雑賀崎灯台へと進む道はぐねぐねですが、大きな車でも決して困るほどの道ではありません。灯台まであと200mくらいかな、というところで右に曲がる道があり、その道の先に「番所庭園」が開園しています。

 

 

有料の庭園ですが、駐車場も完備していますし、何より庭園自体がとても美しく整備されていますので、せっかくですから入場料を払ってぜひお立ち寄り頂ければと思います。元番所台場は、そんな番所庭園の中にありました。

 


元番所という名は、もともとここに和歌山藩の遠見番所があったことがその名の由来です。和歌山藩の藩領は海岸線が長いことから、十数ヶ所の遠見番所が設けられていたといいます。その遠見番所が別の場所に移転したことから、「元番所」と呼ばれるようになったところに設けられた台場が元番所台場です。台場をこしらえたのは和歌山藩。和歌山藩がいくつの台場を設けていたのかといいますと、これが実に53を数えるのだとか。何しろ和歌山藩領は海岸線が長いので・・・と言っても、53ヶ所はさすがに多すぎでは?という気がしなくもないのですが、幕末に将軍(徳川家茂)を輩出している雄藩としては、何が何でも国防の最前線に立っている必要があったということなのでしょう。数多くの台場は藩の有力家臣によって持ち場が定められていました。元番所台場を持ち場としていたのは三浦長門守。代々長門守を名乗っていた三浦長門守家で、この時に実際に台場を預かっていたのは長門守家第8代の三浦為質(権五郎)でしょう。三浦長門守家はもともと下総に勢力を保っていた正木氏の出身で、同じ正木氏に連なる徳川家康側室のお万の方(徳川頼宜・頼房の生母)のご縁で紀州藩のお抱えとなり、正木から旧姓の三浦へと名乗りを改めたという、その家です。代々相伝える過程で紀州徳川家から養子に入ったりもしていますので、正しく正木の血統を伝えているのかどうかはよくわからないのですが(まあ紀州徳川家も正木(=お万の方)の血統ですが)、正木家はこんな形で明治まで家を伝えていたんですねえ。しみじみ。

 


元番所台場に由来すると思われる土塁が、番所庭園内に残されています。折からの晴天で、青い空と青い海も存分に堪能することが出来ました。二泊三日に及んだ城三昧の紀州の旅もいよいよ最終章。ここからは歩いて雑賀崎台場に向かいます。