和歌山県美浜町から西に突き出た紀伊日ノ御崎へと向かう途中、いよいよ平地がなくなって山から直接海・・・みたいになるところに本之脇(ほんのわき)城がありました。

 

 

詳細ははっきりしないそうですが、何でも大永2(1522)年頃に阿波の三好氏が海を渡って紀伊に攻め込んできたことがあり、その際に三好氏の配下であった美濃左衛門なる人物が城を築いて守備したとか何とか、そういう話がないでもないようです。全くもって曖昧な言い回しですが、要するによく分からんお城だということです。御坊市の亀山城に本拠を構える室町幕府奉公衆の湯河氏の勢力圏内ですが、三好氏の侵入を許す何かしらの事情があったのでしょうか。やがて三好氏勢力は紀伊から撤退しますので、その後は湯河氏が使っていたという見方もあるようです。

 

 

土塁囲みの主郭の周囲に腰曲輪を設け、尾根に沿って石積みの城壁を擁し、尾根続きを堀切で断ち切るというシンプルな構造で、まあ古いんだろうな、という印象があるお城です。麓に居館と伝わる一帯もあって、そちらにも同じような手法の石積みが見られます。これをワンセットとして、三好氏来攻時の城であるという伝承を真実と捉えれば、美濃左衛門なる人物はある程度長期滞在を覚悟で(つまり実効支配を狙って)湯河氏の勢力圏に楔を打ち込む形でここに拠点を構えたということになりますが、地域を実効支配するにはちょっと辺鄙なところにありますので、紀州への上陸拠点を確保するための場所、くらいのイメージだったのかもしれません。そういう類を「水軍の城」と定義してよいのであれば、本之脇城も水軍の城、ということになるわけですが。

 


本之脇城までの道のりは、非常にしっかりした遊歩道になっています。「西山遊歩道」というハイキングコースで、その登り口のところに本之脇城の案内看板もあります。ただし肝心の現地には標柱ひとつなく、おまけに西山遊歩道が本之脇城よりもかなり右寄りのところを登って行くので、筆者は途中で自信がなくなりいったん引き返しています(笑)。思い直してもう一度登り直してみたら、道はやがて左に大きく曲がって本之脇城へと近づいて行き、やがて尾根筋の切通し(堀切ですな)に出ることになります。目印は二つのベンチ。

 

 

本之脇城を訪ねる際には、「西山遊歩道をひたすら歩いて登って、切通しにある二つのベンチの裏を山に入る」と覚えておいてください。ちなみに居館跡らしき場所は、西山遊歩道に入ってすぐに左側へと入っていく山道があって、そこを入るとすぐに石積みが見えてきますのですぐわかります。

 

 

筆者はここでも「居館の上に本之脇城があるのでは」と思って、無駄に直登してしまいました。直登してもお城も何もありませんので、しっかり遊歩道に戻りましょう。
ベンチの裏から山にがさがさ入っていくと、すぐに目の前に飛び込んでくるのが石積みの城壁。シンプルな割には意外なくらい石を多用しているお城です。回り道して余計な手間をかけたお城でしたが、登ってみる価値はありました。