因果倶時 -61ページ目

脱線事故

こういう事故が起きてみると今更ながら、JR西日本の新快速電車とかは、いつも相当なスピードを出していて、時々、これ大丈夫?、と怖く思うほど、車体がガタガタ振動していたのを思い出す。


JRは線路が狭軌だから、高速を出すのにはもともと無理がある。

まあそんなこと今更言っても、かわいそうではあるけど。



それにしても、列車は衝突事故を想定した車体になっていないのだろうか、事故が起きるといつもいつも本当にぐしゃぐしゃになる。

なんというか、ビール缶を靴で踏み潰したときのような、「ペシャッ」という感じだ。


列車の安全基準はちゃんと鉄道車両自体の構造にも及んでいるんだろうか?


気になって調べてみたが、車とちがって、鉄道車両の構造上の安全基準に当たりそうなものは、出てこなかった。



火災事故を想定していない、東京の地下鉄といい、どうも鉄道会社の安全意識は、過密運行を円滑にさばくための時間的な正確さ、ITを駆使した速度制限などの予防策ばかりにおかれていて、実際の事故発生時の被害者を少なくするほうの対策はかなりおろそかになっている気がする。


日本の鉄道車両はかなりファッショナブルで多様性に富んでいるけれども、海外の無骨さが、安全基準の観点からもそうなっているとしたら、少し学習する余地がありそうだ。




亡くなられた方は、本当に、一瞬の出来事だっただろう。

自分の身に置き換えて、家族のいるお父さん達の無念さを思うといたたまれない。

神戸の地震もそうだったけど、正に、一瞬先は闇。 怖いものだ。

新銀行東京

地下鉄に乗っていてはじめて知った。

 

「新銀行東京」という銀行が開業したらしい。

 

よくよく調べてみると、2004年にBNPパリバ信託銀行の株式を東京都が22億円で取得、さらに1000億を出資して今月業務を開始したとのこと。

 

 

銀行業界の社名に対するセンスは常々疑問視していたところだけど、この、「新銀行東京」になると、もう一体どうなのか?

英語名が、ShinGinko Tokyo Ltd.だ。 さすがに、ShinGinko Tokyo Bankとはいかなかったらしい(笑)

 

はっきり言って、この銀行名を考えた人たちは、この名前で「いける!」と思ってやったんだろうか???

はなはだ疑問だ。

まあ法人向け商売が中心になる会社だからいいか。

 

 

中小企業に対する、キャッシュフローを重視した無担保融資を展開していくということで、石原慎太郎さん肝入りのプロジェクトみたい。

 

それにしても、一方で郵便貯金による半官半民のような金融機関が問題視されているというのに、国のすぐお膝元で、差し迫った意味もなく、このような半官半民金融機関が設立されているというのは、一体、どうなっているんだろうか? あ、100%東京都だから完全公営銀行か。

 

今はお題目が素晴らしいように聞こえるし、いろいろ新しい取り組みをしようという姿勢が見えるけれど、こういう組織が、いつの間にか単なる無節操な融資の温床となり、都の隠れ資金運用先となり、都の幹部の天下り先となり、市場の混乱要因となる、、 ってありきたりの構図が目に浮かぶんだけど、大丈夫だろうか?

 

 

とにかく、政治家や役人の考えることは、いつも何やら見当外れだよな。

 

 

あまりニュースにもならず、銀行業界も口を閉ざしているというのは、石原慎太郎のご威光ってことか?

どうも、臭いよなぁ。

進路

強烈な二日酔いで頭がクラクラする。。

 

気を使ってくれるかと思いきや、

 

「そろそろ『オヤジ』なんだから飲み方を考えて」

 

と妻からは叱責。

 

 

 

昼過ぎまで寝こけていたが、息子の相手をする(直訳すると、“日中にとことん遊ばせて疲れさせて寝させる”と読む)、という、夫として現在もっとも重要な任務を果たすため、重い腰と頭を上げて、公園に向かう。

 

 

 

うちの子は2歳半で、まだ他の子供達と遊ぶことが出来ない。

ただ、他の子供達が遊んでいる様子には興味津々でじーっと見ている。

 

なーんて言って、実は父親同様、人付き合いの下手な人間になるのではないか???、と思うと内心ちょっと怖い。 
がんばれよ!

 

 

にしても、うちの子は最近の周りの子供達と比較すると、ちょっと毛色が違うようだ(?)。

 

その①: 洟を垂れている

 

→ 最近の子供達は、滅多にハナタレがいない。うちの子は異色を放っている(笑)

 

その②: ふんばるときに「どっこいしょ」という

 

→ “せーの”、でも、“よいしょ”、でもない。。。“どっこいしょ”である。 今時大人でも言わない日本語である。

 

その③: 銭湯好き である

 

→ 、、、しかも銭湯にウルトラマンフィギュアをもっていき、我がまま放題に暴れまわっている。古き良き銭湯の光景に溶け込みすぎである。

 

 

一言で言うと、「下町のガキ」なのだ。

一人昭和30年代なのだ。

俺より古いのだ。

 

 

きっとこの様子では、進路は、


お祭りバカ」


だろう(泣)

脳みそとハードディスク、そしてカフェ

昨日はやるべきことをやらないで寝てしまった!

 

 

ので、今日はいつもより早く起きて、早朝からカフェで仕事をしてみた。

 

 

とてもはかどる。

 

 

カフェという環境はなぜか僕の仕事集中度を向上させてくれる。

 

何故だろうか? 不思議だ。

 

カフェって、決して静かなわけでもない。

打ち合わせをしている人やら、キャピキャピしたギャルやら、結構、雑然としている。

 

みんな他人だし、ある意味、仕事の内容を覗かれるとやばいので、落ち着かない環境とも言える。

 

でもすごく集中できるし、はかどる。

 

 

、、、、オープンな空間なのに、1人書斎にこもっているような気分が味わえる、不思議な環境だ。

 

ちょっと疲れたら人の流れを眺めて息を整えたり、そういうアソビも備えているところが、集中力を持続させるために大事なんだろうか。。。?

 

 

うん、確かに! これはとても大事かもしれない。

 

いろんなところに「遊び」の要素をチョコっと織り交ぜたようなサービスや商品、空間がはやっているような気がする。

 

そこがいいよね。

 

遊び、が仕事の能率をもアップさせる

 

、ってのは面白い発見だな。

アメリカの企業なんかが、オフィスの中に積極的に遊び空間を作っているのも、そういうことか。。。フムフム。

 

 

 

それから朝。

 

朝は仕事が出来る。能率がいい。

 

思ったんだが、脳みそはかなり高性能だが、耐久性と効率の低いハードディスクのようなものかもしれない。

 

つまり、書き換えとかリフレッシュ性能が弱いから、「ホコリ」 がすぐに溜まる。

 

1日仕事をしていると、夕方ごろにはもう「ホコリだらけ」というわけだ。

 

検索にものすごく時間がかかって、

 

***アラート!  原因不明のエラーが発生しました***

 

てなわけだ。

 

 

1日寝て、次の朝にはこれがすっきりしていて、生物が持つ最高性能のハードディスクを存分に使えるというわけ。

 

 

こう考えると、すっきりするな。

 

 

 

と、夜に仕事がはかどらないことの言い訳を考える僕でした。。。

気付いたら

残業の概念が無くなってた。

 

だけど、時間の使い方には前よりシビアになった。

 

時間が有限であることをつくづく思う。

 

 

それなのに、帰宅時に電車に乗ったりしてるとき、仕事の反動だろうか、急に携帯のテトリスにはまってしまったりする。

 

 

 

降車駅まで、乗車駅から約40分。

 

到着するころまだテトリスをやっていたりすると、、、、ふかーーい後悔感におそわれ、慌ててカバンの中にある読みかけの本をおもむろに開いてみたりする。

 

 

意味ナシ!

 

 

 

ブログ書いてる時間ももったいねぇなーと、正直思い始めている、今日この頃。

なんでだか

なんでこんなにやることいっぱいあんだ?

 

 

しかし、その割には、仕事の効率が全然よくないことを感じた今日一日。

 

運気は↓な日だった。

 

オフィスが引越しで、スタートは↑で始まったはず、、、なんだが、、、、、。

 

今思えば、早く来たのにネットワークがつながってなくて、え?意味ないじゃん、と感じたのがスタートだったかも。

 

 

と、若干、言い訳のようなグチのようなものまで出てしまう、そんな、日。

 

なんだろうなぁ、この、未達成感。

 

 

ふと思ったけど、やることいっぱいあって大変だ、と感じているときって、実は、単に頭がついていっていないことの裏返しに過ぎないのかも。

 

そういや、今日は月曜だったな。

 

 

明日は明日の風が吹くことを祈って、、、もう寝よう!

営業努力って

営業努力って難しい:

 

 

①あるイタリア料理店の場合;

 

あるイタリア料理店に行ったら、面白かった。

 

 

案内の店員が、僕らを連れて店内のテーブルまで案内するとき、

 

「ボナセーラーっ!!」

 

っと大声で叫ぶ。

 

 

すると、店の店員全員が、

 

「ボナセーラーっ!!」

 

と返してくる。

 

 

店が頑張っているのはとてもよく分かるんだけど、

「ボナセーラ」って、「いらっしゃいませー」という儀礼的な日本語とはちょっと違うような、、(どうなのかな?)

 

 

とにかく、折角ボナセーラって言うなら、もっと渋く使ってほしい。

 

例えば、店員が、最初にメニューを渡し、テーブルに水を置いたりするときに、”こんにちは。 このテーブルの担当しますので、ヨロシクお願いします”という感じで、我々だけに聞こえる程度の音量、できれば少し低めのトーンで、

 

「ボナセーラ 今日のオススメは、、」

 

こっちのほうがよっぽど渋いでしょ!

 

つまり、海外のレストラン風に使って、もっと店員個人と客との親近感を出すツールとして使って欲しいのだ

 

そして、そこの店は、そういうところに元気はいいのだが、料理はメチャ量が少なかった。

出してくるタイミングも悪い。

 

料理そのものはおいしいし、内装も凝っている。

使い方はともかく、「ボナセーラ」を頑張っている(笑)

しかしレストランは最後は料理で勝負のはず。

料理というのは、食べ物である以上、味だけでなく、「量」も重要な要素であるはず。

レタスとトマト、チーズを、さらさら、っと直径15cm程度の皿にのせて、1300円、というのは止めてほしい。

 

 

 

②ある洋風居酒屋の場合

 

 

駅の地下街の喫茶店で茶を飲んで寛いでいると、向かいの店がうるさい。

 

見ると、店の入り口に、スーツを着た店員とおぼしき中年の少しハゲ気味の男が一人、立って呼び込みをしている。

 

「いらっしゃいませー! いらっしゃいませー!

今ならすぐ案内できますよー! どうでしょうかーー!」

 

驚いたことに、しばらく見ていると、他にもイカツめの男が二人、交代で出てきたり一緒になりながら、やはり店先での呼び込みを行っている。

 

 

そこは東京駅地下街、時は日曜日の午後4時である。

一体、この呼び込みに応える客層がどれほどいるというのだろうか?

 

 

結論から言うと、私が見ていた30分ほどの間、殆ど客は入っていかなかった。

イカツくて、アブラギッシュな男達が3人も怒鳴り立て、客を取り囲むかのようにしか見えないのだ。

ほとんど恐怖感さえ覚えさせる。

 

 

店はあまり冴えない、旧態然とした洋風居酒屋である。

きっと、業績も冴えないのだろう。

営業促進キャンペーン策か何かで、呼び込みをやることになったのだろう。

 

しかし、あの呼び込みを見ていると、

 

実は何も効果的な営業案が思いつかず、暇を持て余した結果、取り敢えず”頑張ってます!”感をアピールしたいのかな、と思わせるような、そんな、”サムーーイ”営業であった。

 

 

多分、何もやらないほうが、かえって、客は入っただろう(笑)。

駅のエレベーター

子供を連れて外出すると、JRや地下鉄のバリアフリー化をもっと徹底して欲しいと切に思う。

 

例えば、日暮里駅

 

ここはJR山手線・京浜東北線・常磐線、京成線が接続する、結構なターミナル駅である。

 

特に京成スカイライナーの実質的な発車駅として、重要な役割を持っている。

つまり、なにげに、日本の玄関口の一つである。

 

にもかかわらず、だ。

全くバリアフリー化されていない。

 

まず、JRも京成も、エレベーターを一つも設置していない。

考えられないことだ。

 

JRに至っては、エスカレータすらない。。。。

 

そして、駅入り口が、坂の上にあるにも関わらず、地上から上に登るエスカレーターが無い。

駅入り口は全て2段以上の階段構造になっているが、全てにわたり、スロープが設置されていない。

 

子供がいなくても、海外を行き来する人達が、重いサムソナイトを持ち歩く駅であるのに、だ。

 

はっきりいって、JRも、京成も、国も、東京都も、荒川区も全て、この事態を改善できていないというのは、アホである(しかも、そこを改善する前に、更に日暮里駅の負荷を大きくしかねない、しかも赤字路線となることを宿命付けられていそうな、「日暮里-舎人線」という誰も知らない新交通を建設中である)。

 

 

もう一つ、運営側とは関係ないが、声を大にして言いたいことがある。

 

普通の健康で、荷物も持っていないような人が、駅のエレベーターを使うな!!!!

特に、若い人たちや、サラリーマン連中!

 

エレベーターはもともと、運送効率の大変低い機械である。

そして、駅などの公共施設に設置されているエレベーターは、他にエスカレーターや階段などの導線が設置されている場合、それは殆どの場合が、老人、妊婦、重い荷物を持つ人などへのバリアフリーの配慮から設置されているものである。

 

はっきり言って、

健康なお前らが使っていては、

 

大変邪魔なのである。

 

こっちは子供をダッコし、ベビーカーをガラガラ引っ張り、切実なのである。

 

考えろっちゅうの。

素人でいこう

またまた邱さんの本より、面白い一言を書き留めておく。

 

「ぼくは仕事をするときに先入観のある人は使わないです。

”絶対に素人でいこう”というところがありまして」

 

 

素人は工夫をしなければ玄人に勝てないから、工夫をする。

そこに商売の逆転のチャンスが生まれてくる、というような考え方でした。

 

 

今日はテレビで、ある精密機械メーカーのチャレンジが特集されていた。

ものすごい紆余曲折を経て、新しい事業機会を作り出していた。

 

①精密加工のような下請け事業が、メーカーの工場の海外移転で縮小

②仕方なく、とんかつ屋チェーンのFCを始める

③大赤字

④とんかつ屋の注目度をアップさせるため、精密加工技術を活かしたロールスクリーン型看板を開発

⑤とんかつ屋事業は好転

⑥更に、外資系の独壇場となっていたロールスクリーン看板市場に参入し、攻勢中

 

「とんかつ屋」という分野ではずぶの素人だったが、そこに精密加工メーカーならではの新しい工夫を導入してヒット。事業構造自体の転換のキッカケとなった、ということだ。

 

すごい。 カオス理論を地でいくような話だ。

 

 

でも元が素人なわけだから、ものすごく立場が厳しいことには変わりない。

 

おそらく看板を考えたときも、殆ど、単なるヒラメキだったのじゃないかと想像するけど、そのヒラメキをちゃんと形にし、地道な改善を続け、商品の品質を高めていったことで、お小遣い稼ぎ的な事業を好転させるだけでなく、それ自体が、一つの基幹商品となるところまで行けたのだろう。

 

素人が有利なのは、経験が無いだけに、「あ、それはダメだよ。え?理由? 昔からそうだからさ」みたいな、思考の自己規制がなく、工夫をまともに試してみようとするからだろう。

 

 

学歴も年齢も性別も、なにも関係ないが、

 

「素人に可能性が詰まっている」

 

という見方には、なるほどと思えるものがある。

 

多分最悪なのは、素人なのに玄人と思っているパターンだろう。

特に、妙な肩書きをつけると、そんな気になっている人が沢山いる。

カタカナの肩書きの場合は、更に怖い。

 

あー でも実際、これは怖い罠だよなぁ 自分も折に触れてありがちかも。

そうならないようにしなくては。 毎日仕事帰りに、夜空を見上げるのがいいか。

進みながら考える を実践

厳しいコメントを頂いたので、結構思考が停止しています。

正直なところ、どう考えたらいいのか、分からないでいます。

僕はやはりアホか。

 

 

ほんとうは考えをまとめたいのだけど、敢えて、ちょろちょろ書いてしまいます。

 

僕は古い人間なのか?

 

おそらくそうです。

それも、かなり古いかもしれません。

 

でも、よく考えたら、古いと新しいの違いは何だろうか?

人間として考えるなら、古いも新しいもないかもしれない。

変わったのは周りにあるモノだけかもしれない。

 

今思った。

となれば、人間として古いっていうのは、自分の考えに頑ななことを言うのか?

 

とすると、結構、ヤバイ。

 

僕はものすごく固執するタイプだ。

ほとんど回りの意見を聞かない。聞いているようで聞かない。

(この文を読んで、「え?ちがうでしょ。 聞いていないようで本当に聞いてないじゃん!」 と突っ込みを入れたくなる人、いっぱいいるだろうな(笑))

 

一方、相当尊敬する人の言葉であれば、かなり一生懸命に聞く。

そのときは、かなり感化されもする。

ところが、最終的には、「自分には自分のやり方がある」と思い、色んな人がいる、というような参考情報レベルで頭にとどめておく程度だ。

 

これはタチが悪いかもしれない。

 

 

偉くなった方たち、尊敬する方たち、先日会社の総会で賞を受けた若い人たち、、、みんな見ていて共通すると思えるところがある。

 

とても素直である。

 

人の意見を素直に取り入れて、実行できるところがある。

僕は天邪鬼だからまず間違いなく、それが出来ていない。

たしかに、、、 自分を大事にして、思考を停止させているかもしれない。

 

 

最近、少し思っていたことがある。

 

古典を読まなくては、ということだ。

 

現代人も古代人も人間としては同じかもしれないが、現代人は圧倒的に、遊びの時間が少ない。

なので、自分について、深く考える時間が到底少ない。

 

古典には、ありあまる時間を人生探求に費やした人たちの宝が詰まっているはずだ。

だから、読まなきゃ、と思っている。

昔、教養といえば古典の知識だったのも、それなりに意味があることなんじゃないかと想像している。

 

しかし、最後は結局、それを素直にどこまで取り入れられるか、か。