東日本大震災 追悼鎮魂、津波てんでんこ、MISIA、平井堅、上白石萌音、ドラマ「JIN 仁」、震災復興、岩手県、宮城県、秋田県、福島県 須賀川市、神奈川県 横浜市、関東大震災、津波、歌謡曲。

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歴音21.あの日を…未来てんでんこ!



今年も、3月11日がやって来ました。
毎年、必ず、この日は来ます。

世界で地震発生回数トップクラスの「地震大国・日本」ですが、そこには、くじけない復興民族が暮らし、世界に冠(かん)たる「復興ソング」という音楽ジャンルがあります!

音楽とともに、どうぞ 追悼の気持ちを新たに…!

「震災」をテーマに、昨年のコラムを加筆修正し、前回と今回の連続コラムで掲載させていただきます。
前回…「この日を忘れない…3.11」
今回…「あの日を… 未来てんでんこ!」


◇残された実映像

東日本大震災では、人間や動物などの生き物はもちろん、建物、乗り物、自然、他にも 数えきれないほどの機器類や楽器も被災しました。

私も、仕事の関連で、福島の原発事故現場での撮影で使用し被爆したカメラなどの映像機器類を、多数 目にしました。

その一回の使用で、廃棄した撮影機材も少なくありません。
カメラマンにとっての撮影機材は、ミュージシャンにとっての楽器と同じです。

放射能は目には見えませんが、撮影された映像の中には、しっかりその異様な現象などが記録されていました。

人間が カメラなどで撮影した映像だけでなく、他にも、波に流される、運転手のいない自動車のドライブレコーダーが撮影した映像や、監視防犯カメラが記録した映像などを、テレビやネットを通じて見た方も、たくさん おられると思います。

さまざまな映像機器類が、最後の仕事として、貴重な映像をたくさん残してくれました。
写真や映像が残ることで、災害の実情が後世に残させることになりましたね。

映像から、津波はこういう姿で、海の沖からやって来たのか…。

実際の光景を撮影した写真や映像には、手で描かれた絵画や、想像で作られる映像、伝聞などの話し、記録文章、などには残せない貴重な情報がたくさん詰まっています。
次の災害への備えとして、しっかり役立てていきたいものです。


◇あの日のピアノ…

映像機器類だけでなく、数えきれないほどの音楽楽器も、地震や津波の被害にあってしまいました。

津波にのまれた、学校の音楽室にあったピアノや、一般の家庭にあったピアノも、少なくありませんでした。

被災地の映像の中には、大型ピアノが、瓦礫の中で無残な状態でとり残されている内容も少なくありませんでした。

他の楽器類と異なり、ピアノは大型であるがゆえに、箱におさまっているわけではなく、そのままの姿で被災し、津波に流されていきます。

その日の瞬間まで、音楽室やコンサート会場、一般の住宅の中で、きれいな姿で活躍していたピアノたちが、一瞬に無残な姿に変えられてしまいました。

そのピアノを使っていた方々はもちろん、他の楽器の演奏家や、テレビで被災映像を目にした 音楽を愛する方々には、どれほどショックな映像であったことか…。

* * *

ピアノを演奏する者にとって、自身の愛用のピアノは、まさに、同志・家族・恋人・友人・わが子のようなものですね。
どんなに遠く離れた地への転居であっても、愛用のピアノを、多額の費用をかけて運ぶ方はたくさんいます。
中には、自宅の一部を壊してでも、大型クレーンで運び出し、転居する方もいます。
新築の場合は、ピアノを入れてから、家の壁を完成させますね。

あの時に弾いたピアノ…、あの方が弾いていたピアノ…、あの方から贈られたピアノ…、自身と一緒に成長してきたピアノ…、ピアノだけではありませんが、楽器は、人にとって特別な品物であることに間違いありません。

新しい楽器を購入すれば、それでいいというものではありませんね。
演奏家にとって、楽器は家族です。

* * *

被災地の荒地で、傷ついた状態のまま放置しておくことなど 到底 許すことができない ピアノたちです。

傷つき 取り残されたピアノの映像をテレビで見るたびに、これを弾いていた人はどうなっただろうか…、どれほどの思い出がこのピアノにはあるのだろうか…と、いつも思ってしまいます。

そのまま廃棄されるピアノもありますが、一部は修理され、楽器として復活できるものも中にはあります。

どんな音になろうとも、「震災前のあの日まで、元気でいたピアノ」 に再会できることは、うれしい限りですね。

見た目や、楽器としての音質の良し悪しではなく、「苦難を乗り越えたピアノ」として、後世に残していってほしいピアノたちです。

ぜひ 多くの方々の目と耳に触れてほしい…「復興ピアノ」たちです。

* * *

仙台空港の「復興ピアノ」もそのひとつ…。
このピアノは、宮城県七ヶ浜町の一般住宅にあったピアノだそうです。
七ヶ浜町は、沿岸にある町で、町の面積の4割ほどが 津波で浸水した地域です。
空港の常設ではないようですが、特別な時に設置されるそうです。

みやけん
♪旅立ちの日に

 

仙台空港の「復興ピアノ」で… 小田和正さんの曲。
ハラミちゃんの演奏ですが、これは、まさにピアノ自身が歌っていますね。
♪たしかなこと

 

* * *

私は、日本にどれくらいの人数のミュージシャンがいるのか、たしかなことは知りません。
ですが、駅ピアノ、空港ピアノ、街ピアノが、社会にとって、いかに大切な存在であるかは、「たしかなこと」だと思っています。

さまざまな被災地の復興において、音楽と音楽家たちの役割の大きさはもちろん、復興楽器たちの大きなチカラも、私は「たしかなこと」だと思います。

「復興ピアノ」たちは、新しい命を得て、これから新しい役割のもと、いつまでも がんばっていってくれることでしょう。


◇あの日の日常…

さて、日本人は、遺影や仏像にはもちろん、建物にも、品物にも、風景にさえも、「こんにちは。また来たよ!」と挨拶するような一面を持つ民族ですね。

震災後に戻ってきた列車たちに向かって、「おかえり」と手を振る民族でもあります。

震災前のあの日まで元気で走っていた列車との 再会が、どれほど うれしいことか…。
震災の日から、どれほど、彼らを待っていたことか…。

列車との再会は、かつての「あの日」との再会と同じ意味ですね。
「あの日の日常」が戻って来ることが、どれほど うれしいことか…。
「あの日の日常」を取り戻すことが、どれほど難しく、どれほど大切なことか…。

いったん止まってしまったものが、再び動き出す… その姿が、どれほど勇気を与えてくれることか…。

* * *

下記は、列車たちが、「震災で止められた日」から戻って来た映像です。

列車も、人も、街も、また走り始めることができますね!
地域とは、団結して一緒に走ること…。

震災時に高校生だった彼女は、その後、三陸鉄道の女性運転士になりました。
「三陸鉄道」全線復活(2014)

 

「SL ふくしま復興号」、「沿線スマイル・プロジェクト」(2012)の映像です。
音楽は、秋田県出身の歌手である高橋優さんの「卒業」。
SLふくしま復興号「沿線スマイル・プロジェクト」(2012)

 

東北に新幹線「こまち」が戻ってきた時のプロジェクトの映像です。
音楽は、STG7-8の復興応援曲「あしたのうた」。
おかえり こまち(2011)

 


◇私たちの、これから来る「あの日」

昨年の2023年(令和5)は、震災から12年目をむかえ、人間の法要でいえば「十三回忌」にあたりました。
人間社会でも、「十三回忌」を ひと区切りにするケースも少なくありません。
そのとおり、行政による大きな追悼行事等も、2023年で終了するところが多くありました。

ですが、行政のチカラを借りず、地元の地域住民が率先して「追悼イベント(防災啓発イベント)」を引き続き行っているケースは、日本各地に残っています。

被災は、よその土地、よその人たちの出来事ではないと、日本中の方々が強く思っているからですね。

次に来る「その日の被災地」は、私たちの街かもしれません…。

* * *

昨年2023年の3月11日の横浜市・青葉区の小さな「震災追悼イベント」の内容をご紹介します。

昨年、私は、アメーバブログを通じて、横浜のある「追悼イベント」を知ることができました。

神奈川県 横浜市・青葉区の、青葉台南商店会が、2023年に主催した地元密着の小規模な追悼イベント「しらとり川のキャンドルナイト」です。
行政自治体主催の堅苦しさを感じさせない素敵な内容でした。

東北から遠い、横浜の地で、こうした「追悼イベント」がしっかり続いていることを知って、たいへんうれしい気持ちになりました。
2024年の今年も開催されているかは、私は知りません。

横浜・青葉区での、この「追悼イベント」は、実は、わが身のために、わが地域のために、その心構えを忘れさせないためのものでもあるのかもしれませんね。

地域の方々がキャンドルを手作りするところから、追悼イベントが始まっています。
2023年の「せるにぃ」さんのブログ記事

 

 


◇「関東大震災」時の横浜

実は、横浜のある神奈川県は、1923年(大正12)の「関東大震災」の際に、東京に並ぶほどの大きな被害を受けました。
震源地に近かったのは、むしろ神奈川県のほうです。

人口密集地の東京は、建物破壊や火災で多くの方が亡くなりましたが、神奈川県の場合は、建物破壊による直接的な死亡が圧倒的に多く、それに加えて、津波でも相当な人数が亡くなっています。
鎌倉あたりでも、津波で命をおとした著名人も少なくありませんでした。

神奈川県の三浦半島の地形は、関東大震災により、大きく変化しました。
今年の能登半島地震での、巨大な隆起に よく似ています。

神奈川県の三浦半島や、千葉県の房総半島南部は、関東大震災の一回の地震で、瞬間に1~1.5メートル隆起したといわれています。
古来より「◎◎島」と呼ばれた離れ小島のいくつかが、陸地の半島と合体しました。

神奈川県の海沿い、房総半島南部の東京湾岸は、ほぼすべての地域で巨大津波の被害にあっており、死者も多数ありました。

ですが、東京の今のお台場付近や、浦安、千葉市あたりの湾岸には津波が来ませんでした。
ただ、それは、たまたま そうであったからだけかもしれません。
東京湾のあの巨大な入江の形状は、まさに不気味です。
あの形状には、意味がありますね。
手の親指と人差し指のようにも感じてしまいますね。

* * *

昨年2023年の3月11日に、テレビの追悼番組を見ていましたら、関東大震災時に、横浜で、津波から逃げきって助かったという高齢の女性のインタビューが放送されていました。

私の記憶では、その女性は112歳と書かれていたと思いますので、計算すると、被災当時12歳です。
幼い弟を抱え、まずは、庭に倒された雨戸の戸板の上に逃げたそうです。
当時は、地割れの穴に落ちて死なないように、地面の上に、すぐに戸板を敷いて乗るのが、庶民の常識だったそうです。
今現代の住宅では、金属製の雨戸がすぐに はずせるかはわかりません。

その後、その女の子は、弟を抱え、地割れが起きない砂浜に向かいますが、「津波が来る」という漁師の言葉で反転し、必死で高台に向かって走って逃げたそうです。
石段を駆け上がり、寸前のところで、何とか波にさらわれるずに助かったということだったそうです。
その石段は、今も残っており、その映像が放送されました。

何のへんてつもない、非常に小さな石段で、今現代の避難路からすると到底指定されないであろう細い道ですが、避難という意味では、相当に重要な場所で大切な意味を持っているのかもしれません。

「遠い避難所よりも、近くの安全な場所…」。

東日本大震災でも、避難先の選択が生死を分けたケースがたくさんありました。

震災時の都会では、避難所までたどりつくだけでも、相当に難しい場合も考えられますね。
避難所までたどり着けない場合に、身近な場所で、いざという時に安全に身を置ける場所を見つけておくことも必要なことかもしれませんね。

* * *

今の横浜の中心街も、津波想定域に完全に入っていますので、海沿いの大きな公園や広場などは、避難場所に指定されていないようです。
垂直方向に避難できない場所は、避難所指定にはできないということかもしれません。

巨大地震の際、横浜中心街にいた場合は、少しでも高い高台まで急いで走るか、高層建築物に避難するしか方法がありません。
幸い、その地域には高層建築物がたくさんあり、数階建ての建物が指定避難所になっています。
同様のかたちは、東京など、日本各地の湾岸の大都市にも共通していますね。

おそらく、スマホのGPS機能は、被災直後は使えないでしょう。
避難していい場所は どこなのか…、その場所へのルートは何通りあるのか…、どのくらいの時間でたどり着けるのか…、海や川からの水はどの方向から来るのか… などを 事前に頭に入れておきたいものですね。

遠い避難所なのか…、近くの安全かもしれない場所なのか…。

「横浜開港資料館」の動画

 

 


◇「関東大震災」時の東京

関東大震災の時に、東京の下町地域では、多くの人々が広大な空地などに逃げましたが、あまりの人数と持ち出し荷物の多さに身動きがとれなくなり、強い風の影響もあり、あっという間に、大勢が炎の犠牲になってしまいました。

今は、ただ広ければ安全だということでもないということが、わかってきましたね。

隅田川の対岸に向かうため 橋を渡ろうとしましたが、対岸も大火災に見舞われていました。
大きな橋は 人の重みで崩れ落ち、人々は、川に飛び込むしかなくなりましたが、泳げるスペースなど もはや ありませんでした。
避難において、巨大な河川は障壁になる場合があります。

* * *

1923年(大正12)9月1日に発生した「関東大震災」の実際の映像です。
NHKが、もともとの白黒映像を、人工的にカラー化した映像です。

 

群集心理、情報不足、避難の心構え不足の恐怖…。

 

広大な避難先に、収容できないほどの避難者が…。
実は、その場所は、火災旋風が起きやすい、川沿いの場所でした…。
当時、誰も そのことに気づいていませんでした…。

 

日本には、震災に関する 数々の調査結果や知見が残っています。
研究機関だけでなく、私たち個人レベルでも、単なる想像ではない、正しい知識と情報を持っていたいものですね。

正確な知見と情報は、命を守ってくれます。


◇津波は海からだけではない。山の奥からも…地下からも…!

先ほど、テレビの追悼番組の話しを書きましたが、ここで、全国的には、これまで あまり大きくテレビ報道されていない内容について、少しだけ書きます。

昨年の3月11日のフジテレビの特別番組の中で、それが大きく取り上げられていました。

* * *

津波は、たいてい海からやって来るものと 誰もが思っていますが、実は、東日本大震災では、山の貯水池のダムが決壊し、大きな津波のような状況で、下流の街を襲い、大きな被害をもたらした場所があります。

福島県・須賀川市の「藤沼ダム」がある「藤沼湖(藤沼貯水池)」という農業用の貯水池です。
残された被災写真を見ると、近年の豪雨での山崩れの光景というよりも、まるで沿岸の津波被害のような大規模破壊にも見えます。

福島県の震災被害では、原発被害による避難や、沿岸の津波被害がクローズアップされますが、猪苗代湖の少し南側の山あいの地域で、まるで津波のような水の大被害が起きていました。

そのテレビ番組では、「どうして、山から大量の水が…」という被災者の言葉とともに、具体的な話しを聞いて、その恐ろしさが説明されていました。

この藤沼湖の総貯水容量は、1,504,000 立法メートルです。約15億リットル。
その大量の水が、ダム決壊により、下流の街を次々に襲いました。

下記映像は、震災の年の2011年4月の藤沼湖の映像と解説です。

 

下記映像は、震災から12年後の2023年の藤沼湖の映像です。
下記映像での音楽は、震災当日、ラジオ福島のスタジオで生放送中に被災した シンガーソングライターの「普天間かおり」さんの楽曲「スマイル・アゲイン」です。

 

* * *

東京には、西部に「狭山湖(山口貯水池)」と「多摩湖(村山貯水池)」という人造湖がつくられています。
狭山湖の総貯水容量は、20,649,000立法メートル。 約206億5000万リットル。
多摩湖の総貯水容量は、3,321,000立法メートル。約33億2000万リットル。
合計で約240億リットルです。
前述の藤沼湖の16倍の量です。

東京および近県の飲料水用の貯水池で、決壊は想定されていないのかもしれませんが、万が一の場合は、北東側の荒川や、南側の多摩川に向かって一気に水が押し寄せることになるのかもしれません。
荒川と多摩川のさらに下流には、東京23区があります。

大正時代の建設当時は、周囲にそれほどの数の住民が暮らしていなかったようですが、今は、両方の川まで、決壊した水がたどりつくのに、大きな市街地をいくつも越えていくことになります。
状況によっては、海から離れた東京の一部地域に、まさかの山からの津波が押し寄せることになるのかもしれません。

皆さまの地域にも、人里離れた山奥に、巨大な貯水池はありませんか。
巨大なダムはありませんか。

農業用・飲料用などの大小の貯水地は、日本中に無数に存在しますね。
意外と「地元の あの山の向こうに巨大湖がある」ということを知らない、街の市民は多くいます。

海から相当に離れている山間地の地域の皆さまも、土砂崩れは起きても、津波は来ないと思わないでください。
津波が、山からやって来るということもありますので、頭のどこかに置いておいてください。

* * *

私は、東京で大きな地震の揺れが起こると、まずは、荒川、隅田川、江戸川、多摩川の堤防、そして狭山丘陵の二つの巨大貯水池は大丈夫だろうかと気になります。
次に、木造住宅密集地域の火災と、東京湾からの津波も心配です。

東京の場合、地下鉄や高速道路などのトンネルが網の目のように張り巡らされており、加えて、地下街も相当な規模であります。
中小河川は、ほとんど暗渠(あんきょ)の地下トンネル状態になっています。
東京湾の津波は、陸上よりも、むしろ地下トンネルから、陸地の奥に大量に流れ込み、地表面を吹き飛ばし、地上に猛烈な勢いで噴出するだろうとの予測もあります。

津波で引き起こされた、制御不能となった大量の水は、手の施しようがないかもしれません。
どこから大量の水が襲ってくるか、想像もできません。
行政が、何かの方策を考えておくしかないのかもしれませんね。

* * *

津波が河川を逆流してやって来るとは、下記の映像のようなことです。
水が、海から、川の上流に向かって流れています。
東日本大震災の時の仙台市の映像です。
*心臓の弱い方、思い出したくない方は、見ないでください。

 


◇津波てんでんこ

東日本大震災によって、全国規模で知られるようになった、ある言葉がありますね。
「津波てんでんこ」。

東日本大震災により、この言葉が、日本の隅々まで知れわたりました。
ですが、その言葉は知っていても、その言葉の意味あいの理解は、個人により さまざまなのかもしれません。

人によっては、この言葉の意味を、「津波から逃れるには、他人のことを見捨てて、自分の命を最優先にし、ひとりひとり自由な方向に向かって逃げること!そうすれば 助かる!」と理解している方も多いようです。

たしかに、表面的には 一理(いちり)あるかもしれません。

でも、実際の被災現場で、あなたは、それができますか…?

見知らぬ場所で、ただ一人で地震に遭遇した状況であれば、それも可能ですが、これが自宅で、家族数人が一緒にいて、幼い子供、歩けない年寄りがすぐ近くにいた時に、そうした行動ができるでしょうか…。

家族のうちのひとりでも助かるように、家族がバラバラになって逃げましょうとは、なかなか難しい選択です。
親子、夫婦、恋人、仲間…、バラバラの方向に勝手に逃げましょうは、なかなか勇気のいる決断ですね。
たいていは、家族や仲間がそろって集団で避難しようとしますね。

* * *

阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、今年の能登半島地震でもそうでしたが、崩れた家屋の下敷きになった家族を引っ張り出すことができず、もうすぐ津波がくる、火災が近くまで迫ってきたなどの状況で、涙ながらの別れをした人も多くいました。
相手を置き去りにせず、一緒に亡くなった方もいたでしょう。

あなたは、「自分のことはいいから、この場を離れて、早く逃げろ。私の分も生きてくれ!」と相手に言えますか…。
一方、生きている相手を残して、その場を離れることはできますか…。

状況によっては、究極の判断を強いられるかもしれません。

もし見ず知らずの親子の親がその場で倒れ意識がなく、子供が泣いて たたずんでいる時に、その子を置いて、自分だけで逃げることはできますか…。

もちろん、被災状況や、間柄、年齢、自身の身体の状態などによって判断が変わってくることはあるでしょう。
消防士や医療関係者であったなら、どのような判断をするでしょう。

自身の命は二の次…、相手を残しては逃げない…、最後まで一緒…、と考える方は、世の中に たくさんいますが、一方、「助けられる命」のために自身の命を捧げるという方も たくさんいますね。

「津波てんでんこ」の「てんでんこ」とは、個人ごとにバラバラになることを意味しているのでしょうか…。
おそらくは、必ずしも、そうではないだろうと思います。

* * *

「津波てんでんこ」という言葉を、表面的に、知識として理解できていても、実際に地震に遭遇した時に、どのような判断を自分は行ったらいいのか…。

人間は、それほど理屈で行動する生き物ではありません。

下記動画では、「知識を持っているだけの段階から、判断して行動できる段階まで、自分を引き上げておかないといけない」、「お互いを信じ、信頼して、みんなで助かろう」という主旨の言葉が、経験者から語られています。

 

 

 

* * *

「てんでん ばらばら」という言葉表現がありますが、そこにいる人間やものが、統一感なく、バラバラな思想や動きをする状態を意味していますね。

「津波てんでんこ」の「てんでんこ」も、それぞれバラバラになって逃げることを意味していると思われます。
それが個人での行動なのか、集団での行動なのかは、特に指定されていません。

この言葉の中には、前述の「自分の命を最優先」という意味あいも、特に指定されてはいません。

「個人」や「自分の命を最優先」の部分は、この言葉にふれた各個人の思想により付け加えられた内容のように思います。

本来の「津波てんでんこ」を、自分に合わせて曲解しすぎるのは危険かもしれませんね。

* * *

自分が助かっておけば、その先の未来が作れる。
何よりも、今は、逃げることこそが最優先。
別のあの人も、同じように行動してくれていたら、きっと助かるはず…。
相手の元に、すぐにでも駆け付けたい気持ちはあっても、そこにいない相手のことを信じて、まずは自身が助かる道を選ぶ…。
お互いが、相手の居場所に駆け付けようとしたら、二人とも命を落とす…。
二人とも命さえ残っていれば、苦難は待っているとしても、何とか先の未来が作れるのかもしれない。

「津波が来るぞ!まずは相手の居場所ではなく、高台に向かって全力で走れ!
きっと相手も そうしてくれる!
見捨てるのではない!相手を信じろ!
津波から逃げることだけを考え、結果を信じて、突っ走れ!
津波てんでんこ!」。

私の個人的な思考ですが、「津波てんでんこ」とは、このような意味合いを含んでいるのではないかと思います。

* * *

「津波てんでんこ」という言葉は、近しい人であろうと、見ず知らずの他人であろうと、「他者を見捨て、自分の命が最優先」という意味ではないのだろうと感じます。
むしろ、真逆の意味の、信用・信頼に裏付けされた、希望ある言葉のように感じます。

「津波てんでんこ」の意味の根底には、人間同士の「信頼」や、「命」の大切さが、しっかりあるのだろうと感じます。

この言葉「津波てんでんこ」は、「各個人の居場所や行動がバラバラの状態にはなっても、信頼や思いやりは、つながったままでいろ!誰であれ 命こそを守れ!あきらめるな!」と言っているようにも感じますね。

前の時代の先人たちは、「津波てんでんこ」と強く叫び、自身に言い聞かせながら、高台に走ったのかもしれません。

「津波てんでんこ」という言葉を、知識として知っているだけでなく、その言葉の意味あいや、自身の心構えを、しっかりと考えておきたいものですね。


◇信じて…、未来てんでんこ

最後は、少しだけ音楽を…。

2009年(平成21)に、大人気テレビドラマ「JIN(仁)」(出演:大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀、内野聖陽ほか)がありましたね。
それ以降も、続編が作られました。
時代を超えて、人間ドラマが展開する感動の空想物語でした。

私は、今でも、ロケ地のひとつとなった、東京の「お茶の水」の「順天堂大学病院」(冒頭写真中央建物)の前をクルマで通ると、ドラマ「JIN(仁)」のことを思い出します。

頭の中に、江戸時代の橘 咲(たちばな さき・演:綾瀬はるか)の姿が よみがえります。
ドラマの中では、現代の江戸城の外堀である「お茶の水」の風景も、何度か登場しました。

別々の時代に生まれた男女…。
もう再会できない…?
でも…。

2009年(平成21)版の主題歌
MISIA(ミーシャ)
♪逢いたくていま

 

2011年(平成23)版の主題歌
平井堅(ひらい けん)
♪いとしき日々よ

 

平井堅
♪瞳を閉じて(2004・平成16)

 

瞳を閉じると、まさに、あの時代を、あの人たちを、思い浮かべます…。

ドラマ「JIN(仁)」のテーマ曲とともに、明治時代と今の東京を…。

 

 

* * *

歴史の中で、日本は、巨大自然災害や戦争の度に、大きく姿を変えてきました。
ですが、そこには、何度も乗り越え、立ち上がってくる日本人たちがいましたね。

巨大自然災害の多い日本では、大半の日本人は、個人の数十年の一生の中で、大きな自然災害を一度や二度 体験することは、珍しいことではありません。

地震、津波、洪水、暴風雨、噴火… これからも、巨大自然災害は起きます。
歴史の中の日本人たちがそうであったように、今を生きる日本人も、辛くとも、乗り越えていくしかありませんね。

* * *

これから来る「未来」は、懐かしい人々が歩いてきた「道」そのものなのかもしれません。

私たちが 今 歩いている道を築いたのは、前の時代の人々…。
今、私たちが築いている道は、未来の時代の人々が歩く道なのかもしれません。

私たちは、人を信じ、時代を信じ、未来に向かって、その道を走って、そして築いていきます。

未来、てんでんこ!
でも、信頼で、人も、時代も つながっている…。

未来の「あの日」を、私たちは つくる!


作詞・作曲:森山直太朗
上白石 萌音(かみしらいし もね)
♪懐かしい未来(2022・令和4)

 

2024.3.10(3.11) 天乃みそ汁
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