NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。武田・北条・今川の三国同盟。北条早雲がやって来た。上杉謙信の塩対応。二つの大きな杉とねずみ。東国の複雑な人間関係。三条家と三条西実枝と春日局。古今和歌集は武器。山内上杉氏と扇谷上杉氏。

 


 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

麒麟(50)信長に倍返しだ!【1】

「義父がまさか…」


前回コラム「麒麟(49)水に浮く石、沈む遺志」では、信長の二条城と大イベント、醍醐寺と藤戸石、藤戸の戦い、吉備国と桃太郎伝説、源平合戦、村上水軍と信長、平知盛の最期などについて書きました。

今回から3回にわたり、いずれ織田信長の天敵となり、ひょっとしたら最大の敵になったかもしれない武田信玄と信長の関係について書いてみたいと思います。

* * *

先に申しますと、日本史の上では、この二人が同じ戦場で直接対決をしたことはありません。
間接的な戦いは、多くあります。

甲斐国(山梨県)の武田信玄は、越後国(新潟県)の上杉氏、相模国(神奈川県)の北条氏、駿河国・遠江国(静岡県)の今川氏、信濃国(長野県)の諏訪氏・村上氏・小笠原氏、三河国(愛知県東部)の徳川氏らと、激しい直接対決を行いましたが、美濃国・飛騨国(岐阜県)と尾張国(愛知県東部)には、なかなか侵攻できません。

飛騨国については謙信の存在の影響ですが、信濃国を経由して西に向かえない理由は、その先に織田信長がいたことが最大の理由です。
信玄が、もし飛騨国と三河国を奪った後に、さらに巨大化した武田の大軍団で、美濃国と尾張国に侵攻したら、信長でさえ、相当に苦戦したであろうと想像します。

実際には、そこに、越前国(福井県)の朝倉氏、近江国(滋賀県)の浅井氏と六角氏が協力し、信長を攻撃しようとした矢先に、最大の中心人物であった信玄が病気で亡くなってしまいます。
信玄が、あと一年でも長生きしていたら、戦国時代の歴史は一変していたかもしれません。

ただ、上杉氏と北条氏が東国にいる以上、そうそう上手くいくこともないかもしれません。
上杉氏、北条氏、武田氏の三強は、信長がこれまで戦ってきた者たちとも違う、相当な強者たちです。

* * *

1568年、上洛作戦を無事に終了させた信長は、すぐに、家康とともに、この東国対策を開始したのだと思います。
まずは、できるところまで進めておこう…。

信玄の強さは話しでは聞いているが、その実力とは、どのくらいのものなのか…。
信長は、まずは信玄の実力を試そうとしたのかもしれません。

おそらくは、信長の予想通りの信玄だったと思います。


◇信長の東国での頭脳戦

前回までのコラムで、1569年1月初旬、京で「本圀寺の変」が起こり、織田信長と松永久秀が京に戻り、将軍の足利義昭が安全に暮らせるように、防衛力を強化した二条城を信長が築城させるあたりまでを書きました。

二条城は同年4月に完成し、将軍の足利義昭が4月14日に入城しました。

信長にとって、この1569年を簡単に言いますと、前半は、主に政治的な活動や、経済政策、そして後半は、美濃国のお隣の伊勢国への「伊勢侵攻」や、毛利元就からの要望もあり中国地方で戦闘を行います。
そんな中、信長と義昭の仲は悪化していきます。
二人は、10月に激しい口論を行います。

* * *

先ほど、1569年前半は政治活動と書きましたが、実際は、武田信玄とのたいへんな頭脳戦を行ったと、個人的には考えています。
実際に行動したのは、信長自身ではなく、徳川家康です。

信長は、家康を手足のように使って、東国(東日本)の状況をコントロールしたのではないかと、個人的には思っています。
ただ、それは初夏くらいまでのお話しです。
年の中頃から後半は、伊勢侵攻と中国地方の戦闘で、それどころではありません。
本当に、戦国武将たちのタフさには驚かされます。

* * *

信長は、あくまで表面的には、信玄と直接対決したかたちにせず、姻戚関係を結んだまま、親交のある隣国関係を続けたように思います。

個人的な想像ですが、信長は、この時点で、今川氏の没落は時間の問題として、東国に残る上杉氏、武田氏、北条氏の状況を伺いながら、ひとつずつ片づけていきたいと考えていたのかもしれません。
徳川家康は、信長にとって、大事な道具です。


◇複雑な人間関係

ここで、後に信長の天敵となる武田信玄を中心に、東国の状況を、要所だけ書きます。

1554年に結ばれた、武田氏・今川氏・北条氏による「三国同盟」により、三氏はそれぞれの独自路線で軍事行動をとり、それぞれが干渉しないかたちで、三氏どうしが争うことをしない取り決めとなっていました。
いってみれば、これは、強力な上杉氏へのけん制になります。

三氏の間では、昔から婚姻を行い、複雑な姻戚関係が結ばれています。
まさに政略結婚のオンパレードです。
政略結婚には、年齢など、どうでもいい話しです。

北条氏康の正室は、今川義元の妹。
北条氏政の正室は、武田信玄の娘。
今川義元の正室は、武田信玄の姉「定恵院」。
今川氏真の生母は、その「定恵院」です。

つまり信玄の姉の子が、今川氏真です。
今川氏真の義父が、北条氏康です。
そして、武田信玄の嫡男の義信の正室が、今川義元の娘です。

信玄の娘の亭主が、北条氏政ですから、信玄は北条氏政の義父です。

もう…わけわからん!

* * *

ひとたび、敵対関係になれば、正室たちは実家に帰されたりしますが、当主との間の子たちは、非常に複雑な状況におかれます。
異母兄弟姉妹たちは、それぞれを推す勢力により、さらに複雑な状況になっていきました。

そして後に、信玄は、この三氏の姻戚関係を破壊し、織田信長の養女を武田勝頼(信玄の息子)の正室にし、自身(信玄)の娘を、信長の長男の信忠と婚約させます。
つまり、「三国同盟」崩壊後、信玄は織田家と連合体制を組もうとしたのです。

ちなみに上杉謙信は…、「ワタシは結婚しない」。
武田勝頼は…、「オレのこといろいろ文句つけやがって、信長は大っ嫌い」。

* * *

武田信玄の正室は、北条氏康の宿敵の扇谷上杉家(おうぎがやつ うえすぎけ)の娘でしたが、出産時に母子ともに亡くなり、継室(後妻)として、京の有力公家の三条家の娘が、1536年、今川氏(義元の母?の寿桂尼か?)の仲介で嫁いできます。

ようするに、武田氏と扇谷上杉氏の関係性を、ある段階で断ち、武田氏・今川氏・三条家の関係性を構築したということです。
これは、今川氏と三条家はもちろん、武田氏を含む三者による陰謀であったと考えられますね。

* * *

後の上杉謙信は、長尾家から上杉宗家の山内上杉氏に養子に入り、関東管領を継ぎます。
扇谷上杉氏とは同族ではありますが、扇谷上杉氏は足利尊氏の母方の叔父の子孫です。
この山内と扇谷が、多くの「〇〇上杉氏」を持つ上杉一族の両巨頭です。

扇谷上杉家の家臣には、江戸城をつくった太田道灌(おおた どうかん)もいましたね。


◇早く雲を呼べ

山内上杉氏と扇谷上杉氏は、もともと藤原系の同族ではあっても、関東の地で対立を深めていきます。

南関東を支配域におく扇谷上杉氏は、ある時、駿河国(静岡県)の今川氏の家督相続の争いに介入してきます。

今川義元の祖父が、隣国の遠江国勢に討たれ、今川氏親(義元の父)の家督相続を推す一派と、それに対抗し、今川氏の一族の小鹿(おしか)氏を擁立した今川氏の重臣の三浦氏や朝比奈氏らが対立します。

そして、氏親派のもとに、遠い中国地方の備中国(岡山県西部)から、伊勢氏(後の北条早雲)がやって来て、武力で小鹿氏側に対抗します。
今川氏親の母「北川殿」は、早雲の姉か妹だといわれています。
静岡の今川さんが、岡山の伊勢さんの娘と出逢ったきっかけは、「応仁の乱」ですが、そのことはまた…。

つまり、わが子の危機に、母は、実家から強力な武士の兄弟を呼んだということです。

実は、本当に兄弟だったかはわかっていませんが、とにかく腕の立つ強者でなければ、役に立ちませんね。
早く流れる雲の如く、強者が駿河国に駆けつけてきました。


◇北条氏は伊勢氏から

ちょっとだけ、ここで、人間の人生の不思議さを書きます。

この備中国の伊勢氏とは、室町幕府の中枢の政所(まんどころ)執事にあった大一族の伊勢氏と、もともと同族です。
伊勢一族には、有力な「貞ちゃん」たちが目白押しです。

室町幕府に大きな影響力を持っていた伊勢氏は、将軍後継問題にも、何かと首を突っ込んできます。
ですから、戦闘にも多く巻き込まれます。

大河ドラマ「麒麟がくる」の摂津晴門や松永久秀とも、権力闘争を繰り広げていた武家です。
もちろん伊勢国(三重県)が拠点です。

室町時代の後半、伊勢氏は長門国(山口県)の戦国武将である大内氏に従い、12代将軍足利義晴側につきます。
つまり、12代義晴、13代義輝に味方した者たちです。
ですが、三好長慶(みよし ながよし)が京で実権をにぎると、三好側に寝返ります。

長慶の死、義輝の巻き返しにより、伊勢氏は前回までのコラムで書きました「若狭武田家(甲斐国武田家と元は同じ一族)」に逃れます。

1565年の「永禄の変」で義輝が討たれると、伊勢貞為・貞興の親子は、三好三人衆につきます。
その後、伊勢貞興(いせ さだおき)は、義昭とともに上洛を成功させた織田信長側につきます。

信長と義昭が対立したときは、伊勢貞興は、幕臣として足利義昭を信長から守る側につきますが、三淵藤英を除く幕臣たちは信長に降伏します。
そして、信長軍の明智光秀の家臣になります。

「本能寺の変」では、織田信長の長男の信忠を、明智軍の武将として、京の二条御新造に攻撃をかけます。
明智光秀が秀吉に敗れる「山崎の戦い」では、明智光秀を敗走させるための「殿(しんがり)」となり、討死します。
「山崎の戦い」の戦況については、またあらためて書きます。

* * *

この伊勢貞興が、大河ドラマ「麒麟がくる」に登場するのかはわかりませんが、斎藤利三とともに、光秀を支えた重要な家臣です。
この「山崎の戦い」でも奮戦しますが、どうも作戦的に…、斎藤軍との兼ね合いがどうも…。
光秀が、この両軍をもう少し上手く使えたら、戦況や、その後の状況が変わったかもしれませんね。

* * *

さて、実は、北条早雲自身は、自身を「北条早雲」とは名乗っていないといわれています。
当時は、「伊勢新九郎」のほうだと思います。
この「北条」姓も、受け継がれる「氏」の名も、早雲の息子の代からといわれているようです。

この戦国時代の北条氏は、鎌倉幕府の北条氏と区別するため、「後北条(ごほうじょう)」という呼び方もしますね。
鎌倉時代の北条政子らの北条氏は「鎌倉北条氏」とか「執権北条氏」と呼ぶことがあります。
「後北条」は、桓武平氏、伊勢氏の流れの超名門ですが、「執権北条」は、どこの者かはっきりしません。
「後北条」は「氏ちゃん」ら、「執権北条」は「時ちゃん」ら、伊勢氏は「貞ちゃん」ら…そんなところです。

ちなみに武田と織田は「信ちゃん」、上杉は「憲ちゃん」(謙信は養子の謙ちゃん)、徳川は「家ちゃん」、今川は「氏ちゃん」「義くん」…あたりかな。

ですが、「早雲」と呼ばれた人物…通称「伊勢新九郎」の名は、なんと「貞ちゃん」ではなく「盛時(もりとき)」です。
まさかの「時ちゃん」。
本当は、誰やねん…早雲!
ほんま雲みたいな奴や!

早雲の歴史は、わからないことが多いのですが、もし伊勢氏の者というのが本当なら、相模国の北条氏につながる伊勢氏が織田信長の長男を討ち、その伊勢氏は明智光秀とともに秀吉に討たれ、相模国の北条氏もいずれ秀吉に敗れるというストーリーです。
信長は、天国から…「猿め、これについては、ようやった」。

ともあれ、織田氏や明智氏に、相当に関係の深い伊勢氏です。

日本各地の伊勢勢力が、もし相模国の北条氏のもとに結集していたら、相当な勢力だった気もします。
早雲は、雲の上の天国から、地上の戦乱をどのように見ていたのでしょうね…。
こんなグチが聞こえてきそう…。
「もともと、岡山と静岡の遠距離恋愛でなかったらな~。岡山・三重・神奈川って離れすぎ…」。

こんな不思議な縁(えにし)…、これが歴史の面白さ!


相模国に北条氏誕生

さて、話しを北条早雲がやって来た駿河国に戻します。

この今川家の家督相続争いに、関東の上杉系の各一族が介入してきます。
扇谷上杉氏は、小鹿氏と姻戚関係のある「犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)」の上杉政憲と、家臣の太田道灌(おおたどうかん)を駿河国に出兵させ、武力で圧力をかけます。
備中国から駆けつけた早雲と、扇谷上杉氏側が話し合い、今川氏親が成人するまで、小鹿氏が当主代理を行うことで決着させ、扇谷上杉勢は自国に引き上げます。

その後、早雲は小鹿氏を殺害し、氏親を今川家当主にします
一応、早雲は今川家の家臣という立場ですが、非常に強い実権を握ります。
氏親にとっては、母と母方の者たちのおかげですね。

* * *

その後、時を経て、早雲は、上杉氏(室町幕府)の領地であった伊豆国と相模国を武力で奪い取ります。
小田原城をあっという間に奪取します。
詳細は割愛します。

「二本の大きな杉の木を鼠(ねずみ)が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という「北条記」の中の早雲に関する一節は、この山内上杉氏と扇谷上杉氏のことです。
以後、上杉一族と北条氏は、関東の地で死闘を繰り返すことになります。

* * *

北条氏は、今川氏の家臣として、今川勢と連携して動いていましたが、代が変わっていく中で独立色を強め、今川氏をしのぐほどの勢力になっていきます。

そこに雪斎(せっさい)と寿桂尼(じゅけいに)、今川家の重臣たちが、新たな今川家の家督相続争いを利用し、今川義元を擁立し、駿河国に強力な今川軍が生まれてきます。

今川氏、北条氏、上杉氏、そこに武田氏が絡んで、時に敵対したり、同盟を結んだりしながら、東国に血みどろの戦国乱世が生まれました。

西日本の戦国武将たちの、あまりにも複雑な戦乱状況にも負けない、東国の壮絶で複雑極まりない戦乱状況でした。


◇公家の武器と戦い方

先般、大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、三条西実澄(さんじょうにし さねずみ / 後の実枝〔さねき〕)が登場してきましたね。

伊呂波太夫(演:尾野真千子さん)は、ドラマ内では、公家の近衛家(このえけ)に拾われ育てられ、正親町天皇(おおぎまちてんのう)にも出逢ったという設定で、架空の人物のようです。
太夫は、皇室に近く、近衛家にも三条家にも近い架空の人物です。
ドラマ進行の重要な道案内人でもありますね。

この正親町天皇の祖母は、三条西実枝の祖母の姉です。
ドラマ内でも、天皇と実枝は親しそうですね。

この実枝は、1552年から1569年まで、17年間も、今川氏の駿河国で過ごし、1569年に信玄の甲斐国を経由して、京に戻って来ます。
ようするに、信玄の「駿河侵攻」作戦の戦乱を避けるために、一時、京に戻って来たとも考えられます。
なぜ、甲斐国を経由して、帰京したのか…?

* * *

三条夫人が、今川氏の仲介で、三条家から武田信玄に嫁いだのは1536年です。
先ほど、武田家が扇谷上杉家との関係を断ち、武田・今川・三条の関係に方向転換したと書きましたね。

この1536年は、信玄が元服した年で、その時に京の朝廷から来た勅使が、三条夫人の父の三条公頼(さんじょう きんより)です。
後に、三条公頼は、周防国の戦国武将 大内義隆とともに1551年の戦乱で亡くなり、一代あいだをおいて、分家の三条西家の三条西実枝の息子が、この超名門の三条家を継ぎます。

「一向一揆」で知られる浄土真宗の本願寺のトップの「顕如(けんにょ)」の妻「如春尼(にょしゅんに)」は、この三条夫人の妹で、近江国の六角義賢の猶子になってから、顕如に嫁いでいきます。

顕如とは、後に、織田信長の宿敵になる人物ですね。
六角義賢も、信長の上洛作戦時の敵対勢力でしたね。

* * *

だからといって、三条西実枝は、信長と敵対するわけではありません。
それは公家の戦略ではありません。
実枝は、信長のチカラを借りて、後に出世します。

三条西実枝は、「古今和歌集」にうつつをぬかす文化人というわけでは、決してありません。
三条家にとって、「古今和歌集」は、絶対に手離してはいけない、まさに武器そのものです。
彼は、相当にしぶとく、したたかな政治家でしたね。

* * *

戦国時代は、刀や槍、鉄砲、金だけが武器ではありません。
姻戚関係や人脈は相当な武器です。
そして時に、「茶の湯」や「和歌」も、相当な武器だったのです。

* * *

後に、戦国大名の今川家は、槍や刀を捨て、この「文化」を武器にして、生き残ることを決断しましたね。
まさに今川氏真の英断だったと思います。

後に、今川氏真が、信長の目の前で、蹴鞠(けまり / サッカーのリフティングのような競技)を披露できたのは、この三条西家から教わったからかもしれませんね。
これは、単なる「蹴鞠遊び」の余興ではありませんでした。

* * *

三条家と三条西家は、やはり藤原系の公家の近衛家(このえけ)の最大のライバルですが、とにかく多くの戦国武将とつながって、権力維持をはかり、どの戦国武将が勝とうが負けようが、絶対に生き残る図式をつくりあげていきます。
だからこそ、権力も富も安心して集まってきます。

この三条西実枝は、信長とも、細川藤孝の細川家とも深いつながりを持つことになりますが、もともと今川家や武田家、六角家、そして朝倉家や本願寺とも深い関係を持っています。

三条家というのは、もともと藤原氏の流れの公家です。
上杉氏も、もとをたどれば、源氏ではなく藤原氏系です。

公家は、武力を持ってはいませんが、どの武家が勝ち残っても、まず三条家は存続できそうですね。
権力を「網羅し維持する」とはこういうことなのかもしれません。

三条西家の秘伝「古今伝授」と「古今和歌集」は、絶大な武器でした。

* * *

今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、他の戦国もののドラマにあまり登場しないような、三条家や近衛家などの公家が多く登場してきますね。

義昭の家臣で、幕臣の三淵藤英(みつぶち ふじひで)や、幕府政所の摂津晴門(せっつ はるかど)が、いくらチカラがあっても、広域連合のような大規模陰謀をつくるには、やはり公家のチカラや姻戚関係が必要だったような気がします。

信長の陰謀など、彼らの「大化の改新」から続く、陰謀の長い歴史からみたら、まだまだ「ひよっこ」なのかもしれませんね。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、最後まで、公家たちのたいへんなチカラが描かれるのかもしれません。
陰謀計画があまりにも壮大だと、やはり戦国武将だけでは限界がありますね。

信長は、公家のチカラを少し甘く見てしまったのか…。
それとも、彼らの陰謀が、信長を上回ったのか…。


◇元祖 お局様

この三条西実枝の娘?か、姉妹?かの亭主が、美濃国の戦国武将の稲葉良通(いなば よしみち / 後の稲葉一鉄)で、その稲葉一鉄と三条西家の女性との間の娘が、明智光秀の重臣の斎藤利三(さいとう としみつ)に嫁ぎ、その間に生まれた娘が、「お福(ふく)」(後の徳川家光の乳母の春日局〔かずかのつぼね〕)です。
「春日局」という女性最高位の称号は、朝廷からおくられたものです。

* * *

最高位クラスの公家の三条西実枝の身内が、美濃国の田舎武将の稲葉一鉄につながっているのは、非常に不思議です。

実は、一鉄は、一族総討死で孤独の身の上になった際に、美濃国の崇福寺で、高僧の快川紹喜(かいせん じょうき)のもとで修行をしています。
快川紹喜(かいせん じょうき)とは、後に甲斐国の恵林寺の「心頭滅却」のあの名高い高僧です。
三条西家と稲葉家がつながったのは、ひょっとしたら、快川紹喜のチカラだったのかもしれません。
「三条西家とつながっておけば、もう一族滅亡はないよ」…とかなんとか。

* * *

この稲葉一鉄は、美濃国の斎藤家、織田家の家臣として大活躍しましたが、武田家の家臣になっていても不思議はありません。
快川紹喜に頼まれたら、まず断れないとも感じます。
信玄が、もう少し西方まで進軍できていたなら、信長側から信玄側に寝返る武将は多かったかもしれませんね。

信長が、武田家と同じくらい、この快川紹喜と恵林寺を敵視し消滅させたのは、さまざまな理由があったと思います。
一鉄は、快川紹喜の死をどのように考えていたのでしょうか…。
また、あらためて書きます。

個人的には、この信長の恵林寺攻撃が、「本能寺の変」までのカウントダウンの始まりと考えています。

* * *

一鉄は、「本能寺の変」後、反光秀側に回り、秀吉につきます。
秀吉の敵である光秀の重臣の斎藤利三の娘ではあっても、一鉄自身にとっては、孫か親族である「お福」です。
一鉄は、三条西家の血をひく「お福」を引き取り、稲葉家で育て上げます。

稲葉家にとって、三条西家と血がつながっている「お福」ほど強力な武器はありません。
織田家であろうと、豊臣家であろうと、そうそう手を出せない娘さんですね。
稲葉家は、「関ヶ原の戦い」では、徳川方に寝返ります。

そして、この「お福」が後に大化け…、徳川三代将軍家光の乳母で、江戸城大奥のトップ!
元祖お局様!

三条家も大喜び!
三条家は、徳川政権でも盤石(ばんじゃく)!

* * *

後に、お福が破格の待遇で大出世できたのは、三条西家と血がつながっていたことで、政治的に、三条西家の一族の者となり、宮中に参内できる資格を持ったためです。
徳川将軍の正室でさえ、たどりつけない位です。

家康は、自身の正室(築山殿)と継室(朝日姫 / 秀吉の妹)の死後に、新たな継室をつくらず、大量の側室を持ちますが、「お福(春日局)」がいれば十分ですね。
むしろ、継室を持ってしまうと、二人の女性トップを生んでしまい、軋轢は避けられません。
二代将軍 秀忠の正室のお江(信長の妹のお市の娘)でさえ、京では、お福と同格にはなりません。

すべて徳川家康の朝廷向けの戦略ではありますが、これでお福は「春日局」という、平清盛の正室「時子」、源頼朝の正室「政子」と同じ位まで上りつめます。

人生…何がおこるかわかりませんね。
まさかの「下克上・女性版」です。
下克上の申し子のような、あの稲葉一鉄でさえ、ここまでは予想できなかったでしょうね。

家康の目のつけ処も大したものですが、戦国時代は、不思議な人生の連続です。


武田家の三条夫人

さて、この1568年からの武田信玄の「駿河侵攻」時、信玄には継室の三条夫人がおり、三条西家は、今川氏と武田氏に深い関係性がありました。
三条夫人は、1570年に亡くなります。
一応、病死とされてはいますが、個人的には、陰謀で命を落としたのではと思っています。

あの三条家の娘に、誰かが手をかけたとしたら、お家の一大事です。
源氏の名門の武田家だろうが、有力な信玄だろうが、京の朝廷がどう出るか…。

信玄が手をくだすとは思えません。
あとは、あの人物か、あの人物…?

もし、遠い地にいるあの人物だったとしたら、恐ろしすぎて身震いします…。
このお話しは、あらためて…。


◇三つ巴と、がっぷり四つ

さて、お話しを1560年まで戻します。
武田・今川・北条による「三国同盟」の中、大事件がおきます。

「三国同盟」の重要な人物の今川義元は、この同盟中に、尾張三河に侵攻しましたが、1560年に「桶狭間の戦い」で、織田信長に敗れます。
これで三氏のチカラ関係に変化があらわれます。
ようするに、三角関係の有力者のひとりが死んだことで、この三角形がほぼ意味をなさなくなったということです。

武田信玄と北条氏康からすれば、「義元と雪斎(せっさい)のいない今川など…同盟の甲斐(かい / 値打ち)なし」ですね。

* * *

この時のお話しですが、 信長が桶狭間で今川氏を倒した1560年に、上杉謙信が関東に攻め上がって来て、北条氏を撃退していきます。
圧倒的な強さで、関東の地の北条勢をあっという間に蹴散らしていきます。

謙信は、1561年には、北条氏の本拠の小田原城まで迫りますが、城を落とせずに越後国(新潟県)に戻っていきます。
これは、武田信玄が、信濃国で「第四次川中島の戦い」に向けた動きを見せたことも要因です。
1561年、謙信と信玄は、有名な「第四次川中島の戦い」を行います。
決着はつきません。

とにかく、上杉謙信、武田信玄、北条氏康の三者は、関東、北信濃の地域で、勢力争いと戦いの連続でした。
ここには、義元を失った駿河国の今川氏は、当然入ってきません。

* * *

東国の地域には、「三つ巴」が二つあり、一方は武田・北条・今川で、もう一方は上杉・武田・北条です。
そのうち、今川がいなくなり、この図式が、上杉・武田・北条・徳川(織田)という「がっぷり四つ」の図式に変わっていきます。

強者が二人であったなら、早くに東国の覇者がひとりに決まり、天下を狙ったのでしょうが、この「三つ巴」と「がっぷり四つ」という図式が、いつまでも決着がつかない最大の要因だったかもしれません。

* * *

個人的には、武田信玄と上杉謙信の大激突「第四次・川中島の戦い」で、どちらかが北条氏と連携していたら、連携した方が完全勝利したのではと感じています。
信玄か、謙信か、どちらかは討死したかもしれません。

「駿河侵攻」の際の氏康の行動を考えるに、十分、話し合いの余地はあった気もします。
ただ、この頃の氏康は、まだまだ元気で、弱気の虫は出てきていませんが…。
北条氏康の息子の氏政が非力だっただけに、ちょっと、もったいなかった気がします。

両者とも、北条氏と話しをつけるのは、相当にむずかしいですが、もし実現できたら、どちらかが勝利できたとも感じます。
ひょっとしたら、両者とも行ったけれど、氏康が了解しなかったのかもしれません。
信玄、謙信が、氏康の立場だったら、了解したような気もします。
このお話しは、別コラムシリーズ「塩の道は人の道」のほうで書きます。

* * *

この「三つ巴」と「がっぷり四つ」こそが、この者たちの腕をますます磨き、戦力的にも、戦術的にも、相当なレベルに押し上げていきます。
その中で、有能な家臣の武士も生まれてきます。
ですが、「天下取り」には出遅れてしまいますね。

西日本の武将たちの図式とは、また少し違う様相が、東日本にはあった気がします。

東日本は地続きで、隔てる海はありませんが、高い山々があり、それが戦闘にも大きく影響します。
広域の戦闘作戦を立てやすいかもしれませんね。

もちろん、上杉、北条、今川は早くから水軍も持っていましたが、彼らどうしの戦闘では、それほどの意味は持っていません。
ようは、陸戦がすべてです。

ですが、この東海地域の「三つ巴」の三強(武田・北条・今川)は、それぞれ不安材料を抱えていました。
それを、少しだけ書きます。


◇今川義元がいなくなって…

今川義元を失った今川氏は、息子の今川氏真(いまがわ うじざね)が跡を継ぎ、駿河国(するがのくに)と遠江国(とおとうみのくに)を、かろうじて支配しています。

今川軍の最重要人物の雪斎(せっさい)はすでになく、義元もいなくなりました。
「桶狭間の戦い」では、ある意味、有力な忠臣たちが、みな討死にし、残ったのは、「腹に一物」持つ者ばかりです。
もともと遠江国勢(静岡県西部)は、駿河国勢(静岡県東部)に反感を抱いています。
非力な氏真を心から支えようなどという者は、少数だったはずです。

武田氏、北条氏、織田氏(徳川氏)が、この今川の領地に狙いを定め、戦術を練りはじめます。
三者の中に、今川氏を支えようなどと考える者は、誰ひとりとしていません。
上杉氏も、無関係ではありません。
さあ、今川氏は生き残れるのか…。


◇北条氏康の不安

相模国(神奈川県)の北条氏康は、1559年に名ばかりの家督相続を行い、北条氏は、氏康(うじやす)と息子の氏政(うじまさ)の「二御屋形」体制になります。
とはいえ、実権は父の氏康です。
この家督相続のお話しは割愛します。

北条氏康は、上杉謙信が表舞台に登場してくる前まで、有力武将として、関東に大きな支配地を持っていました。
前述のとおり、そこに謙信が登場してきました。

その上杉謙信は、武田信玄によって北条氏が大きなダメージを受けるとみるや、関東の支配権を奪い返していきます。
これが1560年代後半の状況です。

関東の中部や北部の武将たちは、ある時は北条、ある時は上杉と、たいへんな苦難の道をたどります。

* * *

北条氏康は、信玄の駿河侵攻の後、1571年に亡くなりますが、武家は家督相続の時期がもっとも危険で、下克上が起きやすいタイミングです。
敵国も狙い時です。

氏康は、後の「小田原評定」をみてもわかるとおり、氏政を相当に不安視していたことでしょう。
その予感は、後に的中します。

北条氏康は、今川義元と軍師の雪斎がいなくなった今川勢など、怖くはなかったはずです。
ですが彼は、武田信玄が生きているうちは、絶対に死ねないと思っていたことでしょうね。

ただ、強力な信長の存在を知った時、北条氏康はどのように思ったでしょうか…。
「氏政では心配だ…。武田信玄のほうは、信長とは今後どうするのじゃ?」。
「北条家は、信長と手を組むよりほかはないのか…、組むなら急げ」。


◇武田信玄の領地拡大

武田信玄は、上杉謙信と長い戦いを続けていましたが、なかなか決着をつけられません。
長い長い「川中島の戦い」は、一応、1564年で止まっています。

そんな中、信玄は、上杉氏内部のゴタゴタや、北条の北関東での支配権の弱体化を見るや、北関東(山内上杉家の家臣である長野氏の領地)に侵攻します。
1566年までに信玄は北関東に領地を広げました。

これで、武田氏は、甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)の南部と中東部、上野国(群馬県の西部)を領地としています。
上杉謙信とは決着がつきませんが、武田信玄は着々と支配域を拡大させていきます。

1566年には、関東北部が武田氏の領地、関東中南部と相模国が北条氏の領地ということで、両軍は、きな臭い状況となっていきます。

今川氏と北条氏が、非力な後継者に不安を抱く中、武田家は支配域を順調に拡大させ、後継者には問題はないのか…?


◇武田氏内部の激震

さて、信長は、1560年の「桶狭間の戦い」の勝利以降、美濃国の斎藤氏と戦闘を続けていましたが、決着がつきませんでした。
美濃国(岐阜県)の南西部の一部の武将たちは、1565年頃に、斎藤氏から信長側に寝返っていきます。

当然そのことは、信玄も把握していたはずです。
とにかく、その美濃国の南西部の地は、信玄の領地の信濃国南部のすぐお隣のお話しですので、気になって仕方ないと思います。

* * *

1560年の「桶狭間の戦い」で、今川義元が討たれたことで、武田氏内部に激震が走ったのは間違いありません。
武田家内部でも、三国同盟の扱いをどうするのか…、今川家との関係を今後どうするのか…、相当な激論が起きていたと想像できます。

信玄の後継者第一候補は、嫡男の義信(よしのぶ / 母は三条夫人)で、彼の正室「嶺松院(れいしょういん」は、今川義元の娘です。
さあ、武田家はどうする…。

「桶狭間の戦い」の後、信玄が、今川寄りから織田寄りに方向転換したのは間違いありません。

* * *

そして、そんな中、武田家内で大事件が起きます。

1565年、信玄の家臣の飯富虎昌(おぶ とらまさ)らが、信玄暗殺を企てたという理由で処刑されます。
飯富は、信玄の嫡男の義信の後見人です。

同年10月に、この武田義信も暗殺計画に加担したという理由で、東光寺に幽閉されます。
この一連の出来事が「義信事件」です。

この時に、彼の正室である「嶺松院(れいしょういん」と義信は離縁したという説がありますが、彼女はそのまま甲斐国にとどまっています。
これには、大きな意味があると思います。
ざっくり言えば、今川への手駒を残したのと同時に、武田の内部抗争の決着のための駒でもあったと思います。
このあたりのお話しは、あらためて…。

* * *

信長側にまわった美濃国(岐阜県南部)の一部と国境を接する信濃国(長野県)南部を領地とする信玄は、信長との関係を深めるため、1565年10月、信長の養女「龍松院」を、武田信玄の息子の勝頼(諏訪勝頼 / 母は諏訪御料人)の正室にむかえます。
前述の「義信事件」と、まさに同じ年です。

この時点で、信玄の後継者はまだ決まっていたわけではなく、義信は生きています。

ですが、勝頼に嫁いだ龍松院は、後の1567年11月に亡くなります。
この1567年10月に、前述の「義信事件」以来幽閉されていた、信玄の嫡男の義信が自刃したとされています。
この二人の死も同年です。

とはいえ、この時点でも、信玄の後継者が勝頼になったわけではありません。

そして11月に、自刃したとされる義信の正妻だった嶺松院が、今川氏真のいる駿河国に戻されます。

これで、風前の灯の「三国同盟」は、完全に消滅します。
名実ともに、ここで武田氏と今川氏の同盟は終わります。

武田家から、今川家との関係でキーになる重要な人物たちが一斉に消え、「三国同盟」が同時に消えます。

ですが、長男の義信を失うという代償は、武田家にとって、計り知れないものがありましたね。

* * *

ただ、今川氏との関係が断たれたとはいえ、織田氏との関係が強化されたわけではありません。
むしろ、信長の養女で、勝頼に嫁いだ「龍松院」が、義信と同時期に亡くなったことで、武田氏は、今川氏と織田氏の両方のパイプを失ってしまいました。

信玄はすぐに、同年12月、今度は信長の長男の信忠と、信玄の娘(松姫・後の信松尼)の婚約を成立させます。
ここでは、信忠の正室になる人物を、しばらく武田家が預かるというかたちで、松姫(後の信松尼)は信濃国にとどまります。


◇許されざる者

この短期間の、急激な流れ…、重要な人物たちの死と離脱…、あまりにも不自然で壮絶です。
信長をつなぎとめるために、信玄が必死で動いている様子も感じます。

一見、武田家の一貫性のある行動とスケジュールに見えないこともないですが、何か変です。

武田家内部が、親織田派と反織田派に分かれ、そこには信玄の後継者問題があり、さらに言えば、信玄vs勝頼という構図もそこにあったであろうし、親穴山梅雪派と反穴山梅雪派の対立も起きていた可能性もあります。
かつての諏訪勢力も、そこにいたはずです。

* * *

実は、信玄は、生前に勝頼を後継者にはさせていません。
勝頼は、信玄の死後に、勝手に後継者になったといわれています。

信玄は、指名した次期後継者が成人するまで、勝頼はあくまで当主の代理を果たせと言い残します。
対外的には、信玄が生きているように偽装をし、勝頼が代理であることも隠せと言い残します。
ですから、後継者が持つべき権利を、一切、勝頼には譲っていません。
これは、信玄の断固たる決意でした。

北条氏や今川氏とは、あきらかに後継者扱いが違いますし、何か異様です。
曲がりなりにも我が子の勝頼なのですが、これが何を意味しているのか…。
信玄にとって、許しがたい何かがあったのか…?

このお話しは、別コラムシリーズ「塩の道は人の道」で書きます。

「駿河侵攻」から、信玄の余命は、あと5年…。
いろいろな意味で、急がねば…。

* * *

どこの武家もそうですが、あまりにも偉大な人物が、その武家に登場すると、その後継者がいつも問題になりますね。
周辺国では、信長などの若い「新世代」が急速にチカラを伸ばしています。
それより、さらに若い家康などの「将来の世代」さえ育ってきています。

「うちのボンは、だいじょうぶ…」。

心配するのは親だけではありません。
一族郎党みな、不安の極みでしたね。

「信玄さま…、どうか長生きして…」。


◇家康の先生

ここまで、今川氏、北条氏、武田氏の内部にある不安要素を書きましたが、信長は、ある意味、敵の武家内部の亀裂を見つける天才です。

武田家内部にある何か不穏な空気を、養女の龍松院の死や、長男の信忠の婚約の際に、直感で見抜いたかもしれませんね。
あるいは、隠密から情報を得ていたかもしれません。

ある意味、今川氏は時間の問題…、北条氏はまだ余力があるし、箱根と伊豆は防壁…、武田氏がかかえている内部問題は、かなり深刻だ…、信長はそう感じていたのかもしれませんね。

多くの武家の崩壊を知っている、現代の歴史ファンから見ても、この武田家の内部問題は相当に深刻な気がします。
信玄が、政治的・軍事的行動を急ぐ気持ちも、わかる気がしますね。
このままで、武田の大軍団が維持できる気がしてきません。

* * *

東海地域の三強がそのような中、信長が義昭とともに上洛作戦を実行するため、義昭から謙信と信玄に、戦闘行為の中断と、信長と義昭の上洛作戦に協力するよう要請を行い、二人はそれに応じます。
それが1568年9月から10月のことでしたね。

信長は、上洛作戦終了後、すぐに岐阜に戻り、東国対策を、家康とじっくり相談したと思います。
信長が、上洛作戦時に、家康を京に同行させなかったのは、武田信玄が駿河侵攻の準備に入ったことが最大の理由だと思います。
信玄は、上洛作戦の直後に動き始めます。

* * *

信長は、何かにつけて、家康に、戦闘の仕方、戦時の大将の場所、作戦のたて方、城の作り方や場所、陰謀の張りめぐらせ方などを、指導しています。
「戦時に、そんなところにいてはダメだ」と家康を怒鳴ったこともあります。

家康が、これほどの英才教育を受けて、「天下人」になれないはずはありませんね。
先生が、信長だなんて…。
家康は、養父の今川義元からは、大将がやってはいけないことを、たくさん学んだことでしょう。

* * *

信長と家康は、今後 今川氏の残党たちをどうするのか…、そして誰を味方にし、誰を敵に回すか…、など長期的な戦略を練ったと思われます。
二人は、相談というより、信長からの指導だったかもしれません。
三河国には、水野氏という陰謀のスペシャリストもいましたね。

信長は、さまざまな展開の変化の可能性を考え、それぞれに対応策を考えておくタイプの武将でしたので、相当に何パターンもの戦略を練ったであろうと想像します。
家康は、相当に勉強になったでしょうね。

でも、学習というのは、いい先生というよりも、教わるほうの生徒側の素養のほうが大きいかもしれません。
家康の周囲には老練な先生だらけでしたが、家康の「学びとる」能力も、卓越したものがあったのだろうと感じます。
先生や教科書が何であろうと、「学べる能力」を身につけていれば、遅かれ早かれ、何とかなるのかもしれませんね。


◇武田信玄、駿河侵攻開始

信玄は、1567年、弱体化した今川氏の駿河国(静岡県東部)に、いよいよ侵攻の兆候を見せ始めます。
前述しましたとおり、三国同盟は1567年11月の嶺松院(武田義信の正室)の駿河国帰還で完全消滅しています。
まさに、この嶺松院の駿河帰還は、駿河攻撃の大号令ですね。


◇上杉謙信の塩対応

1567年、今川氏真は、武田氏のこうした動きに対して、隣国の北条氏康の協力を得て、信玄の甲斐国(山梨県)への「塩止め(塩貿易の停止)」を行います。
おそらくは、もっと広い「経済封鎖」のようなものかと想像します。
その効果がどの程度だったかは、私はよく知りません。

* * *

上杉謙信の越後国から甲斐国に塩が運ばれる「塩の道」のお話しは、この時です。

ようするに、謙信は、信玄の甲斐国に、あえて経済封鎖をしなかったということです。
これは、紛れもなく政治的・軍事的な行動だと思います。

謙信にとっては、この時点で、武田家が弱体化しすぎるのも、それは自身に大きな影響を与えかねません。
謙信は、今川氏はもはや信玄の敵ではないこと…、そして北条氏が信玄の行動を傍観するはずはないこと…を思っていたでしょうから、北条氏と武田氏の軍事パワーバランスが崩れるのは、上杉氏に多大な影響を及ぼします。
周辺国すべてが、甲斐国を完全に経済封鎖することは危険だと、謙信は思ったのかもしれません。

謙信は、信玄の「駿河侵攻」に手を出さず、この間に、別の軍事行動を行います。
謙信からすれば、今川はすでに滅亡寸前、武田も北条も相討ちで双方が消耗してくれたら、儲けものですね。
弱ったところで、自身が大軍で攻め込めばいいのです。

武田氏と北条氏のどちらかが圧倒的な勝利をすることは、謙信には許しがたい状況だったのかもしれません。
それを実現してくれるのは、信長と家康です。

「信長や家康からは、連絡もきていることだし、そのタイミングになったら、駿河侵攻劇にさっそうと登場してあげるよ」…、謙信はそのような気持ちだったのかもしれませんね。

信長と家康から要請された謙信の登場は、次回のコラムで書きます。

* * *

実は、前述の、越後国から甲斐国に塩を運ぶ(経済封鎖をしない)お話しは、政治的・軍事的側面とはまた違う、別の意味合いも含まれています。
このあたりが、さすが上杉謙信のすごさだと感じます。
おそらく、後に織田信長も、武田信玄も、徳川家康も、その別の意味合いを理解したのだろうと思います。

謙信は、あえて何も語らないタイプの武将です。
日本各地の武将や庶民が理解できなかったとしても、仏教界の高僧たちから、それが語られた可能性は高いと思います。
もちろん、謙信は、それもお見通しだったでしょう。

「毘沙門天(びしゃもんてん)の化身」、「最後の関東管領」…、まさに謙信の姿がそこにあります。

おそらく信長も、信玄も、どうして謙信に勝てないかを、ずっと考えていたと思います。
もはや「戦ってはいけない相手」だったのかもしれません。

このお話しも、別コラムシリーズ「塩の道は人の道」で書きます。


◇陰謀 vs. 陰謀

1568年12月6日、信玄は1万以上の兵を連れて、駿河国に向けて進軍を開始しました。
末端の兵士たちには、「駿河湾の塩を奪いに行くぞ。帰ったら、味噌たっぷりの、ほうとう鍋だ」だけで十分ですね。

信玄は、「駿河侵攻」開始の前に、入念な陰謀と秘策を準備していました。
そのことは次回コラムで書きます。

実は、そうした準備を行ったのは、信玄だけではありません。
信長も、相当な陰謀作戦を準備していました。
家康は、信長の手足となったと思います。

* * *

信玄と信長の直接的な軍事対決ではありませんが、まさに信長と信玄による、すさまじい頭脳戦のゴングが鳴り響きましたね。

後の様子から考えると、信玄は、織田信長・徳川家康・北条氏康・上杉謙信の陰謀に気がついていなかったかもしれません。
あの信玄でさえ、誘い出されることもあるの…?

そういえば、過去に、川中島で上手く誘い出した武将が、越後国にいましたね。
それに、今の信玄は、何かに急いでいる…。
奴は、桶狭間に続き、またも大将の心のスキを突いてきた…。

「第一次・駿河侵攻」の当初、信玄に、信長と戦っているという意識があったのか、なかったのか、はっきりしません。
信玄の持ち前の、「危機察知能力」は、どこで発揮されるのでしょう…。

そのことは次回のコラムで書きます。


◇風雲 急を告げる

急に、駿河国の富士山に、モクモクと暗雲が立ちこめてきましたね。
今度やって来る武将は、早雲ではありません。
信玄です。

この戦国時代の三国(甲斐・相模・駿河)に限らず、現代でもそうですが、まさかの身内が突然やって来るということは、よくありますね。
どうして…、今なの…、目的は…。

次回コラムで、信玄の「駿河侵攻」のことを書きますが、信玄の前に、本当に立ちはだかった者は誰だったのか…。

息子と娘の義父が、まさか…。

信玄さん…あなたが、これまでやってきたことですよ。
だから姻戚関係は、むずかしいって言ったのに…。

謙信がそう言ってました…。

* * *

今回のコラムも、私の想像が一部入っていますから、皆さまも独自に想像してみてください。

コラム「麒麟(51)信長に倍返しだ!【2】富士去来」につづく。

 

2020.12.10 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

 

 

ケロケロネット