一宮市木曽川町にある黒田城に向かう途中で、気になる石碑を見つけました。「なんとや屋敷」と読めたその石碑が気になって、車をUターンさせて確認したところ、「澤井氏屋敷」とのことでした。これから訪ねようとする黒田城の主でもあった澤井氏の屋敷跡であることを理解し、あとはあとで調べればよいか、と割り切って、黒田城へとそのまま車を進めました・・・で、今、調べているわけですが(笑)。

 

 

澤井氏はもともと尾張守護斯波氏の被官でしたが守護代の織田氏と反りが合わず、澤井元政の代には美濃に移って土岐氏に仕えていた時期があるようです。その後、織田信秀に請われて尾張に戻り、元政の息子の雄重(政長、吉長とも)の代になって織田信長のもとで活躍し、織田信雄(当時は北畠茶筅丸)の養育係を務めたそうです。雄重の「雄」は信雄から貰ったんでしょうね。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の調略に応じず黒田城を死守します。さらっと言ってますが黒田城の立地を考えると、想定される戦線から黒田城はかなり羽柴方に突出しているように見えますので、黒田城を死守するというのは相当なことだったと思いますが、ともかくも澤井雄重はそれをやってのけます。当然、信雄の覚えはめでたくなるわけですが、肝心の信雄が尾張を取り上げられてしまいますので、雄重はいったん浪人します。その後は豊臣秀吉から禄を貰ったとの話もあるようですが、尾張に入った福島正則に仕えたというのが正解でしょう。福島正則が広島に移った後も尾張に残って松平忠吉に仕え、子孫は尾張藩の家老職となって3,000石の禄を得ていたそうです。でっかいですね。大身旗本級です。地元をよく知る有力者としての澤井氏の価値は相当に高かったのでしょう。また澤井氏もそんな自身の価値をよく知って、地元を離れず「地元の名士」的な存在を保つことを選択したのでしょう。廃藩置県後、澤井氏は黒田に戻り、黒田村長を務めていたそうですから、まさに地元の名士ですよね。


そんな澤井氏の屋敷があった場所は、現在ではさっぱりわかりませんが昔は周囲より若干高かったようで、字も「黒田山」となっています。尾張藩家老となってからの澤井氏の黒田領は「飛び地」だったといいますから、飛び地として拝領しなければならない先祖伝来の土地がここにあったということなのでしょう。そしてそこにあった屋敷こそ、澤井氏屋敷なのだと理解しました。最後まで澤井氏屋敷がいつからいつまで存続していたのかという肝心なことがわからずじまいだったのですが(汗)。