生みの苦しみ・・・ | 裸足のピアニスト・下山静香のブログ

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オモテの顔はクラシックピアノ弾き。

音楽・芸術を軸に、気になること好きなことを徒然なるままに。

作曲家にはそれぞれ、異なる音のイメージ、音楽の景色、世界観などがあり・・・・それはすなわち、奏法もアプローチも変わってくるということで。それがおもしろいのではあるが、一度にさまざまな性格の曲を弾かなければいけないのは、多重人格を抱えるようなもの(;^_^A 大体、リサイタルとはそういうものなのだけれど、複数の全く違うプログラムによる演奏会準備が一時期に集中すると、実際かなりヘビー・・・もとい、デンス。さらにそれぞれに対する事務作業も続々入ってくるので、毎日7時間以上はその種の業務に費やさねばならず・・・(☆。☆) 1日が30時間なら大変助かるのだが。


さて、チャールズ・ローゼンが確か、たとえばレコーディングのためにドビュッシーばかり弾いていて、突然ベートーヴェンを弾こうとしても、ドビュッシー仕様になっている手をベートーヴェン向きにするのには多少の時間を要する、というようなことを書いていたけれど、それは大いにうなずける。もっとも、どんなスタイルの音楽でも「自分キャラ」で弾きこなす(作曲家の個性よりも自分の個性を優先する)オールマイティ型の演奏家には、この種の苦労はあまりないだろうと思うが。


さて最近の私的発見は、モンポウとプーランクを弾く「手」が、あまりにも違うこと。そもそもこの2人の作曲家を組ませようと思ったのは、響きそのものの嗜好は似ているのに、音の志向性は全く違うのが面白いと思ったから。にしてもしかし。それがこんなにも奏法に影響するとは(気づくの遅すぎ (x_x;))。同じような音のつくりの和音でも、打弦後の音が描く線とか、それに「透明さの種類」などもろもろが違うため、その違いを出すには、違う人物の手になるくらいのつもりで切りかえないといけない。

モンポウの音は特別で、その奏法はやっぱり、自然にモンポウ自身のものに似てしまう。もちろん、手のつくりは全く違うのだから、同じになるはずないのだけれど。とにかく、どんなに追い求めてもまだまだ奥があるので、なかなか次に進めない。純粋な「テクニック」の面での難曲に挑むほうが、高いけれど道が整備された山を登るようで、よっぽどスカッとする。。


そうやってしばらくして、10月に控えているラテンアメリカシリーズ演奏会の曲目を弾いてみると、手がいい具合にほどける。ということは、この種の音楽ばかり弾いていると、ほどけすぎてしまうな、ということもわかる。

やっぱり、偏らずにいろいろなスタイルの曲を弾いていること ―― 演奏会プログラムにのせるのせないにかかわらず。それは、とても大事なことのようだ。