NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の大陰謀。複雑な人間関係の今川軍。武田軍崩壊の陰謀。対抗勢力の恐ろしさ。桶狭間の謎の寺。瀬名氏俊・簗田政綱・蜂須賀小六・水野信元。
麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)
「陰謀網(いんぼうあみ)」
前回コラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」では、織田軍の丹下砦・善照寺砦・中島砦のこと、信長の見事な人員配置のこと、信長の「袋のネズミ作戦」のこと、大橋宗桂と藤井聡太さんのことなどについて書きました。
今回のコラムは、桶狭間での決戦の戦況を書く前に、今回の戦いの中で、かなり重要な意味を持つであろう「大陰謀」の「網」や、勝敗に直結するであろう「暗躍」について書きます。
ここからは、おおかた私の推論ですので、その旨ご理解ください。
◇桶狭間にはられた陰謀の網
ここまでのコラムの中でも、織田軍の簗田政綱(やなだ まさつな)について、いろいろと書いてきました。
おそらくは、今回の戦いの陰謀や暗躍、作戦全体の立案、調整、管理、指示は、彼が行っていたのではないかと感じています。
もちろん、信長と相談の上だったと思います。
信長自身が行わなければ実現できない内容も、たくさんあったとは思いますが、簗田の仕事は膨大にあったのだろうと思います。
そして、簗田は、蜂須賀小六(はちすか ころく)などの部隊を、暗躍の実行部隊として使っていたのではないでしょうか。
二人の関係性は、以前のコラムで書きました。
また、簗田は、織田軍配下の三河国の武将の中で、もっとも陰謀に長けた武将である水野信元にも、さまざまな指示を出していたと思われます。
この三人については、これまでのコラムでも書いてきましたとおり、まさに陰謀や暗躍のスペシャリストたちです。
織田家の陰謀の頭(かしら)、斎藤家の陰謀の頭、三河衆の陰謀の頭が、三人そろったようなものですね。
* * *
私は、さらにここに、今川家の陰謀の「頭」が加わったとも思っています。
今川軍の武将である「瀬名氏俊(せな うじとし)」です。
あろうことか、瀬名氏俊は、今回の今川軍の先鋒隊です。
今川軍の作戦計画、進軍ルート選び、進軍日程、各陣地の設営…、すべて彼の管理下で行われたかもしれません。
管理下とまではいかなくとも、かなりの影響力を有していたと思います。
ここまでに登場した四人は、ひとつ聞けば、十くらいの陰謀はすぐに理解できるような連中でしょうから、話しは早かったでしょう。
それぞれの思惑の合致点など、すぐに作れたような気がします。
簗田政綱、蜂須賀小六、水野信元、瀬名氏俊…、もしこの四人が手を組んでいたとしたなら、まさに「桶狭間の陰謀四天王」とでも名付けたいほどです。
* * *
私は、さらに、この瀬名氏俊に加担したのが、桶狭間にあった、ある寺であろうと感じています。
このお寺の話しは、後ほど書きます。
加えて、今川義元の最期の場面で、「一番槍」という、最初に義元に傷を負わせた武者の「服部一忠(はっとり かずただ)」も、かなり重要な暗躍者であったのではとも感じています。
なにしろ、服部一族の者です。
彼の、この目立たない雰囲気は、逆に何かがある気がしてなりません。
もし、この四人(簗田、蜂須賀、水野、瀬名)プラスアルファが手を組んで、簗田の計画のもと、作戦を実行し、ここに松平元康の三河勢、ひょっとしたら朝比奈の一族も、加わっていたのなら、もはや今川義元は手も足も出ない状況のように感じます。
とにかく、この戦いで、不自然な生還を果たした今川軍の武士たちは、かなり怪しいと感じます。
これだけの激戦であるのに、一族から死者を出さないとは、どう考えても偶然とは思えません。
朝比奈の一族については、ちょっとわかりかねますが、朝比奈自身が、何かを察知した可能性も十分に考えられます。
戦国時代は、感度の悪い武家がのしあがることなど、まず不可能な時代でした。
ここに名前が出てきた武将たち…その名前を聞いただけで、陰謀の匂いがプンプンしますね。
実際に陰謀まみれの彼らでした。
信長の桶狭間での大勝利という、とてつもない奇跡が、たった一人か二人の陰謀だけで成立するとは、私には思えません。
まさに、今川義元は、大陰謀の「網」が張りめぐらされた桶狭間に、上手に誘導され、不用意に入ってきたのだろうと感じています。
* * *
私は、もともと桶狭間という場所が、大軍団の大将が本陣を設営する場所とは思えません。
沓掛城周辺の村々も、すでに織田方に取り込まれていましたので、庶民も含めて、織田軍が、今川軍の動向を細部まで監視していたのは間違いないと思います。
もしそうであるなら、信長と簗田の陰謀は、あまりにも壮大で、細部まで、ち密に練られています。
この想定のもと、次回以降のコラムでの戦況を読んでいただけると、わかりやすいかもしれません。
あくまで、私の推論です。
◇瀬名氏俊
個人的な意見ですが、桶狭間の場所に義元本陣を設営させる計画を進言したのは、今川軍先鋒隊の瀬名氏俊ではないかと思っています。
そもそも、岡崎あたりからの進軍ルートといい、このスピード日程といい、何か不自然です。
瀬名氏俊は、今回の「織田軍攻撃作戦」全体においても、かなり重要な役割を果たしたのではないでしょうか。
瀬名は、義元が桶狭間で攻めらている時に、その場所にはいません。
桶狭間に義元本陣と自身の陣を設営した後に、大高城に向かったという説もあります。
私は、もっと別の場所にいたと思っています。
大事な時に、彼はいったい、どこにいたのでしょう…?
個人的に、義元が、どうして先鋒隊という重要な役割に、瀬名を抜擢したのか、非常に理解に苦しみます。
* * *
瀬名氏俊の生涯は、はっきりとはわかっていません。
暗い部分が多いからでしょうか。
息子の氏詮(信輝)は、この戦いの後、今川氏から武田信玄に寝返ります。
孫の政勝は、徳川家康の家臣となり、江戸幕府の立派な要職につきます。
まさに、強い武家への両天秤戦略ですね。
すさまじいまでの生き残りへの執念を、瀬名氏一族に感じます。
この時代は、こうした両天秤による生き残り戦略を行った武家はめずらしくありませんので、非難するようなことでもありませんが、信濃の真田家とは印象が少し異なります。
◇一枚岩ではない今川軍
以前のコラムで、松平元康(家康)の複数代前の時代の、三河国内での松平一族周辺の争いのことを書きましたが、駿河国の今川家も、同じような抗争劇が、幾度も繰り広げられてきました。
あまり古い時代までさかのぼってもキリがありませんので、簡単に…。
今川義忠(義元の祖父)が「応仁の乱」のため、駿河国から上洛し、東軍に組します。
この時に、中国地方の有力武家の伊勢氏の伊勢盛時(後の北条早雲)と出会っており、その一族の女性と義忠が結婚し、今川氏親(義元の父)が誕生します。
義忠は駿河に戻ってから、斯波(しば)氏の支配地であった遠江国(浜松市周辺)に侵攻し、斯波氏から遠江国を奪取します。
斯波氏は、室町幕府の足利将軍家に次ぐ名門武家のひとつで、戦国時代中頃までは、越前国(福井)、尾張国(愛知)、遠江国(浜松市周辺)を支配していましたが、越前は朝倉氏に、尾張は織田氏に、遠江は今川氏に奪われるという、まさに下克上により没落していった武家です。
この流れが、今川義元、織田信長、朝倉義景の争いにつながっていきます。
* * *
辣腕(らつわん)の今川義忠が亡くなると、待ってましたとばかりに、家督相続争いが今川一族と家臣らの中で起き始めますが、後継者となる今川氏親の親戚で後見人となった伊勢盛時(北条早雲)が中国地方から駿河にやって来て、チカラで今川家の家督相続争いを仕切ってしまいます。
そして盛時(早雲)は、今川氏の名を利用するかのように、伊豆国と、上杉氏の領地であった相模国をチカラで奪い取り、小田原城も奪取します。
一応、盛時(早雲)は今川氏親の家臣ですが、名ばかりで、相模国や伊豆国の実権は伊勢盛時(北条早雲)のものとなります。
この時に、盛時らと敵対関係にあった今川の家臣が、「桶狭間の戦い」でも重要な位置にある、三浦氏や朝比奈氏という有力な一族です。
そりゃあ、最初がこうなのですから、北条氏と今川氏の仲が悪いのは仕方ありません。
そして、北条氏は、早雲(氏長)、氏綱、氏康、氏政、氏直と、家系がつながっていきます。
* * *
もともと相模国は上杉氏の支配下でもありましたので、この浜松あたりから横浜あたりまでの海沿いの地域は、今川氏・北条氏・上杉氏が火花を散らす、そこらじゅうに爆弾が転がる火薬庫のような地域になっていきます。
そこに、少し内陸に入った地域にいた甲斐国の武田氏が加わって、東日本の南部地域は大戦乱地域になっていきます。
尾張・美濃・近江・越前あたりの戦乱地域とは少し離れていますが、ここにも大きな戦乱地域が形成されていました。
* * *
今川氏親が亡くなると、また家督相続争いが起き始めます。
義元は三男でしたが、長男と次男が、謎めいた亡くなり方をします。
おそらく暗殺です。
義元の生母が、確実に、今川氏親の正室の「寿桂尼(じゅけいに)」であるとは断定できていませんが、義元は、この寿桂尼と雪斎(せっさい)のチカラで1536年に今川家の後継者となります。
義元の意志ではなく、この二人の意志であったとも感じます。
今川家の家臣には、義元の後継を認めない勢力もいましたが、雪斎と、「桶狭間の戦い」の際に鳴海城主となっていた岡部元信の父である岡部親綱(おかべ ちかつな)が、チカラで彼らをねじふせます。
岡部親綱は、おそらく義元の後継実現にも貢献したと思いますが、桶狭間の戦いの時は、おそらくかなりの高齢で、すでに出家し、戦場に来ていなかったと思います。
* * *
実は、駿河国勢を中心とした今川氏(駿河今川氏)と、前述の斯波氏から奪い取った遠江国勢を中心とした今川氏(遠江今川氏)というのは仲がよくないのです。
駿河今川氏の義元が後継者争いで勝利する中、遠江今川氏は対抗勢力となり、同じ遠江国勢の井伊氏、小田原の北条氏と手を組んで、駿河今川氏を倒そうと企てます。
これが今川氏と北条氏による、1537年から1545年までの7年間にわたる「河東(かとう)の乱」の構図です。
この争乱に甲斐の武田氏が入ってきて、北条氏が手を出せなくなり、「遠江今川氏」は「駿河今川氏」に屈服することになります。
この遠江今川氏の中心にいた一族が堀越氏で、その分家が瀬名氏です。
瀬名氏俊は、この瀬名一族に生まれます。
* * *
瀬名氏俊は、前述の「河東の乱」の時に、北条氏綱と手を組み、いろいろな暗躍をしたという説があります。
その乱が終わって15年経ったとはいえ、「桶狭間の戦い」の直前の三河勢の反乱とあわせて、義元は、どの程度まで、遠江今川氏や瀬名氏のこと、遠江国勢のことを把握できていたのでしょうか…。
実をいうと、朝比奈氏も、義元派とその反対勢力に分かれて争っていたようです。
このコラムシリーズでも再三登場します朝比奈泰朝(あさひな やすとも)は、遠江国の掛川城主だったのですが、この城は駿河朝比奈氏に対して、遠江朝比奈氏と呼ばれます。
今の掛川市の地域ですが、義元の本拠地の駿府(静岡市)と浜松の、ちょうど真ん中あたりにあります。
朝比奈泰朝は、寿桂尼とは近い間柄にあるとはいっても、本当に今川義元をはじめ今川家に、強い忠誠心を持っていたかは、私にはわかりません。
* * *
よくよく考えてみると、瀬名氏も朝比奈氏も、もともとは義元の対抗勢力だったということです。
「桶狭間の戦い」までの、15年や20年で、遺恨がなくなるとは思えません。
義元は、先鋒隊に瀬名氏を…、大高城に朝比奈氏と三河勢の松平氏を…、よく抜擢したものです。
寿桂尼は駿府に…、そして、雪斎は、もはやいません。
遠江国勢の井伊直盛と松井宗信は、結果的に「桶狭間の戦い」で散っていきますので、瀬名氏や朝比奈氏にとっては、ライバル一族が弱体化し好都合だったかもしれません。
「桶狭間の戦い」の後に、没落した駿河今川氏に見切りをつけ、遠江国勢や遠江今川氏が、さっさと松平家の配下に入っていくのは、こうした背景があったためだと思っています。
「桶狭間の戦い」の後、武田信玄が今川の領地に侵攻してくるや、瀬名一族は、さっさと今川家臣の立場を捨て、一部は武田氏に、一部は松平氏にと、両天秤戦略を実行します。
朝比奈氏も、松井氏も同様です。
遠江国の井伊氏だけは、松平氏一本にかけました。
これが功を奏したのか、その後に、井伊直政は徳川四天王になり、井伊氏は徳川政権の中枢になっていきます。
井伊氏のことは、また別の機会に書きたいと思いますが、武家には、その時々で、相当に重要な決断の時がありましたね。
* * *
私は、義元が、この時に、家臣団の武家たちの心や状況を、しっかり把握できていたとは思えません。
こんなバラバラの状態で、大軍団を仕立て、大戦に向かったことこそ、義元の決断の失敗ではなかったかと思います。
信長が、織田家臣団や三河勢に、細かな配慮や人員配置を行っていたのとは、対照的に感じます。
信長が、この今川家内部の複雑な関係と、遺恨に目をつけないはずはないと思います。
「これなら、今川軍内部をバラバラにできる…」。
信長に限らず、秀吉も、家康も、謙信も、信玄も、元就も…、敵の内部に「ほころび」を見つけた時の、執拗な陰謀暗躍はすさまじいものがありました。
武将たちが鬼に変わる瞬間は、戦場だけではありません。
「ほころび」がなければ、それを陰謀で作ることさえ、彼らは行いますから、相手からみたら、もはや手も足を出せなくなりそうです。
◇勝敗の決定打
三河国の勢力のうち、水野勢は、すでに織田方に味方しています。
あとは、松平元康らの他の三河勢と、遠江国勢の中でカギを握る瀬名氏を味方にできれば、信長は、相当に有利な立場になるかもしれません。
朝比奈氏に関しては、私はわかりませんが、結果的に、朝比奈一族の主要な武将がみな生き残ったことを考えると、織田に味方はしないまでも、松平氏と同様に、静観の立場で、その時をやり過ごすという行動をとった可能性もゼロとは思えません。
私は個人的に、桶狭間にやって来た今川軍の中で、鳴海城の岡部氏と、大高城の鵜殿氏を除いて、信長が敵とみなし、戦うべき主要な武将たちは、ほぼ討ち取ったような気がしています。
残党兵を追走はしますが、大した数でもありません。
私は、瀬名氏俊の存在が、義元の命取りの原因のひとつだったような気がしてなりません。
* * *
そして、この瀬名氏俊が、庭のように知り尽くしていた場所こそ、桶狭間という場所だったのです。
今、桶狭間には、「瀬名氏の陣跡」など、瀬名関連の名がついた史跡が、義元本陣のあった場所の近くに、たくさん残っています。
とって付けたかのように、「瀬名」名がたくさんあるのです。
桶狭間の地で、瀬名氏は、今でも特別な存在感を残しているのです。
* * *
私は、この瀬名氏が、桶狭間のどの場所に、どの時刻に、義元本陣を設置し、さらに他の武将たちの布陣場所にも、かなりの影響力を持っていたと感じています。
もし、今川の作戦全般に、瀬名氏と朝比奈氏が同意したら、まず他の家臣は従うような気もします。
内応している松平元康が反論するはずがありませんね。
瀬名氏俊も、朝比奈泰朝も、桶狭間での最終激戦に参加していないとは、何か理由がなければ考えにくいと思っています。
今川軍の中で、最大級のチカラを有する武将が、実は敵に寝返っていた…、これは戦の勝敗の決定打になりうると感じています。
信長の大陰謀が、これを成功させたと思っています。
◇よく似た武田家のケース
ここで、この桶狭間のケースによく似た、信長の大陰謀を、もうひとつ書きます。
信長が、武田家を滅ぼしたケースです。
武田信玄の死後、息子の武田勝頼が率いる武田軍が、信長に「長篠の戦い」で大敗し、その後、武田家の甲斐国は、信長に猛攻撃をかけられます。
武田軍の家臣団の中からは、信長に内応する者が続出します。
* * *
その中に、穴山梅雪(信君)〔あなやま ばいせつ〕がいます。
彼は、武田信玄の姉の息子で、武田家一門の筆頭という重要な立場になっていたのですが、家康を通して、信長と内応し、武田家を離れます。
その時に、河口湖あたりに隠してあったといわれる武田軍の大量の金を持って、甲斐国を脱出したといわれています。
彼は、「本能寺の変」の後、家康とともに堺の街から脱出し、三河国に向かう途中に亡くなりますが、この時も大量の金を持っていたともいわれています。
個人的には、彼の死は、家康が絡んでいるとにらんでいます。
この逃亡劇は「伊賀越え」と呼ばれますが、これを家康が成功させるには、大量の金が必要だったはずです。
かつての武田軍の大量の金は、これに使われたのではと感じています。
なにしろ、「伊賀越え」を手助けした、伊賀者たちは、武田家のことを百も承知です。
* * *
この穴山氏という一族は、元は甲斐の武田家から派生した一族ですが、甲斐国の南部を支配地とし、そのすぐ近くの今川氏の配下に入っていた一族です。
武田信玄の父の信虎に攻撃され降伏し、武田氏の配下に入った一族で、武田家と姻戚関係をつくり、武田軍の中で、のしあがっていきました。
* * *
穴山氏と同様に、武田軍の最重要家臣のひとりで、後に武田家滅亡の決定打となる織田氏への寝返りを実行する小山田信茂という武将がいるのですが、彼も穴山氏とよく似ています。
小山田氏は、もともと甲斐国の東部から、埼玉の秩父あたりまでを支配し、相模国の北条氏に近い存在だったといわれています。
小山田氏も、穴山氏と同様に、信玄の父の信虎に屈服した一族です。
ですから、この両氏は、他の武田の有力家臣たちとは、意味合いが少し異なります。
もともとは、武田氏の対抗勢力で、その配下に組み込まれた一族でした。
ただ小山田信茂は、「長篠の戦い」で、穴山氏のように、戦況不利と見るやすぐに戦場を脱出するようなことはなく、勝頼のすぐ近くで、彼を守り、長篠の戦場から彼を脱出させた武将です。
にもかかわらず、最後の最後に、勝頼の命を信長に差し出したのは、小山田氏です。
武田勝頼は、真田昌幸と、小山田信茂という、逃亡先の二つの選択肢がありましたが、小山田のほうを選択したのです。
今となっては、この選択が誤りだったのは間違いありません。
* * *
もともと、穴山氏も、小山田氏も、武田家と一族の運命を共にする筋合いは、まったくありません。
戦国時代であれば、常識的な判断とも考えられます。
ただ、それには、タイミングとやり方がやはり肝心だったとは思います。
「桶狭間の戦い」での松平氏や瀬名氏のように、その当時はもちろん、後世の現代にまで、そうそう疑われることのないよう…、また、「誹謗中傷」を受けないように、しっかり対応しておくことが大切だったかもしれません。
* * *
とはいえ、信長が、武田軍を崩壊させる目的で、穴山氏と小山田氏に目をつけたのは間違いありません。
家康も、そのことは、わかっていたはずです。
小山田氏が死に、家康にとって、穴山氏は、大量の金を所持していたかどうかに関わらず、生きていてほしい人物ではありません。
家康は、後に、武田軍の兵力と土地を、ほぼすべて手中にするのです。
家康の陰謀力のすごさも、信長に決して負けなかったということですね。
その話しは、おいおい…。
* * *
小山田氏は、この寝返りによる武田家滅亡の後に、織田信長の息子の信忠によって、処刑されます。
この信忠の、生涯の恋人が、武田信玄の五女の松姫で、松姫が京都にいる信忠の元に向かっている最中に、「本能寺の変」が起き、信忠は信長とともに果てます。
ですから、「本能寺の変」が、もう三ヵ月早く起きていたら、勝頼の死と武田家滅亡も、小山田氏の死も、穴山氏の死も、なかったかもしれません。
こんな展開…まさに大河以上の、大河ドラマですね。
この頃の武家に起きたさまざまなドラマに、現代のテレビドラマは到底かないませんね。
いずれにしても、この武田家の穴山氏と小山田氏の裏切り…、誰かに似ていませんか?
そうです。
まるで、「桶狭間の戦い」での今川軍の松平氏と瀬名氏の裏切りのようです。
信長が大勝利する「桶狭間の戦い」と「甲斐征伐」の陰謀工作は、非常によく似ている気がします。
◇かつての対抗勢力は危ない
こうした陰謀は、信長に限ったことではありませんが、のしあがる戦国武将は、大戦の戦闘の前に、敵家臣団の中の相当に重要な位置にある武将を寝返らせるという戦術を、よくとっています。
秀吉も、家康も、まったく同様です。
もはや戦国時代後期は、武器の威力が増大し、戦闘員の人数も激増し、作戦も巧妙になり、兵や武器のレンタルや連合軍スタイルも行われるようになり、戦いのかたちが、かなり複雑になっていきます。
寝返りなどを含めた巨大な陰謀をしっかり成功させておかなければ、勝利することができなくなっています。
中途半端な陰謀では、すぐに見破られてしまいそうです。
寝返りを防ぐにも、相当な「見かえり」や、別の要素を用意しないと、重要家臣を引きとめておけません。
三英傑(信長・秀吉・家康)が行った巨大な陰謀の数々は、他の武将たちより、ケタはずれに大きな「陰謀網(いんぼうあみ)」であったと感じています。
すぐに破れてしまいそうな「網」など役に立ちません。
頑丈で巨大な網を、何重にも仕掛ける…、これが戦国時代の武将の戦い方でした。
* * *
戦国時代の武将は、かつて敵軍にいた重要家臣を、自分の側に寝返らせ、彼らを新しい家臣として利用するということがめずらしくありません。
ですが、その後、その寝返らせた家臣によって、武将自身や、後継者一族が滅ぼされたというケースも、非常に多くありました。
今川義元、武田勝頼…、この二人は、このケースだと思います。
実は、織田信長も、これと同じケースで、自身の最期をむかえます。
豊臣家も、同じケースですね。
最後に天下人として登場した徳川家康は、このケースを徹底的に防ごうとします。
江戸幕府は、「外様大名(とざま大名…関ヶ原決戦にからみ徳川家に新しく配下となった武将)」と「譜代大名(ふだい大名…主君に数代にわたって古くから仕える武将)」を明確に区別し、その領地配置に気を配り、参勤交代で金を使わせ、人質を江戸にとり、ひんぱんに引っ越しさせ、禁止事項を膨大につくり、時には危険な大名家をとりつぶしました。
徳川家は、東日本一帯を使って、いざという時の防衛体制も敷きます。
多くの戦国武将が、恨みを持ち続ける かつての対抗勢力たちに、復讐され滅んでゆく姿を、家康は、いやというほど見てきたはずです。
家康自身も、桶狭間で…、大坂で…、それを行った立場です。
「対抗勢力」とは、本当にやっかいな存在であり、何かしっかりとした対策を維持していないと、永遠に解決できない存在なのかもしれませんね。
「対抗勢力」という大きな「網」に引き込まれ、滅亡していった武家は数知れず…。
いつの時代も、これは「歴史の宿命」かもしれません。
◇桶狭間の謎の寺
さて、先ほどの、桶狭間での瀬名氏に関連したお話しに戻ります。
私は個人的に、桶狭間の決戦のこの場所で、瀬名氏俊にチカラを貸した重要な勢力が、別にもいたのではないかと感じています。
それが、桶狭間の地にあった、あるお寺の存在です。
現在は、「長福寺(ちょうふくじ)」と呼ばれ、当時から、今川氏の大切な庇護のもとにあったともいわれていますが、はたして本当でしょうか…?
* * *
このお寺は、5月19日の決戦の直前に、今川義元に昼食を用意し、歓待したお寺です。
だいたい、それだけの昼食と、それに大量の酒を、こんな山の中で、だれがどうやって準備できるのでしょうか…。
一応、準備するのは先鋒隊の瀬名氏俊の役目であろうと思いますが、実情はおそらく、織田軍の蜂須賀小六あたりが事前に準備しておいたものではないでしょうか。
織田兵との小競り合いに勝利するたびに、義元は、軽い祝宴を開いています。
これまでのコラムでも書きましたが、この時に、上機嫌の義元が言った言葉が、あの有頂天台詞です。
* * *
義元は、最終局面でも、この寺に逃げ込むことはありませんでした。
この寺の住職等の関係者は、この戦いの直後に、今川軍の首実験(死んだ武将の本人確認)を行った人物たちです。
その日にやって来た武将たちの首の確認作業を、そうそう簡単にできるものなのでしょうか…。
戦闘直後に、確認作業を短時間に確実に行えるように、人材と場所を、信長が事前に用意しておいたとしか思えません。
瀬名軍の誰かが協力すれば、短時間でも作業は可能だったでしょう。
* * *
戦国時代に戦に強かった武将たちは、戦闘勝利後の動きもかなり素早いですが、相当にち密な、戦後の行動計画がたてられていたケースがたくさんあります。
これは、事前に、敵の逃亡を想定し、その可能範囲を限定させ、追走あるいは捜索計画を準備していることに、ほかならないと思います。
明智光秀も、石田三成も、戦場付近から、逃げ切れませんでしたね。
家康の「関ヶ原の戦い」でも、戦闘勝利後の行動を、そこまで準備しておくのかと驚きます。
いつの時代の戦争もそうですが、戦闘終了直後のリスクは、相当に大きいものです。
信長の息子の信忠は、「本能寺の変」の際に、実際には京都から逃げきれたはずだといわれていますが、彼は、判断ミス(?)かどうかはわかりませんが、父親の信長の意思とはおそらく違う、「逃げない」という決断をしてしまいます。
この話しは、ずっと後に…。
ともあれ、桶狭間のお寺が、もし今川氏に近い寺であったなら、瀬名氏の指示とはいえ、信長に協力することなど、本当にあるでしょうか…?
* * *
ここまでで、すでに結構な長文になってしまいましたので、次回コラムで、この続きを書きたいと思います。
この桶狭間の寺の謎、戦国時代の仏教宗派の抗争と武将たちのつながり、そして、信長と光秀の運命を左右した決定打(?)になったかもしれない、あるお寺の「心頭滅却」のお話しを少し書きたいと思います。
桶狭間の謎の寺のお話しをしてから、桶狭間の戦いのクライマックスに進みたいと思います。
クライマックスまで、もう少し…。
◇陰謀の網
それにしても、「桶狭間の戦い」ような「大陰謀」は、戦国時代だけのお話しではありません。
現代のさまざまな分野でも、しっかり起きているお話しです。
うかうかしていると、「陰謀網(いんぼうあみ)」に巻きとられ、「貧乏神(びんぼうがみ)」に取りつかれてしまうかもしれません。
人間関係をさかのぼって、しっかり見直してみる…、これは現代でも大切な作業かもしれません。
知らないうちに、誰かから恨みを買ったりしていませんか…?
あなたのすぐ近くに、網は張られていませんか…?
* * *
次回コラムも、陰謀まみれの恐怖のライバル抗争劇のことを書きます。
コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」につづく。
(追伸)
このコラムを読んでくれている小学生のみんな…、「陰謀」のことを知るには、しっかりとした「正義感」をいっしょに学ばないと、自分自身が「陰謀」の餌食(えじき)になってしまいます。
「陰謀」だけでは、決して生き残っていけませんし、「幸せ」とはほど遠い「暗い」人生となります。
いろいろなことを、同時に、学んでいってくださいね。
2020.7.30 天乃みそ汁
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