• 12 Apr
    • 城郭カレンダー(2017年4月)

      さてさて、すっかり遅れてしまいましたが、壁紙カレンダー(城郭編)をば。4月は、桜満開の函館五稜郭(北海道)を用意してみました。五稜郭タワーのガラス越しのせいか、カメラの設定がなんか間違ったのか、なんとなく青い写真になってしまったのは残念ですが、まずもって桜満開の五稜郭、という恵まれた風景に再び巡り合える気がしないので、晴れてカレンダーに採用です。五稜郭は、日本に二つあります。長野県にいくと「日本に二つ 龍岡五稜郭」という案内看板を見ることができます。長野県佐久市にある、龍岡城(田口陣屋)がその正体。このたび、めでたく続日本100名城にも選ばれましたので、こちらの五稜郭も知名度がぐん、と上がることでしょう。個人的には函館五稜郭より龍岡五稜郭の方が小さくて可愛くて好きですね(笑)。

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  • 06 Apr
    • 続日本100名城

      本日4月6日は「城の日」ということで、めでたく「続日本100名城」なるものが発表されました。日本城郭協会で半年ほど前?から準備が進んでいたようです。ちょうど選定が始まる直前に「日本100名城」をクリアしていた関係で、この選定のためのアンケート(30城を推薦できる)にも参加出来たので、喜んで選ばせて頂きました。推薦した30城の中で、続日本100名城に入ったのは24城。うーん。まあ、当選率としてはまずまずですかね。続日本100名城に選ばれたお城で、行ったことがあるお城は77城。まずまず行けてるとも言えますし、案外まだまだとも言えます。近々この100城にもスタンプが設置されるようですから、また1からスタンプ押しに行くことになるのでしょう。ところで、このGWに行くことを予定しているお城の中に、続日本100名城が4城も含まれていました。まだスタンプが出来ていないので、訪ねる前から2度訪ねることが確定してしまったような感じです(笑)。

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  • 28 Feb
    • 城郭カレンダー(2017年3月)

      さて、城郭カレンダー(3月編)をば。3月は姫路城(兵庫県)です。姫路城についてはいまさらぐだぐだと能書きを並べ立てるまでもないと思いますので割愛で(笑)。平成の大修理で大天守が真っ白くなり、「白すぎ城」との別称まで生まれる騒ぎになりましたが、こうしてみると少し落ち着いてきたな、という感じがします。

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  • 01 Feb
    • 城郭カレンダー(2017年2月)

      2月の壁紙カレンダー(城郭編)も掲載しておきます。2月は菅谷館(埼玉県)です。毎年1枚か2枚は建物のないお城を選んでいるのですが、今年はこんなお城になりました。菅谷館、建物なんかなくても堂々たる国の史跡です。菅谷館の歴史は古く、鎌倉時代はじめに畠山重忠が居住した館が前身であると言われています。その伝承自体が正確なものであるとの確証は未だ得られず、今に伝わる広大な遺構もどう見ても戦国時代のものなのですが、これだけのお城が誰によってどう使われたのかも定かではありません。そこにお城はあるのに、その歴史がわからない。そんなところに想像力を膨らませる余地があって、知的好奇心を存分に満たす楽しみが生まれるのだと思います。

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  • 04 Jan
    • 城郭カレンダー(2017年1月)

      こちらでの更新がちょっと途絶えてしまっていましたが、2017年最初の投稿として、城郭カレンダー(1月編)をアップします。1月のカレンダー(城郭編)は、白河小峰城(福島県)です。綺麗な御三階櫓ですね~。平成のはじめ、文化財保護法や建築基準法の網をかいくぐって木造3階建ての復元建築を建ててしまいました。いろんな点で法律すれすれだったそうですが、結果的にこの復元がその後の木造天守復興の流れを作ることとなりました。先の大震災で石垣のあちこちががらがらと崩れ落ちました。あれから5年。未だ復興は途上ですが、今年の夏に訪ねたところでは、着実に昔日の姿を取り戻しつつありました。城郭カレンダー、2012年から毎年作成しているのですが、ブログでは掲載したりしなかったり(笑)。これではいかんと反省し、今年からは毎月しっかりアップしようと思います。

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  • 31 Oct
    • 【城を撮る】城のある町で。

      丸亀城(香川県)です。さだまさしさんが「城のある町」という歌の舞台として下さったお城で、今でも丸亀城の売店では「城のある町」がエンドレスで流れています(笑)。"城のある町で 生まれたから悲しいときこそ 坂道のぼれ二の丸越しに 明日が見える石垣の向こうに すぐ春が来る"丸亀城を眼前にしなければ決して生まれないであろう歌詞が、心に染みます。月菜汁や讃岐富士など、ご当地ならではの題材もふんだんに織り込んだ名曲ですね。さて、私が訪ねた時の丸亀城は、観光客もわっさか訪れていましたが、それよりも目立ったのは親子連れや親子孫連れの家族の姿。きっと丸亀にお住まいの皆様にとっては、それこそ高石垣のように、お城とともに数々の大切な思い出が積み上げられてゆくのでしょう。大手門の前でのんびりとお堀を眺めるご家族を見ながら、他のどのお城よりものどかな気分を味わったのでした。

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  • 02 Oct
    • 【城を攻める】御着城(兵庫県)

      初めて姫路を訪ねたのは、大阪から山陽本線を使ってのことだったと思います。「御着」という名の駅に反応しないでもありませんでしたが、小学生時代の私には「なんにもない」お城になってしまった御着城の歴史的価値を見出すことができなかったのでしょう。そのまま通過して、宿泊地でもある姫路駅へと向かったのでした。とはいえ、当時も今もお城に対する意識が大きく変わっているわけではないので、御着城を訪ねる気になったのはやはり「官兵衛さん」の存在が大きかったのでしょう。2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で片岡鶴太郎さん演じる小寺政職は秀逸でした。実在の政職の鼻が赤かったのかどうかは存じませんが、ぼんやりしていた政職のイメージがあれで相当クリアになったのは事実です。「ここは思案のしどころよの~」という決め台詞もなかなか。さて、現在の御着城は、公民館と城址公園となって、その本丸域が一応保存されています。私が御着を「通過」したのは昭和54(1979)年の夏だったと記憶していますが、実はこの頃御着城の発掘調査はあらかた終わっていて、碁石等の生活用品が出土していたようです。あの時訪ねていれば、生々しい発掘現場をこの目に焼き付けることができていたのかも。御着城は、小寺官兵衛(後の黒田孝高(如水))を見出した小寺氏の本城でした。発掘調査の結果からはさらに古い時代の武家館らしきものの存在が窺えるようですが、歴史的にはっきり辿れるところとしては小寺政職の祖父・政隆が永正16(1519)年に築いたのが始まりということになるようです。そうだとすれば御着城は小寺氏三代・50年余に亘る歴史を有していたことになります。現在は平たい場所にも見えますが、一応ここは小丘になっていて、小丘の頂部に造られた主郭を中心に複数の郭からなる、そこそこ大きな城郭だったようです。英賀城、三木城と並んで「播磨三大城郭」と称されていたこともあったようですし。御着城は、官兵衛を見捨てて毛利方に走った小寺政職が天正5(1575)年に城を追われたことでその役割を終えます。それからおよそ200年後の宝暦年間に描かれた図面によれば本丸には内堀が巡らされ、二の丸の外側には三重の堀があったことがわかるのだとか。確かにそれは大城郭の風情ですね。

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  • 28 Sep
    • 【城を撮る】地蔵の道

      釧路市にある、チャランケチャシ(国史跡)。 GW前半の函館は桜が満開でしたが、GW後半の釧路は冷たい嵐。 まー寒かったこと寒かったこと。辛うじて雪じゃないのが幸いですかね。 正面奥にチャシの堀が見えています。 浅いなあ・・と思ったのですが、後から思えばここの堀が一番深かったかも(笑)。 チャシの領域に入る直前のところに、結界でも張るかのようにお地蔵さんが立っていました。 六地蔵ではなく、五地蔵さんですね。 いかにも六地蔵がありそうな場所なので、一体はどこかにお散歩に行っているのかも。

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  • 21 Sep
    • 【城を撮る】どーん

      <どーん>志苔館(北海道)の土塁です。それにしてもなかなか見られませんね。これだけどっしりと囲んだ土塁は。 地形を利用したものではなく、単純に本当に積み上げて作られた土塁としては、指折り数える規模ではないのかな、と。 五稜郭や戸切地陣屋と違い(たまたまかもしれませんが)訪れる人が誰もいなかったことも、このお城に限ってはプラスに働いたようで。 なんですかね。これだけの場所を独り占めしている優越感みたいな感じ。 <函館山に光が>志苔館から見た函館山です。傾きかけた太陽が、ちょうど函館山の方に向かって動き始めたところ。光の塊が、函館山を目指して進んでいるように見えました。<まさしくこれは古代遺跡>志苔館は決して古代の遺跡ではないのですが、こうしてみると純粋な古代遺跡みたいにみえてきます。美しい遺跡ですね~。こんなんが空港のそばにあるんですから、函館って素敵です(笑)。

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  • 13 Sep
    • 【城を攻める】南部藩砂原陣屋(北海道)

      函館界隈でお城巡りしようとすると、五稜郭から勝山館、松前城までのエリアにどうしても視線が集まってしまうので、噴火湾に面した砂原(さわら)陣屋まで足を運ぶのはなかなか大変。現地に立つとご覧の通りの一重の土塁が巡るだけの陣屋なので、この土塁に価値を見出すことができる方だけが訪ねることになると思うのですが(笑)、私は行く価値あり、と思いました。正式名称は南部藩砂原陣屋といい、盛岡南部藩が北方警備のために築いた陣所です。その歴史的意義が認められ、国史跡にも指定されています。

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  • 03 Sep
    • 【城を撮る】跳ね出しの石垣と桜を愛でる

      五稜郭(北海道)の、一番立派な側の石垣です。今さら桜でもないのですが、掲載準備の都合とかいろいろあるんです。これでも(汗)。高さもありますし、きちんと跳ね出しの石垣も作られていますよね。裏側に行くと安っぽい地方の近世城郭みたいな低くて雑な石垣になってしまうのですがw 桜との競演ですが、はてさてお城の皆様は、桜に目が行くのか跳ね出しの石垣に目が行くのか・・(笑)五稜郭タワーにも登ってきました。桜、満開でした。函館奉行所のあたりも桜、満開。

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  • 20 Aug
    • 【城を撮る】絶望的に孤立した城

      比石館(北海道)です。何しろ、ものすごいところに立っています。車一台通れる道になっていますが、その両脇は断崖絶壁。果たして車の重量に今でも耐えられるのかどうか(笑)。お城はその道(一応、土橋状とでも言えばよいんですかね)の先、海に突き出した岬がどうやら主郭らしいのですが、その周囲もこれまた断崖絶壁。これでは孤立しすぎて、攻め落とても貰えないのではないかと(笑)。このお城の歴史はまだ調べてもいません。上ノ国勝山館から松前城に向かう途中の道路沿いに、傾きかけた「比石館」の碑を見つけ、急ブレーキをかけて立ち寄っただけですので。でもこういうお城にばったりと出くわすことも、ぶらぶら散策のよいところですよね。

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  • 14 Aug
    • 【城を攻める】若山城(山口県)

      日程が限られる遠征で山城を訪ねる際には、なるべく車で登れるお城を選ぶようにしています(笑)。若山城はそういう意味では理想的なお城で(笑)、国道2号線からの標識も完備していて、まず迷うことはないでしょう。地元の方の若山城への愛情も並々ならぬものがあり、陶晴賢を敬愛することにかけても一方ならぬものを感じます。若山城の見どころは畝状竪堀である・・・との認識だったので、主郭の北側斜面をじーっと眺めて、主郭まで行ったところでなんとなく満足してしまい、そのまま下山してしまいました。後でよくよく調べてみたら、主郭の先の「西の丸」の虎口に石垣があったんですね。見ないで戻ってきてしまいました。あーあ。またやってしまった。若山城のある一帯は都濃郡富田保と呼ばれ、武家勃興の時代から一貫して陶氏の管理下に置かれた土地です。陶氏は百済の聖明王を祖とする渡来系の一族との言い伝えがある名族で、同族とされる大内氏の有力被官として終始その行動を共にしてきました。文明元(1469)年、応仁・文明の乱が地方に派生する形で周防国でも大内政弘と大内教幸(道頓)との守護権争いが勃発します。西軍方として在京していた守護・政弘を出し抜く形で東軍方の8代将軍・足利義政から守護職を任命された教幸が周防でクーデターを起こします。この時の陶氏当主はまだ若年の弘護で、いったんは教幸に服属するのですが、時機を見て叛旗を翻します。若山城が築かれたのはこの頃のことで、教幸の逆襲に備えた築城だったのではないかと推測されています。天文19(1550)年から翌年にかけ、陶晴賢が大内義隆と対立し、義隆を討つという事件が勃発します。個人的には、陶晴賢は決して謀反しようとしたのではなく、乱世をまとめていくには義隆のような放漫型の旧来の守護職ではなく、権力を集中して掌握できるような専制型の君主が必要であると考えた、時代の流れに沿った行動だったのだと思います。それを「謀反」と喧伝し、仇討ちの名目で陶晴賢を討ち、それをテコにせっせと集権化を進めていったのが他ならぬ毛利元就ですから、元就という傑物がいなければ、陶晴賢はきっと世直し大明神。大内氏中興の祖としていつまでもその名声を留めたことでしょう。歴史上の事実としては、陶晴賢は厳島で毛利元就に大敗し、恐らく本人も想像しなかった形であっけなく自害します。残された若山城には晴賢の長子・長房がいましたが、晴賢に遺恨を持つ大内氏家臣・杉重輔に攻められ落城。最終的には毛利元就によって陶氏勢力は一掃され、若山城はその役割を閉じることとなりました。以上の歴史から推測するに、若山城の最終形は毛利元就が大内義長を討って防長二国を制圧した弘治3(1557)年以前のものと考えてよさそうです。現在、若山城には主郭北側の緩斜面を消すための畝状竪堀が存在しますが、こういった防御方法も、16世紀半ばには利用されていたということが言えそうですね。なお、私が見逃した石垣は西の丸に存在しますが、聞くところでは石垣はここだけなので、何らかの意味がある曲輪として西の丸が意識されていたか、たまたま石が沢山あったかのどちらかでしょう。現在の若山城は、地元の方に本当に大事にされています。登城路も「陶の道」と通称され、数百年に及ぶ陶氏の治世を今も讃えています。

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  • 12 Aug
    • 【城を撮る】館城のて・・・天守。

      館城(北海道)です。松前藩が幕末の土壇場になって本拠地としたお城です。松前城が海に近すぎるということで内陸のこの地が選ばれたそうですが、完成するかしないかのうちに旧幕府軍の来襲を受け、藩兵は四散したのだとか。現在の館城とその周辺ののどかさからは想像もつかない、壮絶な戦いがここで繰り広げられたもののようです。まな板を盾にして奮戦した三上超順なる英傑も、ここで名を残しています。それはそれとして。どーん。この「天守」は何なんでしょうね。天守というつもりも(作った人にも)ないでしょうから、オブジェとでも呼べばよいのでしょうか。うーん。見れば見るほど面妖な建物ではありますが、館城は幕末のきわきわに作られた新しいお城なので、背後の山には塹壕が残っていたりします。このお城の見どころはむしろそっちなのでしょう。

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  • 07 Aug
    • 【城を攻める】南会津

      南会津の気になる名城2城(鴫山城、久川城)を、日帰りで回ってきました。2012年のGWで日帰り福島を敢行した際、夜中になってしまって回り切れなかった二城です。もののついでで、白河小峰城と白川城にも立ち寄り、白河ラーメンも食べてきました♪南会津は福島県なので理屈上は東北なのですが、栃木県の隣なので(当たり前か)案外近いのです。会津のついでに南会津、と考えると遠いですが、下野から足を伸ばして南会津と考えれば十分日帰りできる距離です。実際この日も、ほぼすべての道の駅に立ち寄りながら、のんびりとドライブしてきました。<白河小峰城>東日本大震災で多大な被害を被った白河小峰城ですが、最も大きく崩れた石垣はほぼ元の通りに積みなおされていました。名物の「鷹の目」もご覧の通り、見事な復元ぶりです。鴫山城も久川城も整備状況は素晴らしく、真夏だというのにほとんど薮もなく楽に見学できました。<鴫山城>ただ、久川城名物の「山の下の枡形」だけは、どういうわけだか草ぼうぼうで立ち入る隙もない状況でした。あと・・・これは全く私の事情でしかないのですが、久川城は「キノコの王国」と化していました(ひー)<久川城>写真の下の方に、既にキノコが沢山写っているのですが、この写真を撮った時点では全く気づいておらず、撮り終えて一歩前に踏み出した瞬間、飛び上がって悲鳴を上げてしまいました(><)いやいや真夏だと思って、すっかり油断しておりました。あーいやな汗かいた(笑)。

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  • 31 Jul
    • 【城を攻める】松平城山城(愛知県)

      松平界隈のお城を巡るミニツアーで松平氏館を眺めた後、近隣の国史跡・松平城をそのまま目指すのかと思いきや、「松平城山城に行きます」と。ほほう。ひねってきましたね。通好みですね(笑)。「歌石園地」という公園の駐車場に車を停めると、綺麗な遊歩道がお城までついています。とことこと山を登っていくと、やがて巨石がごろごろしているエリアに。「ここはまだ城内ではないみたいなんですが、お城っぽいですよね。岩の門みたいで。」ふむふむ。お城というよりは古代の磐座みたいな感じかも。城域に入ると、不思議な感覚は一層強くなります。普通のお城の主郭に相当する場所に、四角くて浅い堀で囲まれたエリアがあったり。主郭の反対側に回ると急に石垣やら土橋やら、いかにもお城っぽい構造がごろごろ出てきたり。こちら側を大手と考えればよいのでしょうけれども、それにしても一方向だけを「見せる」作りにしているのはなんでなのやら。聞くところによれば、このお城の使用年代や使用者はよくわからず、隠れた名城になっているとのこと。そもそもお城の名前がないんですね。ただ地元で「城山」と伝えられてきたから、松平にある城山で「松平城山城」。余談ですが、「城をやる」サイトに掲載するとき、当初は「豊田城山城(とよだしろやまじょう)」で登録しようと思っていたのですが、いろいろ調べてみると「松平城山城(まつだいらじょうやまじょう)」の方がしっくりくるらしく。これほどまでに城名が曖昧なお城も珍しいかも。松平城山城のの歴史は判然としません。滑稽なのは別名の「大田城」にかこつけて太田道灌築城説なんていうのもあるのだそうで。道灌さん、こんなところまで遠征しているんですね(あり得ませんから)。少しまじめなところでは、松平氏3代目の松平信光が改修し、子息の光親が在住したという話。ただこのお城の最終形は、大手側に構築された石垣作りの虎口とその外側の各馬出、馬出と虎口を結ぶ、石垣で固められた土橋といったこのお城の見どころが詰まったあたりにあると思われ、それはどう見ても戦国時代の終わり、16世紀の構築物であろうと思うのです。考えられるところとしては、最盛期の武田氏が三河に侵攻した際に、武田か徳川かどちらかがせっせとお城を改修した可能性。してみると、松平氏のお膝元で家康の時代には盤石だったと思える松平郷界隈も、武田の脅威に晒されていたということでしょうか。武田恐るべし、です。

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  • 29 Jul
    • 【城を撮る】ほんの少し、石垣が覗いている。

      松井田城(群馬県)です。大手口のところに、ほんの少しだけ石垣が覗いています。他のところには目立って石垣が使われた場所もなさそうなので、この石垣はかなり象徴的な意味を持つ(権威を示している?)ものなのかもしれません。松井田城は、小田原の役の際に大道寺正繁が守っていましたが、豊臣軍の中山道部隊(前田、上杉、真田)に早々に降伏します。以後、松井田城が使われることはなかったはずなので、最終形は間違いなく後北条氏なはずですが・・・・・・それにしてはあまり後北条っぽさがないお城ですね。もちろん後北条のお城が全て画一的である必要性もないわけですが、松井田城に関してはむしろ早い段階で高い完成度を示したからか、はたまた大道寺氏に対して絶大な信頼感を抱いていたかその逆か、いずれにしてもあまり大々的な修築は図られなかったように感じられます。そうして見てきてあらためてこの石垣を見てみると、ここだけはなんだかとんでもなく先進的な香りがします。本格的な発掘がなされたこともなさそうなので、松井田城の最終形がどんな形で地中に眠っているのかもよくわかりませんが、案外興味津々なところではあります。

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  • 24 Jul
    • 【城を攻める】則定陣屋、椎城(愛知県)

      則定鈴木氏のお城です。鈴木氏はもともとこの地を領していた土豪で、戦国時代は背後の椎城を本拠としていましたが、則定陣屋の場所も居館として使用していたのかもしれません。時の当主鈴木重次は小田原の役の後にいったん関東に移りますが、関ヶ原の戦いの後、則定500石(後に1000石)の旗本として則定に戻ってきます。その際に作られたのが則定陣屋で、則定陣屋は以後明治まで旗本鈴木氏の陣屋として存続することになります。則定陣屋の正門通路脇の石垣鈴木氏で有名なのは鈴木重成です。島原の乱の後、天草代官として彼の地に赴任し、領内の実情をくまなく調べ、年貢徴収の基となる石高の半減を幕府に進言した人物です。一説には石高の半減と引き換えに自刃したとも言われており、いずれにしても天草に平和と安穏をもたらした人物として、天草でも広く慕われている人物です。重成は旗本鈴木氏初代の重次からみれば孫にあたる人物ですが、鈴木氏はどうやら代々勤勉で実直な人柄だったようですね。さて、椎城は則定陣屋を築く前、鈴木氏が本拠としていたお城と思われます。麓の心月院が平時の居館で、椎城がいわゆる詰めの城ということで間違いなさそうで、実際、椎城の主郭近辺には庭園跡のような「平時の居館」を示す遺構も見当たりません。椎城は、三河における土豪クラスの城郭の典型として捉えることが可能なお城でしょう。則定陣屋の裏山が椎城です。則定小学校の裏手の山をそのまま登るとまず熊野神社に至り、「心月院跡」という石壇が出てきます。熊野神社その奥の小さな橋を渡ったところから左折し一気に直登する感じで登ると、そのまま堀切のところに出ます。堀切の左側に階段が作られていて、そこからがいよいよ椎城ということになります。全体が山林になっていますが、椎城の基本構造はよく残されています。特に、お城の中心部を巡り、恐らくは城道として機能していたであろう帯曲輪がよく残り、主郭までの導入路がどう巡っていたかといったあたりを考察しながら歩くにはもってこいです。驚いたのは三郭と呼ばれる曲輪の下方の構造で、小さな尾根を堀切で断ち切った結果、「銃座」のような空間が形成されていたことです。銃座といえば丸子城のそれをすぐ想像してしまうのですが、このお城には武田方の手が入るはずもなく、徳川家康のお膝元であるが故に丸子城が活躍した時代にはこの地域で戦闘が起きるはずもなく。ここは当初の見立て通り、「小さな尾根を断ち切った結果、銃座のような地形が残った」ものと解釈することにしました。でも気になるなあ、あの地形。気になる地形ちなみにこちらが丸子城(静岡県)の"銃座"

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  • 21 Jul
    • 【城を攻める】伊奈城(愛知県)

      若かりし頃、出張で東海道新幹線に乗る度に、気になる風景がありました。東京から新大阪方面に向かう新幹線で、豊橋駅を過ぎたあたりの向かって左側。田んぼの中に取り残されたような土塁と、土留めの石垣のようなもの。それはお城というよりも的場か何かのように見えたのですが、いずれにしても田んぼの中に土塁が突き出しているのが妙に気がかりで、「あれはもしかしたらお城だったんじゃないかなあ」と、通る度に思ったものでした。いつの頃からか私自身がその土塁を見つけ出すことができなくなったので、「ああ、あの土塁はきっと田んぼに吸収されてしまったんだ」と勝手に納得していました。ある年の秋、松平方面のお城を見学する機会に恵まれて、豊橋駅からレンタカーに乗って豊川あたりを走っていたところ、「伊奈城」の看板が目に入り、ぶらっと立ち寄りました。立ち寄って見た瞬間、私は悟りました。「若かりし頃に見たあの土塁はなくなったのではなく、公園として整備されたので新幹線から見えにくくなっていただけなのだ」と。若い頃からの疑問がひとつ解決し、ものすごくすっきりしました。伊奈城は、伊奈本多氏のお城です。徳川譜代として江戸時代に大名を輩出する本多氏は平八郎忠勝の家系とか弥八郎正信の家系とか、少なくとも6家ほど存在するのですが、伊奈本多氏もその中の一族です。15世紀半ばには伊奈に城郭を構えて本拠地とし、天正18年(1590)年に徳川家康が関東に移封された際に伊奈城を離れて下総国・小篠の地に移るまで、およそ100年以上も在住していました。なお、伊奈本多氏はその後、膳所藩主として明治を迎えます。お城は典型的な方形の武家館を基調としながら、周囲に郭を広げていったもののようです。公園化に先だって発掘調査が行われ、現在残る土塁の周囲から堀が検出され、堀底からは逆茂木も発見されました。公園内の池には模擬の逆茂木が沈められています(泥が積もっていてよく見えない時期もあるようですが)。現在、お城は伊奈城址公園として整備され、模擬の物見櫓も立てられています。駐車場、トイレ完備。近隣の国道23号線にも大きな看板が出ていますので、およそ迷うことはないと思います。

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  • 18 Jul
    • 【城を撮る】山里に桜咲く

      国峰城(群馬県)の山麓で見た、桜です。桜の木のたもとには、戦国山城では珍しい総堀(総構)の遺構が残っています。国峰城は奥の山の中なのでかなりな距離がありますが、この田んぼを左右に一直線に堀り切り、外敵を遮断していたのだとか。小田原の役の際には比較的あっさり降伏落城してしまう国峰城ですが、守りは実に堅いお城だったのだと思います。

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プロフィール

おぎ

性別:
男性
自己紹介:
9歳の時に城に目覚め、以来長いこと城をやっています。

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