関ヶ原は関ヶ原の戦いが行われた場所として名高いわけですが、関ヶ原という地名は古代に設置された不破関に由来するものです。不破関は壬申の乱を契機に設置された関であり、壬申の乱と言えば天智天皇の子・大友皇子(近江朝)と天智天皇の弟・大海人皇子とが争ったものであり、勝った方が天皇になるという文字通りの「天下分け目の戦い」でした。勝った大海人皇子は天武天皇となりますが、実は大友皇子も即位していた(弘文天皇という名が与えられたのは明治になってからだそうですが)との説もあり、建前上は大友皇子が正規軍、大海人皇子が反乱軍です。反乱軍が正規軍に勝ったという日本史上稀に見る戦いが壬申の乱だったということですね。蘇我氏討滅のクーデターによって幕を開けた大化の改新は天智天皇に始まり、天武天皇によって概ね完成されたとされますが、その過程では急進的な「革命」に対抗する勢力が必ず台頭します。フランス革命における「アンシャンレジーム」みたいな揺り戻しの動きが大化の改新にもあって、畿内の外にある近江に都を持っていかれた守旧派が大海人皇子と結託して飛鳥に都を戻し、天武天皇となった大海人皇子はそんな守旧派の要望を上手に取り込みながら、一方で天智天皇がやり遂げようとした中央集権国家の成立に邁進していきます。大化の改新によって日本には法令(律令)が整備され、面積を均一にした耕地(口分田)が整理され、口分田を基礎とした租税制度が確立されました。7世紀から8世紀にかけて行われたこの画期的な政治改革の成果である口分田の痕跡が、今も全国各地の田畑に残されていることは、筆者にとって衝撃以外の何者でもありません。天武天皇は、間違いなく今の日本を作った一人だったと思います。実は筆者が子供の頃、筆者が生まれた場所は「原の坪」という字名であり、これまた口分田に由来するものでした。家の周囲にも口分田の地割を残す田んぼがあったのですが、かれこれ40年くらい前には消滅して宅地と化しました。今も日本各地で古代の痕跡が失われていることでしょう。どうにもならないことですが、果たして今の開発が将来の日本に資するものなのだろうかと思うと、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。あ、話がすっ飛びました。

 


壬申の乱の際に兵力の集結を待っていた大海人皇子が陣取っていたのが関ヶ原の東側。桃配山という山の名前は大海人皇子が兵士たちに桃を配った故事によるとされ、故事にあやかった徳川家康も桃配山に最初の陣を敷きました。家康には「我こそが大海人皇子の後継者たらん」とする思いがあったことでしょうし、徳川270年の歴史に鑑みれば、家康は十分に大海人皇子の後継者足り得ているのだろうと思います。
さて不破関。大海人皇子は不破を塞ぐことによる軍事的有効性を肌で感じたようです。戦後、三重県の鈴鹿関、福井県の愛発(あらち)関とともに不破関は「三関」として整備され、8世紀の終わりまで維持管理が続けられました。関所廃止後も、天皇の代替わりの際に三関の警固を厳重にしたことに由来する固関(こげん)の儀式が行われたといい、記録上は江戸時代の光格天皇の譲位の際にも行われたのだそうです。光格天皇の譲位は文化14(1817)年のこと。だったら「次の譲位」の実例となった平成31(2019)年の譲位の際にもやれがよかったのにと思わないでもありませんでしたが、天皇が京都にいないので三関を守る意味がないのか・・・とか、いろんなことをもやもやと考えてしまいました。

 


鈴鹿関、愛発関を見ていないので比較ができないのですが、不破関は広大なエリアを土塁によって封鎖していたようです。関の中心地は旧中山道上にありますが、周辺には門跡の伝承地や土塁なども点在しています。驚くべきは宇喜多秀家陣のある南天満山の麓で見つかった土塁で、かつては宇喜多陣関連のものと推測されていたものが、発掘してみるとどうやら不破関のものだったらしいということがわかってきたとか。

 

宇喜多秀家陣のある南天満山に残る不破関の土塁

 

不破関の中心地から500m以上も離れた場所に、7世紀の土塁が明瞭に残っているというのは驚きでしょう。古代山城と同時期の遺構が平地に残っているわけですから、とてつもなく貴重なものだと思います。それにしても機能していた時代の不破関って、どんな全体像だったのでしょう。それこそむしろ古代山城のような姿を想像した方がよいのかもしれません。

 

関の西側を流れる藤古川に架かる橋

(前方の丘上に不破関資料館が見える)


ところで、不破関は何を守っているのでしょう。鈴鹿、愛発との位置関係から見ても、畿内側を守るための関であったことに疑いはありません。でも不破関の西側を流れる藤古川は深い堀のようになっていて、東から見るとこれが関の背後にあたります。つまり不破関は「背水の陣」になってしまっているわけですね。なんでかなあと思って考えてみたら、そもそも不破関は美濃にいた大海人皇子が近江の大友皇子軍を防ぐために道路を閉塞したのが始まりなので、その「吉事」に則って「西に向けて」設けられたものなのかもしれない、ということに思い至りました。およそ100年でその機能を停止することとなったのも、その目的(東からの外敵を防ぐ)と実態(西に向かって守りを固めている)との矛盾が整理できなくなったことが一因なのではないでしょうか。考えれば考えるほど、面白そうな関所です。現地には不破関資料館があって、不破関で検出された出土物等も展示されています。関ヶ原にお越しの際には、「もうひとつの天下分け目の戦い」であった壬申の乱にも心を向けてみませんか。