筒井康隆『旅のラゴス』   | 空想俳人日記

筒井康隆『旅のラゴス』  

 ほんまは『モナドの領域』を買うつもりだったのだが、『旅のロゴス』を買ってしまった。
 ロゴスとパトスか。一応ネットで確かめてみた。理屈で説得が「ロゴス」で、情熱で説得が「パトス」、と思いきや、「エトス」とやらが付いてきた。信頼で説得、それって何? 「エロス」なら知ってるけど。
 旅について論理だって説得されるのかな、あんまし面白そうじゃないな。でも、読んでみた。
「ああああああ”、間違えたア。タイトル、『旅のロゴス』じゃなく、『旅のラゴス』じゃん」
 ナイジェリアの都市? 関係ないか。
 しかも、読み始めれば、「これ、存外、おもしろいじゃん」

筒井康隆『旅のラゴス』01 筒井康隆『旅のラゴス』02 筒井康隆『旅のラゴス』03

 高度な文明を持っていた黄色い星を脱出した1000人の移住者が「この地」に着いた。人々は機械を直す術を持たず、文明はわずか数年で原始に逆戻りしたが、その代償として超自然的能力を獲得した。それから2200年余り経った時代、ラゴスは一生をかけて「この地」を旅する。

筒井康隆『旅のラゴス』04

集団転移
《勝手な推測で人間をある隊列とか図形に配置するということにはなんの意味もないのだし、かえって各個人が他人への依存心を強めてしまうのだ。円陣というのもどちらかといえば保守的防御的な隊形であり、トリップしようとする意欲を殺ぐことにもなりかねない。》
《呪術的になってはいかんのだ。さらにまた全員がひどく緊張しはじめている。想像力は緊張の中からは生まれない。》
《想像は固定してしまってはいけないのだ。特に想像力の貧困な者が行く先の描写をしたりしてはより想像力の優れた者を貧弱な描写の枠内に閉じこめることにもなり、だいいちしらけてしまう。そしてポルテツはおれの見る限りあまり想像力の豊かな男とは思えないのだ。想像の内容は各個人ごとに異なるのであり、各個人がそれぞれの思い入れによって想像した方が飛翔力はより強まるのである。》
 これらは、共同体(ムルダム一族)のリーダーであるポルテツが、集団転移をしようとする際の皆への指示に対して、ラゴスが否定する言葉だが、ボクは、共同体で生きることそのものに対しての言葉に思えてならない。共に生きるとは、ひとつにまとめるのでなく、全ての個人を包括すべきことなのだ、と。共同体は軍隊ではないのだから。

開放された男
 一族の暴れ者のヨーマについて、同化の力が強い少女デーデが、その理由を言うよ。
《「ヨーマには、ひとの心が見えすぎるのよ。本当はとてもやさしいんだけど、やさしすぎて、自分を悪く思っているひとをひどく気にするの」》
 そう、決して、「ひとの心が見える」という能力が優れたもののようで、そうではないことが語られている、と思う。「ひとの心」は、あくまで二人称・三人称の心、知らない方がいい。何故なら、一人称は自分でしかないのだから。
 それにしても、デーデが気になるなあ。


 似顔絵描きのザムラの絵は、
《厳密に言うならおれの顔ではなく、おれ自身が理想とするおれ自身の顔であったのだ。》
 これは画家としての才能ではなく、ザムラには以下のような能力があるのだ。
《「相手の心の中に浮かんだ顔なら、それが相手の顔でなくて描けるのか」
 「ああ。こういう具合にな」ザムラの顔が瞬間、デーデの顔になった。》
 なるほど。そんな彼は、顔にダイイング・メッセージを残して殺される。
 
壁抜け芸人
 壁を抜けることのできる芸人・ウンバロ。宿泊先のドリド家の令嬢が狙われていることに、ラゴスは、身がわりになって令嬢の部屋でウンバロを待つのだが、眠ってしまう。目覚めると
《灰色の壁の表面に人の形がくっきり浮かびあがっていた。》
《壁の中のウンバロは哀れにも壁と一体化して凝固していた。(中略)壁からは彼の顔面の中央部、即ちそれは額と眼と鼻と口、それに両頬の一部が突き出ていた。彼は口をなかば開き眼を見開いていた。その下方から突き出た両手の指は苦しげに内側へ折り曲げられていた。》
《副隊長は壁から突き出ているウンバロの亀頭を指さした。「この男はお嬢さんがいるとばかり思って侵入してきた。ベッドの上に人間の裸体があった。ところがその裸体はこの男に向けて、股間のくろぐろとした男性生殖器をさらしていた」副隊長は苦笑した。「やはり動転したのですよ」》
 ああ、なんと、人間の悲劇とは、喜劇なものよ。

たまご道
 ムラサキコウの卵が石畳に埋め込まれている石造りの町で、ラゴスは眠れぬ夜を過ごす。その「龍」と呼ばれるヘビの行動。
《しゃらしゃらと尻尾の先端の角質の発音器官を金属的に高鳴らせ身をくねらせて無駄な努力を続けるその様子はなんとなくひとの世の哀れさをさえ感じさせるものがあり、ただの爬虫類の嘆きや苦痛以上のものがその身もだえするような蛇行から見てとることができた。》
 ううむ、すごい分かる。

銀鉱
 バドスの町でラゴスは奴隷狩りの襲撃に遭い、銀鉱で7年も働く。いつしかフウフウのように暮らすラウラ。ボクは、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『イノセント』での主演女優ラウラ・アントネッリを思い出したよ。このラウラは、サルヴァトーレ・サンペリ監督の映画『青い体験』で有名になったみたいだけど、ボクは観てない。ルキノ・ヴィスコンティ監督の1975年作品である『イノセント』を観て、彼女に惚れた。ボクは二十歳前で、彼女は、もう30代半ばだったが、この作品で、彼女は、この間読んだ蓮實重彦『伯爵夫人』的存在になった。
 だが、ラゴスは、彼女と別れる。旅を続けるために。そりゃそうだ。ここで、夫婦生活に入ってしまえば、筒井氏の連載小説は終わってしまう。筒井氏は、連載中は、その都度、想像力を発揮してたくさんの旅をこさえていたが、頭の中には最終章は出来上がっていたと思う。
 この『旅のラゴス』は、そういう意味で、不定期連載の中、楽しんで書かれていたと思う。
 ここで、ちょっと脱線だが、筒井氏は、この小説で、多くの登場人物を創出している。しかも、その名前が、ボクも間違えた(ラゴスとロゴス)が、読み手にいろいろ想起させるよね。で、あの筒井康隆『創作の極意と掟』の中の「人物」という章で、ボクはこうブログ記事に書いている。

「人物」
 人物の素性や性格、経歴の話ではない。つまり、どういう人物を登場させればいいか、ではなく(そんなこと自分で考えなさい、だよねえ)、登場人物そのもののお話。どれだけ登場させるか、意味のない人も登場させるパーティシーンも世の中にはある。そして、登場人物の相関図を冒頭前に載せている小説もある。そういやあ、戯曲って、最初に登場人物書いてあるね。Aが登場すると前景へ来るが、次にBが登場するとAはa背景に行く。次々に、CやDやFや登場して、誰が誰だか分からなくなる。トルストイの「戦争と平和」なんか、それで途中で投げ出しちゃう。でも、奇妙な人物ばかりが登場すれば覚えてられるかもねエ。その奇怪な人たちが次々に前景に登場しても誰一人背景に沈むことなく忘れられない存在でい続ける凄い小説、それが大江健三郎の「同時代ゲーム」だ。

 あららあ、大江健三郎の「同時代ゲーム」まで出ちゃったねえ。登場人物の名前は、さっきボクが「ラウラ」で「ラウラ・アントネッリ」を思い出したように、一人一人で思い起こすものが違う、と思う。この小説には、たくさんの固有名詞や、たくさんのわけわからぬ動物の名前、植物の名前が出てくる。
 ボクたちは、ありふれた「花子」や「太郎」よりも、「デーデ」や「ラウラ」に惹かれるのである。これも、筒井氏の創作の極意だと思う。
 ちなみに、『イノセント』のラウラは、ボクにとって蓮實重彦『伯爵夫人』である。

筒井康隆『旅のラゴス』05
筒井康隆『旅のラゴス』06

着地点
 ワインの海で知り合ったサルコ、ボニータとその息子(私生児)タッシオと、宇宙船の残骸があるというキチを目指す。キチで荒れ果てた宇宙船を見たラゴスは、移住者が残した書物があるというポロの盆地を目指す。
 ここで出てくるタッシオがラゴスとの出会いで記憶者としての能力に目覚めるところで、
「あ、彼は、あとで書物を読むラゴスの片腕になるなあ」思った。あれ、レイ・ブラドベリ原作、フランソワ・トリュフォーが映画化した『華氏451』をボクは思い出したのだ。本が燃やされる前に、皆で分担して記憶にとどめるって奴だよ。

王国への道
ポロで移住者たちが残したドームで15年間、ラゴスは書物を読みふける。ここで登場する二人の娘、飛行能力を持つ森の番人の娘カカラニと同化能力を持つ鍛冶屋の娘で、ラゴスの世話をするニキタ。二人とも出会った頃は12歳だが、5年ほどたったある日、ニキタがえっらい女性っぽくなる。
「あ、ニキタは、ラゴスに惚れてるな」思ったよ。そして、
「なんだ、カカラニもラゴスに惚れてるぞ」
 そして、いつの間にか、ラゴスは王様になっていた。というのも、きっかけは、あちこちに散在している実がコーヒー豆であることが分かり、ラゴスは、それを焙煎する方法を教えると、ポロの村が町へと変貌を遂げるのね。商人が来る。人口が増える。経済が活発化する。そうして、町の外ではその間に、ラゴスを王として王国が建設される。
「南の大陸、ここって、あれか、アフリカ大陸? エチオピアか。それとも、南アメリカ大陸? ブラジルかコロンビアか」と思ったよ。
 タッシオがやってくる。彼に、医学史と科学史を暗記させることに。
「ほらね!」
 ラゴスは系統立てて書物を読みふけるのだが、科学のジャンルの本を読み始めた時に、
「やばい!」って思ったよ。引用しよう。
《ドーム内の一室にさまざまな発電装置を作り、ニキタの父親に命じて次つぎと電気機械の部品を作らせ、その組立てや運転を繰り返した。》
 が、ここから重要。
《現在のこの世界に、電気という科学を持ち込んでもいいのだろうか。科学史をずっと先まで読んだ限りでは、最先端の科学技術が一般庶民の生活感情と遊離するほどまでに進んだ社会は、必ず何らかの形で不幸に見舞われているのだ。もちろん先祖のいた世界における最先端の科学技術とは、電気機械などとは比較にならぬ、より高度なものであった。しかし、ヌー教授のことばにもあるように、そのような高度な科学技術を駆使できる文明人が、突如原始の世界に投げ出されたが故に発生した、この世界の人間の超自然的能力ではなかったのだろうか。文明の利器は獲得しつつあるそれら得難い形質の消失につながるのではないだろうか。》
「そのとおりだ。同じ過ちを繰り返さぬために、科学を読むのは中止しろ!」と、ボクは叫んだ。
《五カ月ばかり没入した電気の実験をわたしは中止した。ウラニウムが発見された段階でわたしは科学史をタッシオに読んで聞かせることも中断し、以後は病理学を暗記させることにした。》
「正解!」とボクは叫んだ。
 あと、ニキタかカカラニか、どちらかと結婚してくれ、そう言われたとき、ボクは、「両方と結婚しちゃえよ」と叫んだ。
《「二人と結婚する」》
 その通りになった。子どもも出来た。めでたしめでたし。ではなく、結局、二人の姫を残して、ラゴスは、また旅に出る。北へ帰るのだ。

赤い蝶
 ラゴスは北へ帰る。デーデのことを思いながら。って、だいたい何年他っておいたんだよ。20年以上じゃん。まだ重大だった彼女も40歳。待ってるわけないじゃん。なんで、旅に連れて行かんかったんだよ。
 とまあ、そんなこと言ったら、小説にはな®んもんねエ。そんなわけで、故郷に戻る前に、再びシュミロッカ平原を訪れるんだね。すると、そこにデーではいない。ヨーマもいないって。村人たちは、あえてデーデのことは口にしない。
「ははあん」とボクは思う。
「デーデは、ヨーマと結婚して村を出たんだな」と。だって、ラゴスがいないデーデにとって、『解放された男』の章で書いたよね。
《「ヨーマには、ひとの心が見えすぎるのよ。本当はとてもやさしいんだけど、やさしすぎて、自分を悪く思っているひとをひどく気にするの」》
 デーデは、自分を頼りにしないラゴスより、自分を頼りにするだろうヨーマに自らを捧げたのだ。
 先を読んだ。
《「ヨーマが、デーデに、妻になってくれと頼んだ。ヨーマはあれからもあいかわらずあばれ続けていて、村でもう、少しでもヨーマのことがわかって、同情しているのは、デーデだけになっちまっていた」》
「ほうら見ろ」

筒井康隆『旅のラゴス』07


 顎の原で盗賊に襲われたラゴスは、スカシウマとともに逃げるのだが、これ、絶対にアニメ化するべきだよ、そのシーンが見せ場を作ると思うよ。
 ラゴスはスカシウマと同化する。スカシウマは、断崖絶壁を飛ぼうとする。それはカカラニと一緒だったから出来たんだと思うが……。
《そうです。そうです。カカラニ。カカラニ。》
《飛べる。飛べる。》
《カカラニと一緒。カカラニと一緒、》
《さあ。友よ。共に飛ぼう。》
 ここだよ、映像は最高潮に。
《わたしたちはそのままの速度で高みへと翔んだ。はるか行く手の高みにわれらを待ち受ける、雲。》
 かっこいい。

奴隷商人
 奴隷商人のムトとウラムジがラゴスを南の人間だと思って襲う。そして、奴隷として売ろうとするが。オノロの市長邸へ。市長は情深く、奴隷を連れて行くといい値で買ってくれると、ラゴスは嵌める。なんと市長のデノモスはラゴスの従兄なのだ。
「あははは」と、ボクは笑う。

氷の女王
 さあ、最後の章だ。どうやら、デーデと会わずじまいで、お話が終わりそうだぞ。もう。
 ラゴスは実家のあるキテロ市へ帰ってくる。彼の南で得た知識は、故郷で大歓迎され、たくさんの講義依頼を受け、多忙を極める。兄から羨望のまなざしとともに疎まれたり、兄の奥さん(実は幼馴染)から愛されたり、と、とにかくラゴスは、ヒーローだよ。
 でも、ラゴスは、その多忙のまま終わりたくない。
 そして、父親の蔵書の中に、デーデらしき女性が氷の女王として描かれているのを見たラゴス。彼は決意する、氷の国へと再び旅立つことを。
 最後に、北の森に住む森番の老人ドネルと年寄同士の会話。ドネルは、一緒に住んで楽しく余生を送ろうと誘うが、ラゴスは、旅に出るんだねえ。
《「あんたはきっと氷の女王に逢えるだろうよ。」》
 ボクも、それを願って、読み終えた。

 以上、この物語は、一見SFっぽくもあるが(超能力なども登場して)、実は、ある意味、正統派人類史物語ではないか、ボクはそう思った。
 先祖の高度な文明の書を南で読んでいるが、その書を運んできた船は、ひょっとこしてもしかして、未来から飛んできた船かもしれないのだ。
 つまり、ラゴスは、未来の書を知識に蓄え、再び過ちを犯さぬ歴史を刻もうとする人生を送るのだが、最後は、旅をし続けることこそ、人生である、そう悟るのだね。
 全然、トンチンカンかもしれないけど、ボクは、愛すべき童話作家で詩人でもある新美南吉の詩『寓話』を思い出した。
 AMIが曲をつけて歌っているので、それを最後に動画貼り付けして、ラゴスへの餞(はなむけ)としたい。



筒井康隆『旅のラゴス』 posted by (C)shisyun


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