NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。武田信玄の駿河侵攻。武田・北条・今川の三国同盟崩壊。徳川家康の二つの密約。信玄にかけたワナ。北条のかけ引き。信長と謙信の影。さった峠。一富士 二鷹 三茄子。朝倉義景のサザエ兜。静岡県 山梨県。

 


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麒麟(51)信長に倍返しだ!【2】
「富士去来」



◇一富士、二鷹、三茄子

新年あけまして おめでとうございます。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

これを読んでいただいているときは、もうすでに「初夢」をご覧になられましたでしょうか。

今は、元日(1月1日)の夜から2日にかけて見る夢をさすといもいわれていますね。
とはいえ、その日に夢を見れるとは限りません。

今は、大晦日ではなく、元日になってから寝床につく方も多いでしょうし、少し前の時代は、1月3日に「初売り」が多かったため、初夢も、2日の夜から3日の朝という話しもありました。

日本史の中では、時代によって、どの日の夜の夢なのか解釈が異なっています。
その年の最初の夢であれば、いつでもよいような気もしますが…。

* * *

よく、初夢の中に登場すると縁起がいいといわれるものに、「一富士、二鷹、三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」というものがありますね。
これは江戸時代に流行したお話しで、この続きは、「四扇、五煙草、六座頭(しおうぎ ごたばこ ろくざとう)」です。
扇は扇子(せんす)、煙草(たばこ)、座頭(ざとう)は盲人の方のことです。

このコラム「麒麟シリーズ」では、ちょうど今、武田信玄の駿河侵攻のことを書いていますが、この「一富士、二鷹、三茄子」とは、この駿河国(静岡県東部)のお話しなのです。

「高いもの」を順番に並べた…、駿河国の自慢を並べた…、など諸説あります。
もちろん、一番目は富士山。
二番目は、富士山のすぐお隣の「愛鷹山」、あるいは、武将たちが大好きな「鷹狩り」の鷹(たか)。
三番目は、駿河国特産の「折戸茄子(おりどなす)」のことです。
家康は、この折戸茄子が大好物で、江戸に献上される超高値の高級品でした。

ようするに、標高が高い、鳥の鷹、値段や品質が高い…、今でいう「親父ギャグ」のようなお話しですね。

私は、これまでの人生で、三つとも夢に出てきたためしがありません。
どんな内容の夢だったら、茄子が夢に登場するのでしょうか…。

ともかく、縁起のいい、この三つのものを絡めて、順番に書いていきたいと思います。

* * *

さて、前回コラム「麒麟(50)信長に倍返しだ!【1】義父がまさか…」では、武田氏・北条氏・今川氏の三国同盟のこと、北条早雲のこと、上杉謙信の塩対応のこと、東国の複雑な人間関係のこと、三条家と春日局のこと、古今和歌集のことなどについて書きました。

今回のコラムは「信長に倍返しだ!第二回」として、武田信玄の「第一次・駿河侵攻」を中心に書きたいと思います。
今年最初のコラムは、「一富士(いちふじ)」のお話しから始めます。


◇三国同盟の崩壊

武田信玄は、1567年、弱体化した今川氏の駿河国(静岡県東部)に、いよいよ侵攻の兆候を見せ始めます。
前回コラムで書きましたとおり、三国同盟は1567年11月の嶺松院(武田義信の正室・今川義元の娘・武田信玄の姉の娘)の駿河国帰還で完全消滅しています。
まさに、この嶺松院の駿河帰還は、信玄による駿河攻撃の大号令ですね。

家康を中心とした「密約」をこれから書く前に、北条氏・今川氏・武田氏の関係を、あらためて書いておきます。

この頃になると、北条氏康は戦闘の前線には立たず、息子の氏政に任せています。
北条氏政の正室「黄梅院」は、武田信玄と三条夫人の間に生まれた長女です。
ですから同年の1567年に亡くなった武田義信の妹です。
北条氏政の跡を次ぐ氏直の母が、この黄梅院です。

今川氏真(いまがわ うじざね・今川義元の嫡男)の正室は、北条氏康の娘で、北条氏政の妹「早川殿」です。
今回の信玄の「駿河侵攻」で窮地に立つ氏真にとって、北条氏は妻の実家ということです。
氏真は、母親の弟である武田信玄に攻撃されたということです。

* * *

1568年12月、信長と義昭の上洛作戦が終了したのを見計らって、信玄は「第一次・駿河侵攻」を開始します。

実は、信玄は、駿河侵攻を開始する前に、北条氏康・氏政の親子に、武田と北条で、今川氏の領地を二分割しないかと持ち掛けますが、北条氏側は拒否します。
そこで、信玄は、今度は徳川家康に、武田と徳川で、今川氏の領地を二分割しないかと持ち掛けるのです。

ようするに、信玄は、「駿河侵攻」の前に「三国同盟」を完全に崩壊させたのです。
ただ、後で書きますが、三氏とも、この三国同盟を崩壊させる意思を持っていたのは事実です。

* * *

北条氏康は、信玄が駿河国に侵攻することを良しとせず、息子の氏政と、嫁である「黄梅院(信玄の娘)」を離縁させ、甲斐国に戻したといわれています。
「黄梅院」は、1年後の1569年に甲斐国で亡くなったともいわれています。
なんとも哀れな死に感じますが、実はよくわかっていません。

甲斐国に戻されずに、北条氏の相模国の小田原城にとどまって、そこで亡くなったという説もあります。
そうなると、どのような状況での死だったのでしょうか…。
ここにも、何か陰謀の臭いが漂います。

実は、北条氏政の息子の氏直は、後に今川氏真の猶子となり、駿河国の領有権を取得するのですが、武田信玄がそれを崩壊させましたので、北条氏直の駿河国は実際にはつくられていません。
事実上、北条氏も「三国同盟」を崩壊させる意図を持っていたのは確実だと思います。
同盟の崩壊というよりも、北条家が今川家を乗っ取るというほうが的確かもしれません。
その話は、まだこの先のお話しです。

* * *

整理します。
1567年10月、武田義信(信玄と三条夫人の間の子)が亡くなります。
1567年11月、武田義信の正室「嶺松院(今川義元と信玄の姉の間の娘)」が駿河国に戻ります。
1568年12月、北条氏政の正室「黄梅院(信玄の娘)」が甲斐国に戻ります(?)。
1569年6月、「黄梅院」が亡くなります。
1570年7月、信玄の正室の三条夫人が亡くなります。

ですから、わずか三年の間に、信玄は、長男の義信、長女の「黄梅院」、正室の「三条夫人」を失ったのです。
つまり、武田氏・今川氏・三条家の三角関係につながる、重要な三人が立て続けに亡くなったということです。

武田信玄には、5人の娘がいましたが、長女の「黄梅院」以外は、比較的長生きしますが、みな壮絶な人生でした。
こうしたお話しは、あらためて…。

これらの出来事は、武田家と今川家、武田家と北条家、というそれぞれの同盟関係も完全に崩壊したことを意味します。
武田家と三条家の関係のお話しは、またあらためて…。
なぜ、三条夫人まで…。


一つ目の密約(家康と信玄の密約)

さて先ほど、「信玄は、駿河侵攻を開始する前に、北条氏康・氏政の親子に、武田と北条で、今川氏の領地を二分割しないかと持ち掛けましたが、北条氏側は拒否し、そこで、信玄は、今度は徳川家康に、武田と徳川で、今川氏の領地を二分割しないかと持ち掛けるのです。」と書きました。

* * *

家康は、この時点ではまだまだ未熟な武将ですから、すぐに信長に相談したはずです。
前回コラムで書きましたとおり、この頃の家康は、まだまだ若く、信長に細かく指導をしてもらっていた頃です。
それに、徳川勢には、三河国の水野氏など大ベテランの陰謀のスペシャリストの重臣たちがごっそりいましたから、着実に最善の道を選べたと感じます。

個人的な意見では、この時の家康の行動は、ほぼ信長の指示だったのではないだろうかと思っています。
あくまで個人的な意見ですが、信長は、家康が信玄の提案を受けるふりをして、信玄に別のワナを仕掛けようとしたのではないかと感じます。

* * *

一方、信玄は信玄で、自身側から提案したとしても、間違いなく、この領地分割提案を守る意思はなかったと思います。
ある段階で、家康を葬り去る考えであったのは間違いないと思います。

私は、家康の背後に信長がいなかったら、この時に家康は、信玄にたやすく飲み込まれていたような気がします。
この時の家康に、信玄の恐ろしさをはね返す能力は、まだ備わっていなかったと思います。

この時期の若い家康は、派手な装束で、頑固で一本気、向こう見ずなイケイケの頃でしたね。

* * *

信玄と家康の間では、今川氏を倒した後は、大井川から東側の駿河国を武田領に、西側の遠江国を徳川領にする密約が交わされます。

あの信長が、こんな見え透いた信玄の計略にかかるはずはありません。
あの信玄が、そんな約束を守るはずもありません。

織田・徳川が、本当に手を組んだのは、実は北条氏のほうです。

一応、この密約により、1568年12月、信玄は駿河に進軍を開始します。
あくまで、一部は、個人的な見解です。


◇武田信玄の「第一次・駿河侵攻」

三国同盟の中で、実は北条氏と今川氏の同盟関係は、表面的に崩壊したわけではありません。
いってみれば、武田氏が勝手に出ていったということです。
別の言い方をすれば、北条氏と今川氏は、武田氏が出ていくように仕向けたともいえます。

駿河湾沿いの山に「薩埵峠(さったとうげ)」という場所があります。
今、海に突き出したような東名高速道路と富士山と海という、風光明媚な風景が見られる場所です。
実は、自動車の運転者は気づかないで通り過ぎたりもします。
冒頭写真の場所です。


 

信玄は、1568年12月に今の静岡県富士宮市あたりまで進軍してきており、今川氏真は、この薩埵峠(さったとうげ)付近で武田軍を迎撃しようとしました。

位置関係を説明しますと、信玄が甲斐国から駿河国の駿府を攻撃するために駿河湾に至るルートは、大きく三つあります。
1:甲府から河口湖あたりを通り、富士山の東側を通り、山中湖、御殿場を経由し、沼津市方面に向かうルート。
2:甲府から本栖湖あたりを通り、富士山の西側を通り、白糸の滝、富士宮市を経由し、富士市方面に向かうルート。
3:甲府から富士川に沿って南下して、身延山のふもとを通り、蒲原や由比、あるいは清水(今の静岡市清水区)方面に向かうルートです。
清水あたりにたどり着けば、駿府城のある静岡市は目と鼻の先です。

おそらく、武田の主力軍は3のルートで、富士川河口の蒲原方面にやってきます。
薩埵峠(さったとうげ)は、富士川河口付近の蒲原や由比のすぐ南の地にあります。


◇水の争奪戦

静岡県というのは、本当に妙な形をしていますね。
静岡県の中央部に、えぐれた部分があります。
身延山のある地域です。
その地域と、富士山の北半分が山梨県です。
これは、武田軍の穴山氏がこの両地域を支配していたことにほかなりません。

穴山氏は、もともとは武田家の宿敵でしたが、この時期は、武田一族と姻戚関係を結び、存在感は絶大です。
武田軍が、比較的容易に駿河湾に到達できたのは、穴山氏が武田軍にいたことにほかなりません。

この時期の穴山氏の行動次第では、現在の静岡県の範囲が違ったかもしれませんね。

今、富士川の大半の流域は、山梨県です。
ですが、大井川は静岡県が源流域から死守…でも今、リニア新幹線でまさかの大問題…、大井川の水は絶対に他県に渡さない!
浜名湖も、三河(愛知県)には絶対に渡さない!

* * *

神奈川県北方に、山梨県があるのは、ここに武田軍の小山田氏の支配地があったためです。
静岡県は、伊豆は取り返しましたが、小田原は奪えなかったということです。
箱根の芦ノ湖の水は、静岡県のもの。
駅伝はやってもいいが、頑丈な水門で、神奈川県には水は渡さない!
山にトンネルをぶち抜いて、箱根の水を静岡県に持ってこい!
いつか、富士五湖ぜんぶを…?

* * *

東京都が世田谷区と大田区の一部を神奈川県から手にしたのは、水問題がらみです。
奥多摩の水は誰のものだと思ってる…。
世田谷区も大田区もよこせ…。
多摩川から東は、東京のものだ!

* * *

近現代の水利権の戦いは、まるで戦国時代と同じですね。
今でも、県、市町村、企業、団体、外国勢が絡んで、その争いはすさまじい…。
県境の線は、絶対的なものではありませんね。

今の世でも、各県に、信玄が、氏康が、義元が…いるのかどうかですね。

戦国時代の「三国同盟(山梨・静岡・神奈川)」が、いかに もろいものか、今でもわかる気がします。

きっと三県とも言うと思います。
「富士山は、オレたちの場所から見るのが一番だ」。


◇さった峠を「去る」

さて、戦国時代に話しを戻します。

前述のマップのとおり、信玄が駿河国に侵攻するとしたら、やはりあの、えぐれた地域である富士川沿いに南下してくるルートです。

今川氏真は、信玄が北側から駿府を狙うと考え、薩埵峠(さったとうげ)付近に今川軍を配備し、武田軍を迎撃しようとしました。
この時に、氏真は、相模国(神奈川県)の北条氏康に援軍を要請し、武田軍と「さった峠」周辺で、幾度かの小競り合いを行いながら、北条軍の到着を待っていました。

北条氏康はというと、小田原を出発することはありませんでした。
「戦況の展開が早く、準備が間に合わなかった」と後で言い訳しますが、本当でしょうか…?

保有していた伊豆水軍に駿河湾を渡らせれば、数時間でこれたはずです。
水軍の基地は、伊豆半島の下田です。

北条氏康は、上杉謙信や徳川家康、織田信長と連絡も取り合っています…妙ですね。

* * *

信玄は信玄で、すでに今川軍内に調略をしかけ、今川側の多くの家臣と内通していました。
おそらくは、武田軍の穴山梅雪(あなやま ばいせつ)らによる調略かと思います。

今川氏真は、形勢不利となり、この薩埵峠(さったとうげ)を去り、家臣の朝比奈泰朝(あさひな やすとも)を頼って、今川領でもある隣国の遠江国の「掛川城(かけがわじょう)」に向かいます。

信玄も、ここで薩埵峠(さったとうげ)から去り、すんなりと今川氏本拠の駿府(静岡)を奪い取り、今川館を焼き払います。
この詳細は割愛します。
武田信玄は、この段階で、掛川城の今川氏真を追撃はしません。

前述しました、信玄と家康の密約に出てきました「大井川」の西側が「遠江国」です。
今川氏真は、なぜ掛川城を選んだのか…。
他にも、頑強な城はあるはず…。


◇北条動く

正月をまたぎ、1569年1月になると、北条氏康は、息子の氏政を大将にし、武田軍の倍ほどの大軍団で駿河国に迫ります。
まるでこのタイミングを待っていたようです。
陸路を進軍する部隊と、伊豆水軍も向かわせます。

* * *

北条氏は、上杉謙信に、信濃国にある武田領に攻撃を要請します。
武田氏は、関東各地の武将に、関東の北条領に攻撃を要請します。

戦国武将たちがみな、すぐに「わかりました」というはずはありませんね。
北条軍と武田軍はにらみ合いを続けました。
ただ、謙信は、ほかの武将たちとは別に考えたほうがいいと感じます。

もはや本来の領主の今川軍が、武田氏と北条氏のにらみ合いに入ってくるスキなど、どこにもありません。

* * *

もちろん、武田信玄は、今川氏真を遠江国に追いやった際か、追いやる前に、北条軍が駿河国にやって来ることは想定していたはずです。
どの程度の規模を想定していたかはわかりませんが、今から思うと、作戦行動としてどうだろうかとも感じます。

ただ、信玄が最初から、「駿河侵攻」という軍事行動を三段階に分けて計画していたとしたら、今川氏真を駿河国から追い出しただけでも十分に大きな成果とも考えられます。
長期戦の優れた軍事作戦のようにも感じます。
ただ、状況やタイミングによっては、武田軍にかなりの危険性を感じます。

信玄の軍事作戦を考えると、これまでも結構ギリギリの山の稜線を歩くような作戦が少なくないような気がします。
慎重で準備万端の信長とは、かなり違う気がします。

 

でも、信玄の周囲には無敵の大騎馬軍団がついていましたね。

私の印象では、信玄は、入念な準備をする一方、時に勝負をかける武将だったと思います。



◇信玄の密約破り

先ほど、信玄は、家康と、今川領地を折半する密約を結んだと書きましたね。

信玄は、今川氏真がこもる掛川城攻撃を、自身では行わず、徳川家康にさせようとします。
何かワナの臭いがしますね。

もちろん、武田軍を駿河国内にとどめさせ、北条軍に備えた動きではあるようにも感じます。
本当に、それだけでしょうか…。

* * *

案の定、武田軍は、一部の家臣を遠江国に進軍させ、家康の反応を伺います。
ある意味、信玄と家康の密約に違反する行為ともいえますね。

この時点で、信長は、家康に、うかつに信玄の挑発にのらないように引きとめたのかもしれません。
あくまで個人的な意見ですが、この時に信玄は、何かの陰謀を使って、いいタイミングさえくれば、今川氏真と徳川家康を、ひとまとめに倒そうと考えていたのではないかという気がします。
たまたま、そのタイミングがこなかったのかもしれません。

家康は家康で、今川氏のかつての重臣たちを徳川方に寝返らせてあり、そうそう信玄に簡単に屈するものでもありません。
ただ、これがすべて家康だけで実行できたであろうかと感じます。
信長の「桶狭間の戦い」からの神通力が作用したかもしれません。

* * *

信長の細かな指示があり、そのとおり今川家臣たちを調略した後、家康が、今川氏真が立てこもる掛川城を包囲しました。
信長は、家康が無理に掛川城に攻め込みすぎたり、信玄の挑発に乗ったりする危険性をわかっていた気もします。

家康は、信長から、すぐに掛川城を攻撃するなと指示を受けたのではないだろうかと感じます。
この年齢の本来の家康であれば、すぐに掛川城を攻撃してしまいそうです。

とにかく、信玄のどんなワナが待っているのか わからないうちに動くのは危険すぎます。
信玄がワナを仕掛けていないと考えるほうが、どうかしているのだろうと思います。

* * *

1569年2月、信玄は、一応、家康に「密約破り」の詫びを入れ、家康に掛川城を攻撃してほしいと、あらためて要請します。
どうしても、家康に掛川城を攻撃してほしい信玄がいます。
信玄自身なら、軽く掛川城を陥落させられると思いますが、それでは都合が悪いですし、それができない状況にあったとも考えられます。

北条軍が、これほどの大軍勢で、タイミングを見はからって、やって来るのを予想できなかったのかもしれません。
おまけに北条氏康は小田原城に残り、出陣して来たのは北条氏政です。
この状況で、うかつに北条氏政相手に本格的な戦闘行為を行うのは、かなりの危険性を感じます。

駿河国内にいる武田軍は、遠江国の掛川城に兵を回すリスクを負えなくなったのかもしれません。
さらに、今川氏真を生かしておくほうが、今後のチカラバランスを考えた際に、有効だと考えたかもしれません。

* * *

2月16日、家康は掛川城を完全に包囲します。
そして掛川城が明け渡されるのは5月6日です。
何度か小競り合いをしながら、なんと三ヵ月弱もかけています。
小さな城に、この長期間…おかし過ぎます。

この三ヵ月あまりが、反信玄側の、時間稼ぎと陰謀調整の期間だったのではと感じます。

反信玄側…、つまり織田信長、徳川家康、北条氏康、今川氏真、そして上杉謙信です。

この三ヵ月間は、壮絶な情報戦と諜報活動が繰り広げられたのかもしれません。
そして、何より、上杉謙信が動き出せる春まで待ったのかもしれません。

実は、反信玄側とは書きましたが、すべての武将たちは、みな相手を信用などしてはいません。
スキあらば、便乗して、相手を倒そうという者ばかりなのです。


◇二つ目の密約(家康と氏真の密約)

実は、この間に、家康は上杉謙信とやり取りを行っています。
ようするに、家康・謙信・信長のやり取りのような気がします。

前述したとおり、上杉謙信は、北条氏康とはすでに、やり取りを始めていましたね。
あれほどの死闘を繰り広げてきた両者がです。

実は、今川氏真も、武田信玄が駿河侵攻を始める前から、北条氏康と上杉謙信との三氏で、武田氏を包囲し攻撃をかける相談を、とっくに始めていました。
信玄が、その情報をつかんでいないはずがありませんね。

そんな中で、上杉謙信は、武田信玄に塩を送るのですから、みな相当なものたちですね…。

* * *

謙信にとって、武田・北条・今川の「三国同盟」の存在は、脅威以外の何ものでもありませんね。

今川家は義元がすでになく、上杉氏と北条氏の援助なしに、武田氏には対抗できません。
謙信が信玄と同盟を結ぶのは至難の業ですね。

武田信玄が、一応、真っ先に表立って三国同盟をぶち壊したとたんに、上杉謙信が、すぐに北条氏との同盟を急ぐのは当然のことです。
言ってみれば、「三国同盟の崩壊の裏に、上杉謙信あり」ということだったと思います。

ただ、今川軍はすでに弱体化しており、家臣の徳川方への寝返りも進んでいます。
上杉軍と北条軍だけで、武田軍を倒せるかどうか…、倒せたとしてもかなりの犠牲を出すかもしれません。

* * *

信玄はというと、ここまで早い期間に、上杉氏と北条氏が手を組めるとは想像していなかったのかもしれません。

個人的な意見ですが、それが実現した裏には、織田信長がいたとも感じています。
もともと宿敵どうしの上杉氏と北条氏だけで話し合って、ことが早く進むとは思えません。
将軍の義昭がどの程度絡んでいたかはわかりませんが、義昭の代理として信長が仲介しても不思議はない気がします。
義昭は、信玄を敵にしたいはずもありませんから、表立った行動はしないと思います。

個人的な想像では、織田・上杉・北条・徳川が手を組み、「信玄包囲網」を構築し、信玄をワナにかけた気がします。
それに弱体化した今川氏真を利用したということです。

信玄を駿河国に引き込み、そこを取り囲み、叩く計画だったのかもしれません。
甲斐国内の山間地では、武田軍に勝つには容易ではないはずです。

* * *

結果的に、3月13日、謙信から、家康と氏真に、和睦提案が行われたようです。
将軍の義昭ではなく、あの謙信からの仲裁提案というのが、ここでの大きなミソですね。

家康と氏真の和睦提案を、信玄が認めるとは思えません。
信玄が受け入れるはずのない内容を義昭が行うとは思えません。
この和睦提案は、義昭の知らない、信長の作戦であったかもしれません。

今川氏真を、いったんこの遠江国からも離れさせるのが、信長の狙いだった気がします。
信長は、この段階で、家康に遠江国支配を完全なものにさせておく狙いだったのかもしれません。

そうしてから、状況がそろった段階で、駿河国に残っている武田軍を、徳川軍、北条軍、今川軍が総攻撃をかける…。

そのスキに、 謙信は、経済援助で安心させた甲斐国にそのまま侵攻…、「越後国からの塩」はワナかもしれません。
冬の時期は、謙信が大軍で越後国(新潟県)を出発するのが難しい時期です。
当時の3月中旬とは、今現代の4月中旬以降にあたります。
雪がなくなる この時期まで、引っ張ったのかもしれません。

織田家の戦闘の伝統として、敵国内で戦争を仕掛けてはいけないという掟があります。
敵をその自国から誘い出して戦えというものです。
ある場所に誘導し、取り囲み、逃げ出せない敵を一網打尽に叩きのめすのは、信長の必勝パターンですね。

信玄を、駿河国に誘い出し、そこで取り囲んで総攻撃…。

謙信からしても、北条軍と上杉軍と徳川軍(織田)、弱体化したとはいえ今川軍を加え、この4軍で囲めば、強力な武田軍を倒せそうな気もします。
謙信にとって、川中島で、あれだけ何度も戦って倒せない信玄でしたから、この作戦は期待できそうな気もします。

* * *

史料の内容の真偽はわかりませんが、この3月の時点で、徳川家康と今川氏真の間では、何かの密約が交わされたとされています。
徳川家康から今川氏真への言葉の記録です。

「私(家康)は、今川義元(家康の養父 / 氏真の実父)にたいへんな恩義があり、今川家に敵意を持ってはいません。
このままでは、駿河国も遠江国も武田信玄の手に渡ってしまいます。
いったん私が遠江国を手に入れ、北条氏と手を組み、信玄をこの駿河・遠江から追い出した後は、氏真殿に戻っていただきます」。

このような内容の密約が、両者の間で行われたといわれています。
ひょっとしたら、北条氏を含めた三者での密約です。
前述しましたが、北条氏は最初から今川家を再興させるつもりはありません。
この密約の真偽は、はっきりしません。

* * *

もちろん、その後、この内容のとおりにはなりませんが、それに近い方向で推移していくのは事実です。
ただ、後に、家康と氏真の和睦の仲介を行うのは、謙信ではなく、北条氏です。

込み入った陰謀ですね。
今川氏真の義父の北条氏康なら、氏真にも体裁が悪くないですね。
北条氏も、戦わずに駿河国の領有権を手にできるチャンスです。

「おいしい」ところを持っていくのは、北条氏なのです。
いや、本当はそうではなく、信長と家康かもしれません。

信長、家康、氏康、謙信が絡んで、この全体の流れが偶然の産物だとは思えません。
それぞれの武将の思惑はあれど、これは、一時的な「信玄包囲網」だった気がします。


◇信玄にかけたワナ

個人的な意見ですが、もし史実どおりの大兵力の北条軍であったなら、この駿府の武田軍を倒せた可能性があった気がします。
ただし、勝利できたとしても、ある程度の犠牲は考えられます。
そんな状況を、上杉軍、徳川軍、織田軍に攻撃されたら、相当に危険です。

あるいは、もし、実際の兵力はそうではなく、武田と北条が互角の兵力で、双方にかなりの犠牲が予想される状況で、場合によっては北条氏政の命の危険もあるような場合であったなら、北条軍は、そうそう武田軍に決戦など挑めません。

よくよく考えると、駿河国の領主が、隣国の遠江国の城に逃げ、そこで徳川勢が取り囲み、身動きを取れないようにし、その間に、当の駿河国内では、他国の武将の武田氏と北条氏がにらみ合っているなど、相当に妙な図式です。

武田軍と北条軍のにらみ合いは、戦局の流れの中で生まれてきたものではなく、最初から仕組まれたものだったとしたら…。
それができるのは、謙信と信長が組んだとき…?

武田信玄も、北条氏政(氏康)も、これは何か変だ…、と感じたのかもしれません。
「あれっ…オレたちヤバくね?」。

信玄からしたら、「一番ヤバいのは、オレだ!」。


◇北条のかけ引き

信長と家康が、どの段階から北条氏康と話しをつけたかは、はっきりわかりません。
北条氏が結果的に、家康と氏真の仲介に入るのは、かなり早い段階から仕組まれていたのかもしれません。

ひとまず、今川氏が援軍要請をした北条氏を仲介に、家康と氏真が和睦し、戦闘を終わらせ、今川氏真が北条氏を頼って保護される…、そして駿河国は北条氏のもの…、遠江国は家康のもの…というかたちにおさめるという内容なら、北条氏は納得するように思います。

北条氏からすると、ここで無理に武田氏を攻撃し、自軍に犠牲を出したり、北条氏政に危険が及ぶとあっては、ただの「とばっちり」です。
むしろ武田信玄の駿河侵攻のおかげで、駿河国をすんなり手に入れることができるのなら、これほど良い取引はありません。
個人的には、ここで武田信玄とまともに対決などするような北条氏なら、とっくに戦国時代に生き残ってはいないと思います。

武田信玄は、おそらく、この反信玄側の陰謀計画を知れば、甲斐国にいったん引き上げる…、北条氏はそう考えたかもしれません。
北条氏が、あえて武田側に情報を流した可能性もないわけではないと感じます。

北条氏からすれば、北条氏と今川氏の姻戚関係も、そのまま維持できますし、ひとまず駿河国の支配権だけを手にすれば十分のはずです。
無理に武田と戦う必要はありません。
実際に、北条氏が仲介し、家康と氏真は和睦します。

その後に、北条氏と徳川氏が同盟を結び、北条氏と上杉氏が同盟を結ぶ…、こういう段取りだったと思います。

ただ、ここで、上杉・北条・徳川の三国同盟がつくられないところが、戦国時代の面白いところ…。
信長はいずれ、上杉も北条も片づけるつもりだったでしょうから、徳川にそう簡単に同盟など結ばせないと思います。


◇信玄のアンテナが察知

個人的に、この反信玄の作戦計画が、反信玄勢力による武田軍への総攻撃の段階まで進んでいたら、武田軍はここで大敗北をした可能性は高いと考えています。

信玄が、支援を要請した関東各地の武将たちは、形勢全体が反信玄だと見るや、反信玄側にすぐに加勢するはずです。
何より上杉謙信と北条氏康が組んでいるとなれば、関東ではむかう武将など、まずいません。

ただ、それが実現するのは、信玄がよほどマヌケな武将だった場合です。
ここで負けないのが、信玄の信玄たるゆえんです。

* * *

上杉謙信は、いつも、信玄ならこう考える…、軍師の山本勘助ならこう考える…、と考えていた武将でしたが、信長も同様の感じがします。
信玄は、それともまた少し違う武将だとも感じます。

信玄は、おそらく、家康と氏真の和睦の方向を知り、それが実行される5月の直前の4月24日に駿府を立ち、甲斐国に急に引き上げます。
先ほど書きましたが、北条氏があえて情報を武田側にもらした可能性も考えられます。

この時点で、信玄は、何かのワナを察知し、こうした状況では苦境に立たされかねないと判断したのではないかと思います。
武田信玄の人生は、まさに戦いの歴史です。
これまで相当な数の戦いを経験していますから、こうした危険察知能力は研ぎ澄まされていたかもしれません。

自軍に向けては、「いったん甲斐国に戻って、大事な『田植え』」をしよう」とかなんとか…。
この頃は、農業をしない、季節を問わず戦える職業兵の集団を持っていたのは、信長くらいです。
たいていの軍団は、大事な農繁期に戦闘はできません。
まずは、食糧確保です。

とにかく、信玄からすれば、雪がなくなり、大軍で動ける時期を向かえた上杉謙信の動向は気になって仕方がなかったはずです。
信玄は、いったん甲斐国(山梨県)に引き上げました。

前述したとおり、「駿河侵攻」が、もし最初から三段階による侵攻計画であったなら、第一段階として、今川氏真を駿河国から追い出しただけでも、十分な成果ともいえますね。
もはや今川氏は、信玄の敵ではありません。

* * *

もし、信玄が5月まで、駿府に滞在していたら、家康・北条・今川の連合軍、それにプラスアルファの大軍団に取り囲まれ、総攻撃を受けた可能性は高かったとも感じます。

私は、武田信玄は危機察知能力に長けた武将であったと思っています。
準備もしっかり行う武将です。
彼の持ち前の「危機察知アンテナ」が作動したのかもしれません。

タイミングを見誤ることなく、甲斐国(山梨県)に無事に退却したのか、「第二次・駿河侵攻」への仕切り直しだったと思います。

* * *

今川氏真を除いて、どこまで、有力戦国武将たちはみな、タヌキなのでしょう。
だからこそ、このビッグネームたちは、猛烈に強かったのです。

この場にいなかった信長が、すべての筋書きを最初からつくっていたとしたら、やはり相当な策略家ですね。
これまでのさまざまな作戦や、上洛作戦のち密さを考えると、信長ならやりそうな気もします。

とはいっても、武田信玄も、上杉謙信も、北条氏康も、相当な策略家たちですね。
今川氏真や徳川家康も含め、誰が劣っていたとは言えません。

ここまでの戦局では、雌雄を決するような大戦闘はおきてはいませんでしたが、この頭脳戦と情報戦はすごい内容のように感じます。
ともあれ、信玄と武田軍は、一部を残し、甲斐国に引き上げました。


◇信玄の帰国後

信玄が駿府城を離れ帰国したのを見て、5月に、家康は駿府に入ります。
同月、北条氏が仲介するかたちで、掛川城の今川氏真は、徳川家康と同盟を結びます。

今川氏真は、北条氏を頼って、北条氏の領地の伊豆に向かいます。

密約にあった「氏真が、駿河国に戻る」とは、どういう意味なのか…?
北条氏には、相当に微妙な内容ですね。

* * *

北条氏康は、先手をうって、北条氏政の息子の氏直を、今川氏真の猶子にし、今川家の家督を継がせようとしました。
北条家による、今川家の乗っ取り計画ですね。
北条は北条で、味方のふりをして、「今川家乗っ取り」を謀ろうとしていました。
越前国の朝倉氏がよく使う手法です。

先ほど、氏政の正室で、氏直の生母の「黄梅院(信玄の娘)」が甲斐国に戻っていないという説があると書きました。
もし、この氏直の今川家後継プランが順調に進んでいたら、「黄梅院」の存在は重要になってくる気がしますね。
でも、このプランは、今度は武田信玄によって、すぐにつぶされることになります。

* * *

この時、今川氏真は、駿河国と遠江国(静岡県)の支配権を北条氏に、一応、渡します。
密約のとおりなら、いずれは戻ってこれるはず…。

ただ気になるのは、かつての今川家の家臣たちが、大勢離れてしまったことです。
今川氏真は、このビッグネームの武将たちに、太刀打ちできるでしょうか…。
氏真は、密約を信じ、徳川に味方する以外に、もはや道は残されていない気もしますね。
このままでは、今川家は北条家に飲み込まれます。

でもでも、氏真は後に、別の道を自身で切り開きますから、実は相当に頭のキレる武将だったのだろうと思います。
奥さんの「早川殿」も助けましたね。
この手があったか…。

* * *

さて、予定通り同年の1568年6月には、北条氏と上杉謙信の同盟が成立します。
北条氏政の子が、上杉謙信の養子になります。

北条氏と徳川氏の同盟は、15年後の1583年の「本能寺の変」での動乱の後です。
北条氏直の正室として、徳川家康の娘の「督姫」が嫁いだのは1583年です。
この時の家康は、信長という大きな傘はいませんでしたが、もはや、ひと皮むけた有力戦国武将でした。

* * *

ともあれ、反信玄側の計画では、武田軍への総攻撃の可能性もあったかもしれませんが、実現されませんでした。
ただ、武田軍を駿河国から追い出すことには成功しました。

信玄からすれば、いったん甲斐国に引き上げただけと言うかもしれません。

ここまでが、いわゆる武田信玄の「第一次・駿河侵攻」と呼ばれる内容です。
この呼び方は、あくまで武田側から見た表現ですね。

私は、信玄が自らの意思で侵攻をしたようにも感じますし、同時に、信玄が反信玄側に駿河国におびき出されたと感じなくもないです。
ですから、信玄にとっては、この「第一次・駿河侵攻」は、成功であり、敗退だったのかもしれません。
あるいは、三段階の「駿河侵攻計画」の第一段階の完了です。

* * *

ともあれ、これだけ有能な武将が幾人も絡んでくると、もはや戦闘は武器で行うものではないような気がしてきます。
まさに頭脳で勝利できない者は、勝つことができないのかもしれませんね。


◇大逆襲の準備

結果的に、信玄が駿河国からいったん甲斐国に退却したかたちではありますが、これが、危険を回避するため甲斐国に戻ったのか、次の第二次と第三次の侵攻への布石の行動なのか、よくわかりません。

第一次の失敗から、すぐさま大逆襲に転じたのかもしれません。

おまけに、あの陰謀屋の穴山梅雪(あなやま ばいせつ)を駿河国に残していきます。
梅雪が駿河国に残っていたのは、何かの計画が実施中である可能性が高いとも感じます。
さすが信玄です。

信玄…やはり、たとえ転んでも、ただでは起きませんね。
あの信玄が、これで終わるはすがありません。
すぐに怒涛の大逆襲…あるいは次の猛進撃を開始します。
こんな軍事行動…やはりその辺の武将にはできません。
信玄…やはり、並みの武将ではありませんね。

さらにすごいのは、信玄は、信長や謙信への対抗姿勢を表に出しません。
強い武将は、無駄に敵意を相手に示しません。
我慢強さも一流ですね。

* * *

この地域のビッグネームたちの戦いは始まったばかりです。

織田・徳川の連合軍からすれば、有力武家の今川氏は滅亡させたも同然…、武田信玄は甲斐国に帰還…、家康は領地を拡大…、北条氏は念願の駿河国を手中に…、信長と家康からしたら、この時点では、これで十分だとも思います。

この後、信長には、自身による伊勢侵攻が待っています。
家康は、遠江国内の安定支配や築城、三河国内のゴタゴタが待っています。

ともあれ、この1568年から1569年前半の、このビッグネームたちによる、ある意味「信玄包囲網計画」をまとめ上げることのできる人物は…?
個人的な意見ではありますが、将軍 義昭をコントロールできる織田信長と、上杉謙信が絡まないと、まず上手くいかないように感じます。

ある意味、この「第一次・駿河侵攻」が終わった時点では、武田も、上杉も、織田も、徳川も、北条も、「自分の思惑通り…」と言えなくもありません。
負けたのは今川だけです。
それぞれの武将たちは、各武将たちを、「なかなか やるな…」と感じたかもしれませんね。

* * *

信長は、同時期に、一方で、武田家との同盟関係を続けています。
さも、自身は関わっていないかのような素振りです。

信長自身は、東海地域にあえて向かわず、陰で家康を使ったのだろうと思います。

信長は、「本圀寺(ほんこくじ)の変」の対応や「二条城築城」、他にも多くの問題処理を行っている最中に、こうした作戦を実行しているのですから、大したものです。
同年中には、この後に「伊勢侵攻」や、毛利元就の支援にも乗り出しますから、まさに超人です。
でも、このくらいのことができるからこそ、信長なのだろうと思います。

* * *

私は、信玄がこの時点で、反信玄勢力の「信玄包囲網」の陰謀を見抜けないはずはないと思います。

信玄は、後に、信長に対して「信長包囲網作戦」を計画実行する中心人物になりますが、この時に自身に行われたこの計画を、参考にしたのかもしれませんね。

日本史においては、意外と「包囲網作戦」は成功していない気がします。
網(あみ)が大きすぎると、必ず「ほころび」が生まれます。
必ず自身の思惑で、勝手な行動を起こす武将があらわれます。
だいたい武将たちは、みな自分本位です。
それに、いつも包囲する相手が強敵すぎるのです。

信玄しかり、信長しかり、家康しかり…みな包囲網を敷かれても、見事に突破するのです。


◇去るもの、来るもの

さて、先般の大河ドラマ「麒麟がくる」では、武田信玄も、朝倉義景も、浅井長政も、山崎吉家も…、大したシーンもなく、あっという間にドラマから退場してしまいました。
たいへん期待していただけに、さみしすぎる退場シーンでした。

個人的には、山崎吉家役の榎木孝明さんの、本格派の大立ち回りを楽しみにしていました。
山崎吉家がテレビドラマに登場することすら、私は記憶にありません。
最期に、光秀に「頼む…」とかなんとか…。
実際に、山崎氏一族の一部は、光秀の家臣となります。
てっきり、ここまでのドラマでの吉家と光秀の関係性から、そうしたシーンがあると期待していたのですが…残念。
コロナ禍でなかったら、もう少し華々しいシーンがあったのかも…?

* * *

当主がまともに死ぬことのない陰謀まみれの朝倉家の、義景(演:ユースケ・サンタマリアさん)も、最期にふてくされた「恨み節」か何かをもっと残して、ド派手に散ってほしかった…。
でも、あの金色のサザエの兜が登場したときは、「やった」と思わず叫んでしまいました。
朝倉義景は、ヘンテコ兜を結構持っていた武将でしたので、どの兜を着用するだろうかと密かに期待していました。
ユースケさんが、笑いを取りにきたのかと、思わず感じたくらいです。
歴史ファンとしては、もうこれだけでも十分です。

実は戦国時代は、ヘンテコ兜のオンパレードです。
どういう感覚になれば、こうした兜をかぶる気になるのか、さっぱりわかりません。
サザエを食べながら、これを大きくして、かぶろうと思ったのでしょうか…。
戦場で笑わせてどうする…。
海の生きものシリーズでは、このサザエのほかに、魚はもちろん、エビ、カニ、ホタテ貝、タコまであります。

サザエの兜…、今どこかの工事現場の監督さんがかぶって登場したら、その工事現場はとってもなごむでしょうね…。

強烈な印象を残してくれた「義景・サザエマリア」でした。

* * *

さすがに、三淵藤英(演:谷原章介さん)は、かなり簡潔に状況をまとめられはしましたが、切腹シーンがつくられましたね。
藤英の台詞「家臣の器」は、賛否両論ありそうな、複雑な意味合いの台詞でしたね。
また、あらためて、このあたりは書きます。

「お市」も、浅井三姉妹も、どこかにいっちゃった…。
信長の「どくろの盃」もなし…。
信長の家臣の佐久間信盛の史上最大の「クチごたえ」もなし…、密かに楽しみにしていました。

* * *

「麒麟がくる」の最終回は、2021年2月7日だそうですので、この急激なスピード展開も致し方ありません。
残り回数を考えると、「山崎の戦い」もかなり短縮か…。

馬に乗って琵琶湖を渡るあの武将も…、坂本城での光秀の一族の最期もなしか…。
でも光秀の娘の「たま(ガラシャ)」と細川藤孝には、何かの役目をさせるのかも…。
それに駒ちゃんにも…。
菊丸にも重要な役目が…?
それにしても、菊丸が、まさか大河放送中に結婚するとは…。
菊丸…さすがだ。

とはいえ、やはり光秀が主人公ともなると、光秀の心理描写がしっかり描かれますね。
もっと放送回数があれば、さらに細かい心理分析や陰謀が描けるのでしょうが、一年間の放送期間ですから仕方ありませんね。

* * *

日本史には、見る方向が違うと、かなり異なる人物像が浮かび上がる武将たちがいますね。

むしろ天下人のような軍団のトップ武将のほうが、その行動の目的や心理状況がわかりやすかったりしますが、軍団の二番手や三番手のような武将たちの心理は、非常に解釈するのが難しかったりしますね。
特に、裏切りにつながるような行動をとった二番手武将たちは、その解釈次第かもしれません。

今回の大河ドラマの光秀は、主人公でもあるので、美しい姿が強調されているのは仕方ないのでしょうが、相当に苦悩した武将だろうとは思います。
豊臣秀吉の下にいた石田三成、武田信玄の下にいた穴山梅雪、徳川家康の下にいた石川数正…、みなその行動を解釈するのが難しい武将たちですね。
単純ではなさそうです。

織田信長の下にいた明智光秀と豊臣秀吉は、際立って対照的な人物像に感じますね。
生い立ちも人生観も違いすぎます。

明智光秀が凡庸な武将でなかったことは確かだと思いますが、本人は、「本能寺の変」が人生の引き際につながるとは想像もしていなかったかもしれません。
少しでも先を想像し準備できていたら、その時点で日本史から退場することはなかったのだろうとも感じます。

* * *

日本史では、軍団の二番手武将が大きな謀反を起こすのはめずらしいことではありませんが、こと信長に対しての謀反は、相当に難しかったはずです。
協力者や、その計画を知っていた武将が多かったにも関わらず、信長に察知されていません。
それに、実際に決行した光秀は、その後すぐに討たれます。
ここまで完成された謀反計画は、そうそうないかもしれません。

光秀が、全体像をどこまで理解し、その後にやって来る苦境を予測できていたのか…。
彼の最後は、あまりにも孤独に感じます。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、これから、どのような「本能寺の変」と、光秀の最期が描かれるのでしょうか…。
とどめを刺すのは誰…?

大河ドラマでは、おそらく、ここから、武田家の滅亡、信長の恵林寺攻撃など、「本能寺の変」に向かう非常に重要な内容が登場してくるのだろうと思います。
光秀を語る際に欠かせない「丹波国」の内容も近く描かれるようですね。
まさか、光秀の母は…?

ここからの大河ドラマ内容は、ひょっとしたら、「本能寺の変」の黒幕や陰謀、光秀の心理の描写に重点を置くのかもしれません。
一般的な戦国もののテレビドラマでは、ほとんど描かれることがないので、たいへん期待しています。

光秀が去って、麒麟がやって来るのか…?
その「去来」を見とどけたいと思います。

* * *

残りの放送回数が少ないので、かなり簡潔な内容で進行するのかもしれませんが、このコラム「麒麟シリーズ」では、ドラマ終了後も書いていきたいと思います。
もはや、放送回についていくのは無理です。あきらめました。
コラムでは、まだ信長の上洛作戦あたりをウロウロしています。

信長と直接に絡んだ、朝倉義景、浅井長政、山崎吉家、三淵藤英の死については、ドラマより、もう少し詳しく書いていくつもりです。
そうだ…、ドラマでは、まだ松永久秀が残っている…。

* * *

今回のコラムは、「富士山」の見える「さった峠」にやってきた信玄の「第一次・駿河侵攻」のお話しでした。
次回は、「第二次・駿河侵攻」について書きたいと思います。

縁起のいい初夢の順番では、「一富士」の次は「二鷹」です。
武田信玄は、「鷹(たか)」を通じて、織田信長の実力を知ったといわれていますね。

さて、冒頭写真は「さった峠」と富士山と駿河湾です。
去らずに、まだいるの…あいつ!

* * *

コラム「麒麟(52)信長に倍返しだ!【3】武田の鷹狩り」につづく。

 

2021.1.3 天乃みそ汁

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