蓮實重彦『齟齬の誘惑』 | 空想俳人日記

蓮實重彦『齟齬の誘惑』

 この間読んだ蓮實重彦『伯爵夫人』を読んで、仰天したというより、ある意味何かしらの親近感(近親相姦ではない)を覚え、何か彼の本をもう一冊読んでみたくて、面白い本はないかな、思ったら、これを見つけた。
 なんと、これは、彼が東大総長時代の式辞集。もともと東京大学出版会から出たもので、そんなのが、この学術文庫として出るなんて。
 ちょっとペラペラ立ち読みしたら、うへえ、長い式辞(東大新入生に向けてのだが)。式辞といやあ、適当に美辞麗句並べて、短ければ良し、それでも長いものは何故か手前味噌な自慢話テンコ盛り、世間ではそんなものと思われがちなのに、蓮實氏は真剣に本腰入れて、語っている。

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 これは面白そうだ。手に入れた。
 早速読めば、序章でもある「いま、この書物の読者となろうとしているあなたに」で、彼は言う。
《社会に生きているわたくしたちは、何かを理解することで変化するのだし、当然、その変化は社会をも変容させる契機をはらんでいるはずです。ところが、「何かを理解したかのような気分」の蔓延は、そうした変化や変容の芽を、いたるところでつみとってしまいます。》
 これだ。「何かを理解したかのような気分」、この間読んだ、香山リカ『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』の中の「第6章 内閣支持率は民意を反映しているのか」での、《私たちが、白か黒かの二者択一的な判断を要求される機会が増えたこと》に通じると思う。
 蓮實氏は、「二項対立」という言葉で語ってる。
 あっ、もう、これ、「一 齟齬の誘惑」に入ってってしまう。ので、本文へ。

蓮實重彦『齟齬の誘惑』04

一 齟齬の誘惑
 そう、蓮實氏は、「二項対立」という言葉で語ってる。
《一国経済からグローバリゼーションへ、国営から民営化へ、法人資本主義から市場原理へ、終身雇用から人材の流動へ、模倣から独創へなど、こうした現代の日本で主題化されている二項対立は、いずれも後者の優位を前提として語られております。官の時代が終わり、民の時代が始まるといった議論が、模倣の時代から独創の時代へといった耳触りのよいスローガンとともに、事態の検証を欠いた粗雑さで、まことしやかにささやかれております。》
 国家公務員の25%削減、国立大学の独立行政法人化の話。
 先の香山さんの本の感想で、ボクはこう書いた。
《2005年の小泉選挙、「国民に問いたい。郵政改革、イエスか、ノーか」、と、これだけで争った。非常にわかりやすいスローガンで、国民に二者択一を迫った。本来、もっといろいろな問題を抱えていたし、郵政民営化の弊害もあるはずなのに、国民は、その見せかけの分かりやすさに、「イエス」「ノー」の即答を迫られたのだ。》と。
 さらには、その本の別の章の感想で、
《ただ、思うに、自由に市場に任せていけばいい、なんてのは真に経済学なのだろうか。どう経済を動かすべきかを考えるのが経済学だとすれば、「自由にやらせておけ」は、あまりに無責任な学問じゃなかろうか。
 ちょっとお門違いかもしれないが、公共と民営が世の中には存在する。公共というのは、ある意味、政府が介入して、全ての国民に平等に提供するのに対し、民営は需要と供給の関係で提供される。乱暴に言えば、前者は、全ての人が享受でき、後者は貧富の差、格差社会をもたらす。このバランスをとることが真の経済学ではなかろうか。
 例えば、公園という公共の場がある。自由に誰でも出入りでき、楽しむことが出来る。それを、もし需要と供給に任せるべく、お金を動かさんがために民営化して入園料を徴収したら、利用する人と利用しない人が出てくると思う。》
 日本の省庁は、どうでもいいものが多く(特にデジタル庁って何?)、大切な文化省がない!
 しかも、民営化と市場原理に投げやって、新自由主義の一部の富裕層だけが儲かる格差社会。どういうことか。
 そういうことに対し、蓮實氏は、真剣に新入生に「その見せかけの分かりやすさ」に騙されてはいけない、「真に知性を駆使して」大学で学んでほしいと述べているのだ。
 また「モダン」とか「ポスト・モダン」とかも、この二項対立であり、さらには、大学ランキングなどという(分かりやすそうで、何も分かっていない人のわけわからぬ情報)マスメディア的発想で、「質」の評価を安易に「量」の計測に委ねてしまう、そのことはベルグソン哲学以降誰もが認めていることなのだよねえ。
 蓮實氏は、卒業生に今では死後にされてしまった「誇り」を持て、とも。
《「誇り」の一語が口にされるとき、そこには、しばしば、想定される敵対者への、あるいは現実の敗者への配慮を欠いた民族主義的な色調が込められておりました。》
 つまり、民族団結やナショナリズムのスローガンとして使われ、優位にあるものの余裕に思われるようになったがため、死語化したのだが、
《いまある自分とは異なる何かへといつでも生成しうる潜在性によりそって生きることで、「誇り」は、はじめて「誇り」としてかたちをとるものなのです。》
 彼は「ちょっと考えてみること」を怠るはずのない「誇り」にみちた若い男女に言う。
《21世紀にふさわしい「誇り」の姿とかたちを素描できるのは、あなたがたをおいては存在しえないからです。》
 拍手です。
 あと、「不況下の日本人のダンス狂い」という某外国の高級日刊紙、まさにマスメディアの「あらゆる日本人」的な表現は、分かりやすい書きをつけねばならない。まあ、マスメディアの情報は落語のネタくらいに思っておけばいいかも。
 あと、「新しいものは新しい」「古いものは古い」と確信する人たちの改革は流行でしかない。「古いものは新しい」「新しいものは古い」というシェークスピアの矛盾語法「オクシモロン」は素晴らしい。

二 真実の位置
 大学を3つの世代に捉える。
 第一世代は、中世に成立した西欧の由緒ある大学、ボローニャ、パリ、オックスフォードなど、「真実が」人間の知性を超えたもの、神あるいは形而上学を頂点とする。
 近代国家の形成期に成立した第二世代の大学は、その関係が完全に逆転する。19世紀において、「真実」は超越的な価値であることを止め、ニーチェが「神は死んだ」と述べたと同じ頃に、「真実の位置」は大学そのものとなった。
 そして、まだまだ「第二世代」、東京大学では安田講堂の塔のようなシンボルに象徴されるように、第二世代を引きずっているが、今や、第三世代に入らねばならない。それは、「塔から寄港地へ」と蓮實氏は言う。
《寄港地とは、外洋に向けても内陸に向けても開かれた港でございます。そこに内陸からの人が来れば、外洋からもさまざまな人たちが船に乗ってやってきて、一時停泊してそこでしかるべき交流が行われる。そして、そこから人はまた内陸に去り、あるいは外洋に向けて旅立つといった、そのような交流の場である寄港地としての大学というものを創造しなければならないと思っております。》
 思わず拍手です。
 1998年の「留学生国際シンポジウム挨拶」で蓮實氏は35年前の、ある国の奨学金で論文を仕上げるという話をされておられる。タイプライターのための印刷費を援助してくれるよう、その大学の留学生係にお願いしたら、後日、請求した金額よりも一桁多い小切手を渡されたそうな。
《「あなたは、この間勉強をし、そしてこの国で博士をとられました。その博士論文のためにあなたはこの国に滞在していたということがわかります。あなたが博士論文を書いたことはこの国にとってよいことです。したがって、あなたがこの博士論文の審査を受けるその月及びその前後の三ヵ月分の滞在費を差し上げましょう」》
「こういうことは規則なのでしょうか」と問うと、
《「そうではありません。あなたのさまざまなこれまでの業績を調べてみて、そのようにするのが私にとって最良の決断であると思ったから、私一人の意思でこれだけのお金を差し上げるのです」》
 留学生を迎えるとは、そういうことなのだ、という蓮實氏の素晴らしい挨拶に感動。

三 第三世代の大学
 ここでは、第2章「真実の位置」でも語られているように、第一世代は、「真実が」人間の知性を超えたもの、神あるいは形而上学。第二世代は、その逆転で「真実の位置」は大学そのものとなったが、そのまま引きずっていてはいけない。
《真理とは、自分が錯覚であることを忘れた錯覚にすぎないという二―チェの言葉は、そのあたりの事情をふまえて口にされたものなのです。》
 すなわち凡庸化されたヘーゲル主義が蔓延し、様々な「終わり」、イデオロギーの終焉、知識人の終焉、マルクス主義の終焉などなど、宣告され、悲劇的な終末が接近しつつあるという悲観主義に見舞われ……。ただ、ヘーゲル主義者たちは、ヘーゲルそのものの考え方を間違って捉えている可能性は大きい、ボクは、最近になってそう思う。
 ただ、そうしたヘーゲル主義者によって、悲観主義が行動を禁欲化しているのも事実かもしれない。
 大事なのは、肯定すること、と蓮實氏は言います。
《義務でなく、幸福への権利としてみずからを変容させようとする身振りこそが、ここでいう肯定にほかなりません。日本の大学は、近代の日本社会がそうであるように、禁止に対して敏感であろうとするあまり、肯定の身振りを演じきれずにおりました。この不幸な禁欲主義からの解放こそが、学問の自由にほかなりません。その自由を身をもって体験すべく、われわれは、「終わり」へのコンプレックスめいた言及とはいっさい無縁の領域で、喜ばしい権利の行使として肯定の身振り演じてみたいと願っております。》
 簡単に言えば、社会や政治のしがらみが「あれしやいけない、これしやいけない」を形作っており、マスコミまでがコンプライアンスかなんか知らんが「禁止表現」を模索し、殻に閉じこめんとしている。その殻の中でしか大学も生きられないならば、巨塔をバベルのように作り上げるしかない。それでは、虚構な存在になってしまう。そうではない、「喜ばしい権利の行使」として、もっと開かれた大学、第2章で言う「塔」ではなく「寄港地」なのだと思う。
 あと、この章で、素晴らしいことが書かれている。「ノイズ」だ。「ノイズ」とは「急がば回れ」で一見無駄をしてきた経験値だ。日本は、その経験値「ノイズ」がほとんどないまま若い年齢で就職する。それでは、自分の意志、考える力を推進力にして社会の波を航海する力がない、と。「秀才」であっても、この「ノイズ」が貧しいが故に、
《「秀才」たちは閉ざされた縦社会に保護されることを求めざるをえません。》
 これは、奨学金を貧しさから贅沢さへと変貌させるための迂回期間に投資されるべきだ、ということに繋がるのだ。

蓮實重彦『齟齬の誘惑』05

四 東京大学をめざす若い男女に
 いやあ、それにしても、蓮實総長、いろんなところにコメントしてるんだねえ。「東京大学新聞」「東京大学入学者募集要項」「学生弁論大会」「「運動会」「体育大会」「卓球大会」「応援団発表会」「競漕大会」「音楽部コールアカデミー定演」などなど……。
 総長はつらいよ。
 ここでも、第三世代の大学について、塔のような高さではなく、広がり、大学が大学以外の場とさまざまなかたちでコネクションづけていく。
 例えば、ネットワークについて、
《電子情報ネットワークだけが世界を覆うと、あらゆる人が正常人になってしまう。(中略)電子メールは昼夜構わず届き、夜の妄想の時間を消してしまいかねない。(中略)無駄なことばを交わしているうちに思いがけないものが生まれてくるような夜のノイズの生産性ーたとえば、国際会議があるとすると、昼間は建前でしゃべっていますが、夜に建前で話してた男女が恋に落ちることもある。その恋でさえネットワーク》
 いいねえ、恋するネットワーク。
 受験生に対して、
《あらゆる組織は、未知の驚きへの感性を放棄した瞬間に若さを失い、崩壊の道をたどりはじめます。だから、東京大学にとって、受験生であるあなたがたとの出会いは、組織としての若さの維持に不可欠な稀有の体験なのです。》
 おお、レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』だね。
 あと、「自分で考えること」は「たかが知れている」が、「他人とともに考える」なら、その異質な存在に触れることで、「自分」も変化を遂げていく。そりゃそうだ。だが、「考える」こともしない人が多すぎるのだ。
 弁論大会については、
《多くの聴衆を前にして何かを語ることの貴重さは、それが、複数の耳によって聞かれ、複数の瞳によって見られる体験であることにつきています。いかなる主題を論じる場合であろうと、それぞれの語る主体は、そのとき不特定多数の視覚と聴覚による試練で無防備な裸体に還元され、言葉を失うか、他者との接触による創造的な変化をうけいれざるをえません。その変化は語る主体の全存在に及ぶものだという意味で、かけがえのない教育的な体験であると同時に、この上なくエロチックな体験でもあります。このエロチシズムに徹底的に無感覚だったために、日本における弁論の多くが無償の饒舌に陥りがちであることは、誰もが体験によって知っております。》
 んだんだ。
あと、「エディプス・コンプレックス」が笑えた。蓮實氏は、京大と東大における漕艇競技というイメージを、ともに父親の権威として抹殺することで成長して来たそうな。なので、京大・東大対抗競漕大会の祝辞にはエディプス・コンプレックスが露呈するんだと。あはは。

五 視線の論理・視線の倫理
 この「日本映画の海外評価」に関する講演会は、メチャ面白い。
《東大総長という立場はもはや東大の教授ではありません。総長と申しますのはアドミニストレーションの長でありまして、教育・研究をしてはいけない、という非常に悲しい職》と。いやあ、総長はつらいねえ。
 そして、さらなる導入で
《わたくしはどちらかといいますと学生を犠牲にしても授業をするというタイプの人間でございます。学生が望んだことよりは、彼らが望んでいないことを彼らとともに考えるという立場に立っておりますので、多くの場合、学生は犠牲となります。したがいまして、今日おいでになった皆さま方もわたくしの犠牲になる覚悟をしていただきたいということでございます。》
 あははは。
 1995年の映画誕生100年にあたり世界の100人の映画専門家に「あなたはどの日本映画が心から好きか」の質問の答え。
 成瀬巳喜男監督『稲妻』、溝口健二『雨月物語』、山本嘉次郎『馬』、成瀬巳喜男『晩菊』、小津安二郎『東京物語』、勅使河原宏『砂の女』、市川崑『ビルマの竪琴』、鈴木清順『東京流れ者』、亀井文雄『戦ふ兵隊』、小津安二郎『晩春』、溝口健二『浪華悲歌』、小津安二郎『お早よう』、大島渚『少年』、溝口健二『山椒大夫』、小栗康平『死の棘』、山中貞雄『人情紙風船』、黒澤明『七人の侍』、小津安二郎『秋刀魚の味』、黒澤明『蜘蛛巣城』。
 日本映画は海外では一般公開は少ない。レトロスペクティブ(懐古上映)、シネマテーク、試写の市場原理とは別物。蓮實氏は、映画祭のディレクターなどに、暗示をずっとかける役割をしてきたそうな。笑える。洗脳とか、マインドコントロールとかいう語も。
 そして、さすが映画評論家でもある蓮實氏、小津安二郎監督のカッティング・イン・アクションの凄さをビデオ上映しながら(何度も巻き戻して)説明している。まじ、すごいよ。そうなんだね、カッティング・イン・アクションは、そのまんまのカメラアングルが多いのに、小津氏は正反対から撮るんだ。極めて日常のシーンに非日常を紛れ込ませる、ってことか。長回しの小津(セリフを覚える人は大変)と笠智衆の「そうかね」連発ばかりに気を取られてたよ。
 そうそう、小津監督映画はヴィム・ベンダース監督もお気に入り。ある意味、何でもない日常に生きる中で絶えず新たな発見をする『PERFECT DAYS』は、小津以上に小津かもね。
 この章は夢中になって読んだヨ。

総長日誌
 これは省略ねえ。

 以上、蓮實重彦氏の東京大学総長時代の文章を読んだ。楽しんだヨ。この総長でのお仕事が終了した後に、名作『伯爵夫人』は生まれたんだねえ。分かる分かる。しがらみから解放されれば、そうなるよ。
 本来、東大総長としてのコメント、一般の人には触れえないお言葉の数々がこうして文庫化され、総長としての職務に真摯に取り組み、しかも批判するときは体制批判もちゃんとする、そうでないときも、「葛藤」という言葉でうまくすり抜けてるけど、その蓮實氏の生きざまに、ボクは、素晴らしいフランス文学の先輩(もちろん大学は違うよ)であり、人生の先生であることを痛感した一冊だったよ。
 よろしければ、今のうちに『伯爵夫人』の第2弾、『侯爵夫人』を書いて欲しいな。もち、『伯爵夫人』よりも性的な描写ふんだんの『侯爵夫人』。でも、あの回転ドアの「ばふりばふり」とエクスタシーの「ぱふ~」は必須です。よろしくです。


蓮實重彦『齟齬の誘惑』 posted by (C)shisyun


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