「虎に翼」の時代をしみじみ思う | しずえばあちゃんの回想録 “We Can Do It !”

しずえばあちゃんの回想録 “We Can Do It !”

教師生活35年、子供3人。
パワフルに生き抜くしずえばあちゃんの
子育て論、教育論、人生論を綴っていきます。

人生の後半で取り組んだ漢字学習についても
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毎朝「虎に翼」の朝ドラを真剣に見ている。

BS、総合と二回続けて観て、私の一日が始まる。

 

虎ちゃんの生まれた大正3年は、私の両親が生まれた年。

戦争前の男女の格差がどれほどのものだったかを、ドラマから教えてもらった。

 

私の両親は福井の師範学校を出て、二人とも地元の小学校教師になった。

父親は、給料の面からもこのまま小学校の教師でいるわけにはいかないと、

猛勉強して高校の化学教師の資格を取ったそうだ。

退職後、スタンドピアノを買い、農作業でごつごつになった動かない指で、

「エリーゼのために」を練習していた。それが小学校教師だった証だと思った。

母親は、戦時中に生まれた赤子を抱え、教師を辞めざるを得なかった。

 

主人の両親もほぼ同年代で、二人とも東京で生まれ育った。

母親は高等師範学校(現お茶の水大学)を卒業し、医者になりたかったそうだ。

その道は戦争で断念し、師範学校の教師になり、後に高校の生物の先生になった。

父親はお寺のお坊さんだったが、いつ教師の免許を取ったのかはしらない。

お坊さんだけで食べていかれないと判断したのか、

長い間お坊さんと高校の社会科の先生をやっていたが、

主人が子どもの頃に寺を継がせるわけにはいかないと、僧侶を返上した。

二人は戦争で福井県の大野市に疎開して、そのまま居ついた。

 

戦前の高等教育を受けた4人は、それぞれに将来の歩む道を描いていたに違いない。

それがあの戦争で大きく狂わされた気がしてならない。

晩年にもっと4人の若かりし頃の心情を聞いておけばよかったと、今更ながら思う。

 

戦争で赤紙がきて兵隊招集されるときの様子は身につまされるものがある。

私の父は教師だったために、招集は最後の方で、国内の訓練施設で終戦を迎えたようだ。

上の兄二人は昭和16年・18年生まれ。

その赤子を背負いながら、母はあの戦時中の生活をしていたんだなあ。

田舎だったから食べ物はあったはずだが、母一人でどんなに心細かったことか。

 

5月下旬からの「虎に翼」の戦争中の様子は、

両親たちが生き抜いた様子が想像できて、胸が締め付けられる思いだった。

虎ちゃんがやむなく法曹界を去る決意をしたことも、

義母が東京での学業の夢を断念し、地方の教師になっていく胸の内に思いを馳せた。

全てが戦争という時代に狂わされた人生だったのではなかろうか。

 

新憲法ができて、基本的人権の尊重、全ての国民は法の下で平等、男女平等が謳われるが、

その実現にはまた長い道のりがあるのは知っている。

ここから虎ちゃんたちはどんな時代を作ろうと抗っていくのだろうか?

 

今を生きている私たちは、本当にありがたい時代に生きていると心底思う。

それを作ってくれたのは、あの激動の時代を生き抜き、希望に向かってひた走ってくれた先人たちがいたからだ。

出征する前の優三さんが虎ちゃんにかけた言葉が秀逸だった。