香山リカ『絆ストレス―「つながりたい」という病』 | 空想俳人日記

香山リカ『絆ストレス―「つながりたい」という病』

 また、香山リカさんの本を手に取った。この前読んだのは、『a href="https://ameblo.jp/shisyun/entry-12853242940.html" target="_blank">世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』。メチャ久しぶりに香山リカさんの本を読んだのだ。一時期メチャたくさん読んだんだねえ。「多重化するリアル」「テクノスタルジア」「インターネットマザー」「親子という病」「くらべない幸せ」「しがみつかない生き方」「デジタル依存症の罠」、などなど。
 あと、東京単身赴任時代に、勝間和代さんとの対談「a href="https://ameblo.jp/shisyun/entry-10472276288.html" target="_blank">勝間和代VS香山リカ~リアルガチンコ対談~」を観に行って(聴きに行ってか)、いやあ、「誰でも幸せになれる」みたいなことを言う勝間さんに、「勝間さん、努力で幸せになれますか」って、メチャ地に足のついている人、そう思ったねえ。

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 今回の本、まずタイトルだけで解釈すれば、絆ストレスはひとつの「つながりたい」という病から来ている、と読みとった。ボクも、実は「繋がりたいという欲求」は過剰であれば病じゃないかと思っていたものだから、これを手に取った。

一昨年の流行語は「無縁社会」。そして今年は「絆」。そんな中で、マスコミによる「絆」の連呼に違和感を覚える人も増えている。ホンモノの「つながり」が減り、ニセモノの「つながり」ばかりが蔓延しているのではないだろうか。無理している自分に気づいていながら、つながりを断ち切ることができない現実。どうすればつながることに過剰なストレスを感じなくても済むのだろうか。「わずらわしさ」と「孤独」の間で悩む現代人に、精神科医が答える。

 2012年発売の本だから、東日本大震災の翌年に出たものだ。「無縁社会」に対し、「絆」の大切さが問われた時期でもあるのだが。確かに「絆」とは大切なものだと思うのだが、それを、果たして、みんなどう捉えているのか、「絆」を感じられない=無力、孤独と、孤立、なんだろうか。
 その後、コロナ禍で、不要不急の面会や会食は控えよといわれ、人々は「それでも会うべき人」と「とくに会う必要のない人」を選別したことで、孤独・孤立に陥る人が増えたと言われるが、コロナ禍は、人間関係の希薄さを表出させたといったほうが正しく、それ以前から孤独・孤立問題は深刻化していた。戦後、ネガティブに語られてきた「血縁、地縁、会社縁」。だが、そこから「解放」されたことで孤独に陥ってきていたということだ。
 だが、この「孤独」は、本当に深刻な問題なのだろうか。

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第1章 震災後の日本に浸透する「絆」の功罪
 この章の中で、「絆」で繋がろうとする行為そのものを否定はしない。ただ、
《『はずかしいとかおしゃれじゃないとか、そんなことにこだわってる場合じゃないだろ』って。『せっかく配っているのにもらわないと、避難所の絆も壊れてしまう』とも。》
 絆って強制されるものなのか。
 戦後の日本ならまだしも、震災前は
《無数の選択肢のなかから、こだわりを持って自分で選ぶという「豊かさを思う存分、享受してきた》わけだ。
 つまり、十人十色、自分らしく生きてきた人たちに、画一的に白一色を強要することで絆を作るということだろうか。

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第2章 気楽なはずのつながりが招く「SNS疲れ」
 この章は、もう言わずもがな、ボクは思う。SNSで絆なんかできるわけなかろう。なんせ、人間は五感で生きている(六感もあるか)のに、文字だけで絆は生まれない。しかも、みんなから「いいね」欲しさを目的に、SNSで書くなんて、自分らしさなんかどこにもない。
 手前味噌だが、ボクは、言いたいこと以外は書かない。何故なら「いいね」が欲しいわけじゃない。また、批判も恐れていない。SNSで人に好かれようなどとは思わない。みんな平等に語り合えるという錯覚、フラットな関係という錯覚は、SNSに格差社会を包み隠し、十人十色であるべきことを喪失させる、そんな恐るべきツールでもある。なので、過信してはいけない。基本、繋がるべきは、生身のオフライン状態。オンライン上は、伝達手段でしかない。自己表現。

第3章 「家族の絆」という幻想
 家族の絆は絶対ではない。父親であり母親であり、子どもであるというのは、ひとつの役割である。父親も母親も、親という役割とは違う別の役割を持って生きている人間である。そして、子どももそうだ。学校という社会で、先生との関係、子どもたち同士の関係。そういった様々な関係の一つが家族の絆である。そうでないと、親子は、いつまでも親子依存症でい続けてしまう。
 子離れできない親、大人になっても親離れできない子ども、これは、「つながっていたい」という病であり、家族も、ある意味で集合・解散する、オンオフ・スイッチが大事だと思う。

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第4章 絆に苦しむ女・絆に守られる男
 ここに書かれている「絆に守られる男」は、よく分かる。だが、それは、「社縁」ばかりを重んじて、他の役割が出来ないことをも意味する。なので、定年退職すると、所属を失った男は、途方に暮れる。叱る部下がいないから、役場に行ってクレームばかり述べる人もいると聞く。
 そういう意味では、絆に苦しむ女、特に「ママ友」とか「公園デビュー」など、大変だとは思うが、狭い社会に閉じ困らずに、あちこちにかかわりを持つことが出来るのも女ではなかろうか。つまり、ワークライフバランス、仕事と生活のバランスをうまくとることが出来るのも女性だと思う。

第5章 母娘を縛る「強すぎる絆」
 男親には分からないことかもしれないが、母と娘という関係は、絶対視されがちだ。特に、母親から「自分よりも、あなたの幸せが第一よ」と育てられた娘さんは母親になると、自分が受けたように子育てをする。逆に母親からほったらかしにされた娘さんは母親になると、親を反面教師として子育てに力を入れる。
 実は、ショッピングセンターなどのフードコートで母娘(大きい娘だよ)が仲良く食事しているのを見ると、少しゾゾッとする。先にも述べたが、いつまでも母親、いつまでも娘、そんな関係が強すぎると、愛憎が宙返りを起こしかねないのではなかろうか。

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第6章 「孤独死」は本当に不幸なのか?
 実は、この章が一番、興味津々だったのよ。「孤独死」って、傍から見ると可哀そうだけど、皆、一人で死んでいく、ずっとそう思っていた。
 それを決定づけたのは、うちのアパートに住んでたお婆ちゃん。旦那さんなくして一人で住んでいた。時々、娘さんが訪れていた。
 ある日の正月、その娘さんの車とおまわりさん。何事かと思えば、うちのアパートに住んでたお婆ちゃん、風呂場で亡くなっていた。病院じゃないから。警察の検視も来ていた。お婆ちゃんの娘さんは涙ながらに話した。「お正月に来たら風呂場で」と。
 実は、これをボクは可哀想とは思わなかったのだ。生きてる人から見れば、寂しい最後だとは思うが、元来「死」とは寂しい最後じゃなかろうか。多くの人に見つめられて息を引き取るって、どうなんだろう。自分だけが死んでいく。誰も道づれにできない。もしボクなら、いやだな。
 ここには、古い昭和の時代じゃなく、今でも続く奄美大島の昭和さながらの地域の絆も書かれている。でも、それを語っている人が、東京で暮らすことで、地域の絆を日々保つことの大変さも語っている。地縁とは、簡単に出来るものでなく、日頃から地域の行事や祭り、行事に参加することで助け合いの精神も生まれている。それが嫌で都市生活では、関わらない生活が始まったのだ。
 振り返れば、ボクの幼少期は。地縁、血縁の人が正月やお祭りなどのイベントごとに繰り返し集まってくる。うちには、祖父ちゃん祖母ちゃんもいたし、自分の誕生日には大にぎわい。そんな小さなころからすれば、自分が結婚するときは、親父のファンの民社党一色にしやがって、かみさんからも非難轟々だったが、そんなことどうでもよく、親父やおふくろ、かみさんのストレスから逃げるように、予定の北海道行きの飛行機(新婚旅行)に乗った、と思う。
 その時からじゃなかろうか、地縁、血縁、縁というものがうっとおしい、一人で死ぬことって怖くないんじゃないかな、そう思ったのは。孤独死が何で怖いと思われるのか。何のことはない、生きている側から見るからだ。死んでいく人たちに対し、息を引き取る瞬間は悲しい。でも、それは生きてる人だからだ。死んでいく人にとっては、どうだろう。
 ここには、巷で「孤独死」を憂うことも書かれているが、本当に孤独死って、不幸なんだろうか。ここにも書かれているが、「孤独死」って、一人で生まれ一人で死んでいく、ごくごく自然で普通なこと、そう思えるのはボクだけかな。

第7章 「絆ストレス」の時代を生きる
 では、「絆」は大事だが、それが負担になる人もいる、じゃあ、どうすればいい。そんな話だけど、簡単だよ。「絆」って言葉を、家族の絆みたいに絶対的なもの
にせず、「ゆる~い絆」「都合のいい絆}「絆とは思えない、それ絆か?」なる絆、そんなんでいいのじゃないかな。
 そう、「絆」って言葉は嫌いじゃないけど。でも、「絆」っていうと、すごい正義の味方みたいな崇高で絶対的なもの思えてきてしまうとすれば、自分では無理、そんなことを思い描くと思うけど。
 ボクは違うと思う。ボクは、絆を、同じような境遇であるとか、血縁であるとか、地縁であるとか、社縁であるとか、そういう狭い捉え方はしたくないなあ。
 ちと大袈裟かもしれへんけど、地球ではじめての生命が約35億年前に海の中で誕生した、その時からの生物、そして、今も瀕死の状態でありながらも生きていこうとする全ての生き物たちとの絆を常態と考えたい。
 そして、「特につながる」意識は、スイッチのように、オン・オフを繰り返すものでいいのではないか、と思っている。つまり、先に述べた、
『戦後、ネガティブに語られてきた「血縁、地縁、会社縁」。だが、そこから「解放」されたことで孤独に陥ってきていたということだ。』
 に対して、孤独にならなくて、どうするんだ、と思うのだ。絶えずつながった状態でいたら息も出来なくなる、それが現代人だ。つまり、孤独を恐れるのではなく、能動的に孤独を愛すべきだ、ということだ。なぜなら、自分と瓜二つの生き物など、この世にはいない。つまり、自分との対話をする時間、いろいろな人とつながる時間、両方を大切にするということだ。
 これは、以前読んだショーペンハウアー『幸福について』の孤独とアドラー『劣っていることは資産である』の共同体をどちらも肯定し、行ったり来たりすることだ。日中活動するときは後者であり、家へ戻れば前者である。どちらかを選択するなんてできないよ~。
 はい、おしまい。


絆ストレス―「つながりたい」という病 posted by (C)shisyun


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