり、三好政権の諸制度を踏襲したものが織田政権なのである。



これは近年の研究で明らかになったことだが、徳川幕府も三好長慶のことを「天下人」として認めていたらしい。


三好長慶はマイナーだが、オリジナリティーがほぼない織田信長よりも、もっと評価されてもいい人物だといえる。





ここで、三好政権→織田政権→豊臣時代という連綿とした中央政府の流れがみえる訳だ。


だが、この政権たちを区切っていたら細切れになるので、「連続性のある中央政府は一括り」というルールに従ってひとつにしたい。



そこで私が命名したのは「大名時代」であり、この三政権を「大名による非幕府型の政権」の中央政府として一括した。


この三人の天下人の共通点は、「大名」であること、政権の類型が幕府ではないこと=将軍になっていないことである。



三好長慶は守護大名で、織田信長は室町幕府が滅びるまでは戦国大名だが、秀吉はそのどちらでもない。


だが、大名とは「広い領地を持っている武士」という意味なので、秀吉もこれに当てはまる。





三好政権の前には細川政権があったが、これはあくまで室町幕府内での政権なので、独立性が認められず、中央政府とはいえない。


もちろん、江戸幕府は三政権を踏襲していないどころか、それまでとはまったく異なる制度や政治システムを生み出したので連続性もない。



すでにお気づきかもしれないが、当時代区分においては、「戦国時代」という時代が成立する余地がなくなってしまったのだ。


中央政府を時代区分名としている以上、これは必然のことであり、戦国時代という時代名は、軍事史や文化史として扱いたい。



また、これによって従来の歴史区分において、室町時代と戦国時代とが重なってしまっているという問題が解決される。


室町時代→大名時代→江戸時代、これらが重複することなくスッキリと区分できるのである。





ここから少し話が変わる。



先ほど、当時代区分における「両朝時代」は、なぜ従来どおり「南北朝時代」と呼ばないか?ということを述べた。


それは、南朝と北朝が成立する以前にあった、「建武けんむ政権」(建武の新政)という中央政府があった時代も含んでいるからだ。



まだ、南朝/北朝という中央政府が成立してはいない時点で、南北朝時代と呼称するわけにはいかない。


そして、建武政権の時代と従来の南北朝時代を一括しているのは、細切れ回避のためである。



従来の歴史区分においては、鎌倉時代の次には「(建武の新政)」という名の、きわめて短い空白期間が存在している。


その次に室町と南北朝が続く訳だが、先述したとおり、こんな細切れな時代区分は煩雑だし、そもそも「建武の新政」は区分名でもない。





慣習的には、建武政権の成立時も南北朝時代に含まれることが多いが、ここはやはり厳密性を追求して「両朝時代」と呼びたい。


なぜか?それを理解するために、まずは当時の一連の出来事をまとめよう。



1333年(建武の新政)

・鎌倉幕府の滅亡。
・後醍醐天皇、建武政権を樹立。


1336年(南北朝時代)

・建武政権の崩壊。
・足利尊氏、光明天皇を即位させ、室町幕府と北朝が成立する。
・後醍醐天皇、吉野に逃亡して南朝を開く。



1333年、鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が建武政権を樹立したことによって、再び朝廷の天下がやってきた。


いわば、朝廷時代が復活したということだが、建武政権が崩壊した後は、後醍醐天皇が開いた南朝にその政権が継承された。



もちろんながら、建武政権と南朝には連続性が認められるので、この両中央政府は一括して、そして南朝と北朝も便宜上、一括する。


建武政権(後醍醐天皇による朝廷)という名の中央政府と、南朝/北朝という名の中央政府、これを合わせて「両朝時代」と命名したのだ。





「南北朝時代」の始期は、後醍醐天皇が南朝を開いた1336年だが、「両朝時代」の始期なら建武政権の樹立時である1333年だ。


そして、両朝時代の終期は南北朝時代と同じく1392年、その後やっと室町時代が始まる。



これによって、従来の歴史区分では室町時代と南北朝時代が重なっているという煩雑さが解消できるのである。







⑤中央政府の交代・改称で区切る



当然だが、ある中央政府が断絶して、その後に成立した中央政府へと政権交代がなされたら、そこから新たな時代区分の始まりとなる。


江戸幕府から東京政府(今の日本国政府)に、中央政府がバトンタッチされたので、江戸時代から東京時代になったのである。





ちなみに、私は今の日本政府(明治政府)は、いずれ「東京政府」と呼ばれるのではないかと推測している。


もし、今の日本政府がクーデターによって崩壊させられ、新たに中央政府が樹立されたなら、きっとそう呼ばれるに違いない。



東京はゴミゴミしすぎだし、福島原発の影響もあるので、東京ではないどこかの都市が首都になって、新日本政府が樹立されるだろう。


少なくとも私が革命家ならそうする(笑)



明治維新の時、江戸は「東京」と改称されて、東京に都が遷り、政治と経済の中心地となり、今は深刻な東京一極集中が問題となっている。


東京を潰されたら、確実に日本政府は滅亡するだろうから、まさしく今は東京時代なのだ。





明治、大正、昭和、平成といちいち改元ごとに時代区分を区切っていれば細切れになるので、将来的には東京時代と総称されるだろう。


しかし当時代区分では、東京に首都があるから東京時代ではなくて、東京政府(日本政府)が中央政府なので東京時代と呼んでいる。




⑥政治体制で時代を大別している



通常の時代区分を補強するために、それを大別する時代区分が必要である。


それが、従来の歴史区分でいう、古代、中世、近世、近現代のことだが、先述のとおりこれは近現代限定の概念であり、普遍性は乏しい。


そこで私は、時代区分の大別のために「政体」(政治体制)という概念を用いることにした。



・日本の政体とは、天皇、または天皇の委任を受けた者によって運営された政治体制である。歴史上、断絶と交代を経ている。



国体は現在も継続しているが、政体は定期的に断絶しており、長くとも大体400年ぐらいしか保っていないというのが大きな相違点だ。


まず、部族時代と小国時代は、政治体制らしきものがないので従来どおりに「先史」とした。



次に、気になるのが「連合時代」という時代と「連合王朝体制」である。


これまで当ブログでも述べてきた通り、初代・神武天皇から第10代・崇神すじん天皇の時代までは、日本は出雲いずも族と日向ひむか族の連合王朝だったのだ。


どういうことかと言えば、天皇は日向族出身、皇后は出雲族出身にするという盟約だ。


なので、当時の日本の朝廷および中央政府名を「出雲・日向連合王朝」と名付けたい。





これは従来の歴史学の見解だけでなく、日本の正史とされている古事記や日本書記の内容とも異なる史観である。


この史観は、古代史研究家の原田常治はらだつねじ氏の説によるものである。


なお、「西暦181年頃に神武天皇が即位した」というのが当時代区分と私の史観だが、図表の画像は我々が知っている神武天皇ではない。


これは、ニギハヤヒという人物で、本当は彼が初代天皇だったということは、前回の記事でも述べた通りである。


181年に即位したのは神武天皇(イワレヒコ)だと私は言ったが、調査を進めていううえで、ニギハヤヒだった可能性も浮上した(笑)





数霊では、ニギハヤヒの数字は「9」らしく、「神(示申)」(10画)+「武」(9画)で、10+8=18、1+8=「9」となる。


「神武天皇」という漢風諡号は、8世紀後半に当時のとある貴族が命名したものだが、本当はニギハヤヒを指すものだったのかもしれない。




第0代 ニギハヤヒ=「真・神武天皇」
第1代 イワレヒコ=「後・神武天皇」



と呼べば混同が避けられると思うが、ちなみにイワレヒコはニギハヤヒの養子で、皇位継承を受けて、天皇に即位した。


ニギハヤヒは出雲族族長でその皇后は日向族、イワレヒコは日向族出身でその皇后は出雲族。


つまり、日向天皇・出雲皇后という盟約が開始したのはイワレヒコの時代からなので、彼こそ出雲・日向の連合王朝の創始者だともいえる。


しかし、181年に即位したのはニギハヤヒかもしれないので、無難に間をとって彼の肖像画にしている(笑)






現代風に描けばこうなる(モデルは三船敏郎)



イワレヒコが即位したのは、西暦241年である可能性が高いが、正直なところ不明だ。


そして第10代の崇神天皇が、皇后を出雲族にせぬまま即位し、これを先例に天皇家は以後、出雲排斥・日向偏向となっていゆく。


実際、記紀をみても、崇神天皇の代から皇后が出雲族出身ではなくなっているので、この時に連合王朝の盟約が破られたとみたい。





ならば、崇神天皇が即位した時点で出雲・日向連合王朝体制の崩壊ではないか?という疑問があるかもしれないが、そうではない。


もしかしたら、出雲族出身の女性を皇后とする可能性もあったかもしれないからだ。


しかし!!崇神天皇は「四道しどう将軍」と呼ばれる出雲族征討部隊を全国に派遣することにより、一挙に諸国平定と出雲族の排斥を断行した。


それからその翌年、国勢調査と税金徴収を実施したので、これはほぼ天下統一が達成されたとみて良いだろう。


八木荘司氏の説に従い、崇神天皇の諸国平定があったのは、西暦290年頃としたい。


image


こうして出雲族は天皇家から追い出され、その末裔である物部もののべ氏も奈良時代に没落し、完全に中央から排斥されていった。



崇神天皇は暴君といえば暴君だが、これも全て真の日本のドンであるヤタガラス(裏天皇)に操られてやってことだろう。


この時以降、日本の政治体制は、出雲・日向の連合王朝体制から、倭国王権体制に移行したと私はみている。


ちなみに「倭国王権体制」というのも私の造語だが、これは従来の歴史学でいう、倭国連合やヤマト王権の政治体制のことだ。


また、290年をもって、中央政府は出雲・日向連合王朝から、ヤマト王権に交代されたと私はみているが、天皇家は自体は同一である。





しかし、日向天皇・出雲皇后という連合王朝の盟約が破られた以上、以前とはまったく異質の中央政府が成立したと判断して良いだろう。


よって、連合王朝とヤマト王権には、中央政府としての連続性が認められないので、区別しているという訳である。


次に、倭国王権体制の次の「律令国家体制」は従来の歴史学でいわれている概念と同じだが、詳細は後述するとしよう。


ただし、〇〇国家体制という呼称であっても、当時代区分においては、国家体制(国体)ではなく、あくまで政治体制のことなので注意。





注目すべきは、701年に始まる「朝廷時代」は律令国家体制と皇朝国家体制に分かれている。


私が独自に、始期と終期を限定しているという違いはあれど、「皇朝こうちょう国家体制」とは歴史学でいわれている〝王朝〟国家体制と同じである。



だが、この頃はすでに大王ではなく、「天皇」という立派な名前がついていたので、〝王朝〟ではなく〝皇朝〟が相応しく思い命名した。


日本史教科書でも「皇朝十二銭こうちょうじゅうにせん」という用語が出てくるし、単に皇室万歳的な呼称ではない。





政治体制とは、時代区分を大別するものと先述したのは確かだが、朝廷時代は少し特殊だ。


なぜなら、中央政府(朝廷)は、まったく変容していないが、政治体制が大きく転換しているという事情があるからだ。


概念的にいえば、中央集権的な律令国家体制が形骸化したので、皇朝国家体制に移り変わったということだ。


中央集権とは、中央が地方を支配して、国家が国民一人一人を完全に把握して徴税するという仕組みで、実質的に今の日本もそうである。





具体的にいえば、朱雀すざく天皇の時代に藤原忠平ふじわらのただひらが個別人民支配体制から、土地課税基調体制へと転換したことで、律令国家体制が終わった。


今風にいえば、それまで住民税ばかり徴収していたら引越しする奴が増えたので、所得税から差っ引くようになった、という感じだろうか。


とにかく、律令国家体制は当時の現状に即しておらず機能していなかったので、朝廷が公式に現実的な政策転換を行なったということだ。


これによって、中央政府は交代していないが、律令国家体制から皇朝国家体制へと国家体制は移り変わったという見解ができる。


しかし、この当時の日本はただ税制が変わっただけではく、実はとんでもない大事件が起きていたのである。


それは「承平天慶じょうへいてんぎょうの乱」、つまり平将門たいらのまさかどの乱と藤原純友ふじわらのすみともの乱である。





彼らはすなわち、律令国家体制に不満を抱いて反乱を起こしたも同然なのではないかと、そう私は考えている。


時代錯誤な律令国家体制が、民を苦しめていた元凶であるのは事実なので、そのなか平将門は救民の理念を掲げて立ち上がったのだ。


将門は「新皇しんのう」と自称して朝廷に反逆したが、それは当時の天皇であった朱雀天皇に対抗してのことだった。


やがて将門は処刑され、その理念は潰えたが、彼が対抗した朱雀天皇(と藤原時平)こそが、新たに皇朝国家体制を始めた張本人である。


律令国家体制を排して、皇朝国家体制を始めたことで、民の生活が楽になったかは不明だが、裏にはこのようなエピソードがあったのだ。





次に、1221年の承久の乱から始まる鎌倉時代には「武将領地体制」という政治体制となり、それが明治維新(幕末)まで続いている。


武将領地体制という語彙もまた私の造語だが、そのまま「武将が領地を支配していた」という意味の政治体制名である。


一般的にいう武家政権のことだが、南北朝期は公家が領地を支配していることもあったので、武家(武士)ではなく〝武将〟領地体制だ。


北畠顕家きたばたけあきいえのように、下手な武士より遥かに戦が強い公家がいて、そんな彼らが領国経営をしていたので、一概に武家領地体制とはいえない。





領地を支配していたのは、共通して武将であるということであり、武家か公家かを問わない。


また、武将領地体制とは、従来の歴史学でいう守護領国制や大名領国制という概念を総称した造語である。


これらもまた、ちまちました論争があるので、ひっくるめて武将が領地を持っていたのは確かなので、私は武将領地体制と呼んでいる。


そして、江戸時代になり、戦がなくなってので「武将」は消え、領地は「領分りょうぶん」という名前がついて、江戸幕府の大名の管轄地となった。





実はこの「領分」とは、俗にいう「藩」のことであり、また武将領地体制とは「幕藩体制」とまったく同じ意味である。


では、なぜ呼称が違うのかと言えば、藩というのは明治期になって後付けされた名前であり、江戸時代当時は「領分」が公称だったのだ。



厳密には藩とは、明治維新から廃藩置県までのたった4年間しか用いられてない名前であり、それを過去に遡って当てはめるは不適切だ。



時代劇では〇〇藩や〇〇藩士という言葉が登場するが、あれはもちろん誤りである。


なので私は、従来的な「幕藩体制」ではなく、史料的にも「幕府領分体制」のほうが適切だと判断した次第である。


先述のとおり、鎌倉幕府や室町幕府というのも実は不適切で、なぜならば当時は政権のことを「幕府」と呼んでいなかったからだ。





なので、図表では鎌倉政権、室町政権と呼んでいるが、適切な語彙が他にない限り、なるべく当時から用いられている呼称が良い。


そして、明治維新後から現在まで続く政治体制である「主権国家体制」だが、これは一般的な用語と同義で、詳細は後述する。



後編へつづく。