猛々しい季節感
上野近辺も本当に人が沢山出ていた。
今日は本当にすごかった。
JR上野駅では鉄道祭りみたいなものをやっていたが、この行列だ。
分かりにくいかもしれないが、12時の段階でコンコースに出来た親子連れの行列である。
50mぐらいの列が縦に10本ぐらいかな。
10時スタートだったけど、この段階で既に入場中止だった。
↓は不忍池。
ボートや白鳥が狭い池の中にところ狭しと浮かんでいて、面白かった。
この地域に4年ぐらい住んでいるけど、今までみたことのない光景、、、あのボート乗り場に行列が出来るなんて、、、笑える。
ただ、沢山人は出たんだけど、GWという何か季節感とは別のものがどんどん前面に出てきていて、きっちりと「子供の日」という節句を祝う習慣は無くなったように思う。
例えば、気のせいだろうか? 鯉のぼりの数が昔と比べて断然少なくなったような。
どこかの番組で細木数子が言っていたらしいが、季節の行事というものは、ちゃんと飾るべきものを飾り、お供えすべきものを供え、祝うべきものを祝わないと、子供が季節感を感じにくく、あまり良くないそうな。
もともとは生活の中の習慣、区切りとして出来てきたお祝い事のはずだけど、既にその生活の方は廃れて記憶に残っていないのに、お祝い事が、休日という政府の奨励みたいなものに変わって、人を休みに駆り立てているような感じもしないでもない。 「よっしゃー、めいっぱいたのしむぞ!」みたいな強迫感?
今日は銭湯では菖蒲湯の日だった。
でも、菖蒲って今じゃ全然売れないらしい。地元の花屋さんが言うには。
自分も、親父が昔菖蒲で笛を吹く方法を教えてくれたけど、今じゃすっかり忘れてたからな、、、
神戸空港問題
神戸空港という空港が建設中です。
来年2月には開港予定です。
公式な発表内容についてはこちらに載っています。
この空港の建設に関しては、大きな反対運動が起き、今も裁判で係争中です。
大阪高裁での判決は7月に出るようです。
反対運動の中身についてはここに詳しく書いてあります。
この空港が地元にどれだけの効果をもたらすかどうかはともかく、お役所が如何にいい加減な計画を立てて税金を使った公共事業を進めているかは、一目瞭然に分かると思います。
もともとこの空港問題には興味があったのですが、知れば知るほどこいつは危機的だなと思います。
神戸という言葉から今なら連想されるであろうファッションや流行の発信地という華やかそうな面からは程遠い現実です。
神戸に限らず、今、関西の自治体は、かなりボロボロのようです。
海猿
やっとこさ、ずーっと見たかった映画を1本、見ることが出来ました。
いや、想像通り、爽やかな、いい映画でした。
ストーリー展開は若干ありがちな、最後の結末もまあまあではあるけれど、そんなことはどうでもいい。
海上保安庁に入りたくなっちった!
日本映画はここのところ「貞子系」「おちゃらけ系」「ミニシアター系」「時代モノ系」「純愛系」ばかりで全然見る気にならなかっけど、これはよかったな。
それにしても、伊藤英明は、若手売れっ子俳優の中でも、かなりいい味を出してきているなぁ。
背は高いし、最初はイマイチと思っていたけど、真面目な顔をしたときの目つきが非常に澄んでいて、爽やかだ。
キレ系、オシャレ系の他の若手よりも、役者としての凄みが大分出てきているように思う。
年末のテレビ東京でやった織田信長役も、実際のところ、ちょっと個人的にイメージしていた信長とは違う感じだったが、それでも、かなり見事に演じきっていた。
しばらく注目かもしれない。
やっぱり映画は最高のエンターテイメントだ!
取っ掛かり
ある人から、前職の会社に対する強い反感を聞いた。
就職活動でいやな目にあったらしい。
聞いたらひどい話だった。
大体想像もつくだけに、尚更がっかりした。
僕はあの会社を辞めたが、嫌いなワケではない。
ただ、やりたいことと会社のベクトルは全然違う方向を向いていると感じただけだ。
組織と人の関係って難しいと改めて思った。
人がいるから好きにもなるし嫌いにもなる。
人がいるから嫌いになりきれないし、好きになりきれない。
ネットの恐さも味わいつつあるけど、人と人とが間接的に触れ合う部分では、必ず、虚像が一人歩きする危険が潜んでいる。
人格が一人歩きし、組織像が一人歩きし、大衆像が一人歩きする。
結局、組織がどうのこうの、ではなく、究極には人なんだけど、でも単品の人ならなんでもないことが、複数の人があつまり、組織論が始まり、いつの間にか組織と人が逆転し、目的が形骸化し、変化のないピラミッド構造が出来、、、、 いつの間にか、勝手に、自分で自分の中に自分自身や組織の虚像を作り上げてしまっている。
自分=看板だと勘違いしてしまう。
俺は○○の人間だ!という無意味な価値観が、人を本来の人でなくしてしまう部分もあるだろう。
一つのきっかけが大きくその後を変えていく。
例えば、大正から昭和。
何が日本をあの暗い時代に進ませたんだろうか。
一人一人がキモチを入れ込んでも、その入れ込む方向は、何かに突き動かされているハズだ。
ベクトルが正しいかどうかなんて、最終的には、後の歴史でしか証明が出来ない。
そのときそのときの自分のベクトルの正しさはどう判断したらいいのだろうか。
結局は個々のセンスでしかないのだろうか。
判断できないとしたら、行動するしかないのか。
行動を起こした、2.26事件の将校たちはじゃあ、正しかったのか?
そもそも正しい正しくないを判断することが間違いなのか?
いや、そんなことは無いだろう。
正しい正しくないを判断する努力を止めたら人間じゃない。
そんな、考えても意味の無いような、突き詰めていったほうがいいような、そんなことを今日は一日の最後にとりとめもなく思った。
改めて見返してみるとこのブログも支離滅裂だが、今日はこれでヨシとします。
違いを共有する
以前アメリカにいたときに学んだことの一つに、チーム・スピリッツ、というものがあった。
当時、僕らはちっぽけなベンチャーを立ち上げたばかりで、まだ製品もなく、手持ち無沙汰な日々もあった。
大企業から出向してきた僕にはしかし、究極のところ戻れる組織があったが、周りの従業員にはそんなものはなかった。
今でも忘れられないが、奥さんが出産し、喜びの報告直後に解雇の憂き目にあった人もいた。それも彼自身が原因ではない、止むを得ない会社側の事情によるものだった。
当時、CEOはじめ、アメリカ人が何を重要視しているのか、については、様々なものがあったが、特に印象に残っているのは、チーム・ビルディングという名前での、レクリエーション活動を盛んに行ったことだ。
多民族国家アメリカでは日本とは正反対の基準で人間関係が理解され、交際が行われる。
それは概ね、「お互いはお互いを理解できない」、という価値基準である。
つまり、言語、社会背景、文化、、全てが異なる者同士が集まって仕事をするのだから、自分の思いを、相手はこれっぽっちも理解できていないと考えるところから始めなければ、どうしようもない、ということだ。
『違い』があることは当たり前で、それをふまえてチーム・パワーを発揮していこう、ということ。
だから議論も直接的だし、それは決して、英語という言語が直接的な言語だから、というわけではない。
ストレートにしゃべらなければ、意図が伝わるワケが無いのだ。
そして、相手に対して、「理解したか?理解したか?」と何度もしつこく聞いてくる。
それ位確認し、相手に相手の理解した内容をしゃべってもらって確認しなければ、確認したことにならないし、それは全く失礼なことでも、相手にとってウザイことでも無いのだ(まあ若干ウザイときもあるが)。
新しい2代目CEOがきたとき、彼はとても不安そうだった。
ドライブをしていたとき彼は僕に、「日本人との会話で気をつけるべきことはなんだろう?」と聞いてきた。
僕は、「特に気をつけることはないし、思ったことをしゃべればいいが、ただ、日本人はお互いに『違い』があることを前提とした会話は得意でないから、その点には気をつけたほうがいいよ」、と言っておいた。
つまり、日本人はお互いに『違い』があることを指摘されてしまうと、相手が「お前は部外者だ」と疎外してきたのかと感じてうろたえてしまい、『違い』が無いかのように弁明を始めたり、つくろってしまったり、もっとありがちなのは、反感を覚えて感情的に怒ってしまう傾向がある。
僕の記憶に残っている面白い話がある。何かの本で読んだのだが、日米の大学生が集まる弁論大会というものがあるらしい。
昔、後日首相になった宮沢喜一さんが日本側の団長として渡米した。
日本側の学生団は周到に準備して意見を統一していったが、アメリカ側の学生は、会議が始まるとみんなでテンデンバラバラなことを発言したので、宮沢さんはびっくりしてしまったとのこと。
伝えたことがあるけれども、実際、相手がやったことを見ると、全然期待に沿っていないことがある。
正直腹がたつが、自分は相手にちゃんと意思を伝えきれたのだろうか? 発注内容は正確だったのだろうか? とまず振り返ってみることを、出来る限りプロセスに組み込んでおきたいものだ。
肝心なときに詳細な意図をしっかり相手に伝えておかなければ、逆に後からお互いの仕事が増えることとなり、モチベーションがさがり、ぐちが増えることとなる。
もっと言うとまずは、『自分の意図が何なのか?』 をはっきりさせること。
言葉がいかにつたなくても、まずはこれが最も大事だと思う。
アナタたち楽しすぎます
それは下町散策だ。
下町を歩いていると勝手にネタが集まります。
今日はこれです。
ハイク&俳句、、、驚愕のネーミングセンス。
(補足:ハイキング参加受付け + 俳句を受け付けているということです)
ありえません。
おてんとうさまの下に、本当にこの看板でお店を出してしまうところが、マジでありえません。
だけどありえるのです。これは現実。
脱帽です。
もっと脱帽なのは、この看板を写真におさめようとしたとき、受付けにいたオバサンが、
「イヤン、そんな私の写真なんか撮らないでよ、恥ずかしいゎっ」
とばかりに奥に隠れたこと。
そんなアナタのココロの若さに、、、、脱帽です!
うまい!お見事です
地元の区民祭りの中の一つの模擬店の営業活動の話。
お見事でした。
他の模擬店が、如何にも小さな市民祭りでやりそうな、お祭りでの屋台の延長線上の盛り上げ方法を競い合っている中、小さい場所の中で、とてもよく考えられた「客への導線」を張って、彼らは僕らの登場を待ち構えていて、、、、そして、僕らは見事に刈り取られてしまった!
彼らの名前は「新潟県岩船町」 という。
具体的にどういう結果となったのか。
最初は、まず子供が刈り取られる。
お目当ては、
ポン菓子=100円
だ。
ポン菓子の爆発音 「ボンッ」 で喧騒の会場内に音で注意を引き、そして子供の目をひきつける。
親は、「あ、なんだ、100円か、これで子供の機嫌が買えるなら安い買い物だ」と思い、思わず財布のヒモを緩めてしまう。
うまいのはその後だ。
結果から言うと、これに化けた。
コシヒカリ3kg=1500円
人の良さそうなオッサン達から100円のポン菓子を買って振り返る間もなく、間髪入れずに隣のチームのオヤジさんから、
「いや、お父さんね、この菓子なんだけど、このコシヒカリで作っているんだよ、、、今日は取り敢えず安くで売ってるから是非食べてみてよ、、、、ムニャムニャ」
さらに“ついで攻撃”は続き、横から若いおにいさんが
「で、これうちで米の横で作ってるイチゴなんだけど、これも食べてみて」
と妻と子供にイチゴを握らせる。 米はその場では食えないが、イチゴがこれまた、、、ウマイ。
ついつい、コシヒカリ、買っちゃいました(笑)!。
考えてみたら、なんで、デカレンジャーショーを見に来て、そこで米、それも3kgも買ってんだ??
我々はアホである。
でも、この営業の導線作り、感心してしまった。
見事なチームプレーだった。
そして、もっと大事なことに、うちの家族の中に、なんとなく、まだ見たことも聞いたこともなかった“新潟県岩船町”という土地に対する、「味方感」 を作ってしまった。
まだ米を食ってみないとなんとも言えないが、米と一緒に袋に同梱されていた、農家からの直接購入の申込み書、活躍する可能性は、一般的なレベルから比較すると、かなり高い状況だと思う。
誰があのチームプレーを企画し、組織したのか、知らないけれど、よく練られた導線は、客を心地よくしてくれる。
100円のはずが、1500円の出費になったにも関わらず、全く損をした感が無い。
お見事でした!
久しぶりに楽しみ
なんだかドタバタしているうちにあっという間にGW突入だ。
特に予定はないけれど、楽しみだ。
こんなにGWごときが楽しみだったことはここ数年ない。
今は気持ちが前向きになっているので、いつもは頭の中が仕事でいっぱいになっていても、休日は休日で気持ちをすっと切り替えられるようだ。
大きな連休があっても、『あーー、これが終わったらまた会社が始まるなぁ~~、、、』と、休みが一日過ぎるたびに憂鬱になって、あまり休日を楽しめなかった以前の状況とは随分変わった。
『やべぇーー、いいのか休んでて、、、、、』 というのはあるけど(汗)。
では、今からデカレンジャーショーに行くか。
置き石
JR西日本は、脱線事故直後から、やけに置き石の可能性を示唆している。
実際には示唆していないが、メディアがはやしたてているのかもしれない。
いずれにしても、
大戦略ミス
だろう。
今は、原因は分からない、ということを繰り返すことと、謝罪に努めるべきであって、どんなにマスコミや世間が求めようとも、中途半端な調査結果を公表することは全く意味がない。
それはディスクロージャーではない。
現場の調査部隊に対して、世間の矛先を少しでもそらそうとする幹部の圧力でもあったのだろうか?
発生してしまったことはどうしようもないが、対応一つだ。
他山の石
産業の成熟
今日のトヨタ・日産の各社長の発言を新聞で読んでいると、2社ともに、アメリカのビッグ3の業績不振に対して、非常に神経を尖らせていることが分かる。
おそらく自動車業界共通の関心事なのだろう。
奥田トヨタ会長: 「米社が多少は息つく時間を与える必要がある」
ゴーン日産社長: 「どの市場でも競合他社の不振は他社にも影響する。テコ入れのため販売奨励金を引き上げれば、、(中略)、、、全体の収益性が下がる恐れがある」
もちろん、自社の事業を予測される貿易摩擦から防御する観点から出た発言であるだろうし、かつ2社が大きな事業益をあげている余裕から可能な発言であるには違いないが、それにしてもこの発言は、この業界の中に、これまで歴史の中で培われてきた経験則がしっかりと生きていて、そこから進化を遂げてきている様子が、とても窺える発言だと感じた。
それは、いわゆる、日本的な和の経営、でもなく、助け合い、でもない、それらとは全く違う、強烈な戦闘意識の中から生まれてきた、利己的で現実的な発言という風に感じる。
実際にどんな施策がうたれるのかは別として、一言で言って、
かっこいい。
今となっては想像も出来ないが、アメリカで大衆自動車産業が発生したとき、なんと全米で3000社以上の自動車メーカーが誕生したという。
『自動車バブル』
である。
そこから100年を経て、絞り込まれ、少数精鋭の今の姿になっている。
そして、新しいチャレンジを今も続けている。
この2人の経営者の発言を聞いている限り、この業界はまだまだ進化を続けていて、今後も基幹産業の一つとして大きな影響を世の中に及ぼしていくに違いないと確信した。
追いつけ、追い越せ! だ。