熱田神宮の歴史を知る
歴史背景を理解する意味でまとめてみました
読んでいると、時代により熱田神宮の存在がとてもおもしろい
参道に熱田神宮の歴史が掲示されている
読む時間が十分ないので、小冊子にして欲しかった
写真に撮っておいたので後でまとめた
熱田神宮1900年の歴史
熱田神宮は「草薙神剣」を祀ってより1900年
「スサノウノミコト」が出雲国において「ヤマタノオロチ」を退治し、
その尻尾より出現した剣を天照大御神に献上された
*ちなみに天照大御神を祀る伊勢神宮は2000年以上の歴史
主神は「熱田大神」
神話に登場する神々
「宮簀媛尊(みやすひめのみこと)」は日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃
「建稲種命(たけいなだねのみこと)」は、古墳時代の豪族・尾張国造の一人
「古事記」では「建伊那陀宿邇」と記されている
ここでも「伊那」という文字が登場する
1.草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の誕生
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東国平定の命を受け征討に向かう
尊は神剣で「草を薙ぎ倒し賊を滅ぼした」ことから「草薙神剣」と称するようになった
*神剣の名前の由来が理解できた
2.ご鎮座
日本武尊は伊吹山の賊を平定せよとの天皇の命を受け「草薙神剣」を妃の「宮簀媛尊(みやすひめのみこと)」のもとに留め置かれた
尊は伊吹山で病に倒れ後に亡くなられた
宮簀媛尊は託された草薙神剣を「尾張氏一族」の祭場としていた熱田にお祀りした
これが「熱田神宮」の始まり 113年のことです
*なぜ熱田の地に神剣があるのか理解できた
3.弥生時代から古墳時代のころ
熱田神宮には弥生時代の「高蔵遺跡」や「熱田神宮境内遺跡」がある
日本武尊は白い鳥になって舞い降りたという「白鳥古墳」
妃の宮簀媛尊の墓と言われている「断夫山古墳」もある
当神社ではこの二つの古墳を御陵として祀り、毎年5月8日には「御陵墓祭」を行っている
*弥生時代からの祭事を引き継ぐのは大変なことだと思う
4.飛鳥時代のころ
668年(天智天皇7年)、外国の賊徒が「草薙神剣」を境外に持ち出そうとする事件が起きた
それ以後、神剣は一時宮中に留め置かれたが、686年に熱田に戻された
5月4日の夜、神剣が戻ったことを喜び「おほほほ………」と笑う「酔笑人神事」が行われる
翌5日は、都に向かって皇室や国家の平安をお祈りする「神輿渡御神事」が行われている
*時代は「大化の改新」の後で「物部氏」の時代
5.平安時代前期
845年、第54代「仁明天皇」の御前で、113歳の「尾張浜主」が自作の「和風長寿楽」を舞った
現在も5月1日、神楽殿前に舞台を組み、平安時代さらがらに「舞楽神事」が催される
*5月の熱田神宮では神事が数多くある
113年は日本武尊が亡くなった年 113歳というのは本当か?
6.平安時代後期 院政期のころ
1179年、太政大臣「藤原師長(ふじわらもろなが)」は「平清盛」により都を追われ尾張に来ました
1192年は「源頼朝」が初代征夷大将軍に任命され「鎌倉幕府」を開いた年
琵琶の名手であった師長は帰郷を願って熱田神宮の神前で琵琶を演奏した
師長は罪を許され都に帰る時に愛器「白菊」の琵琶を糖神宮に奉納した
*藤原氏の危機であったがその後復権
7.武家政権のころ
武士が台頭するころ、当神官の大宮司「藤原季範(ふじわらすえのり)」の娘(由良御前)が「源義朝(みなもとのよしとも)」に嫁ぎました
その子供が征夷大将軍となった「源頼朝(みなもとのよりとも)」です
鎌倉に武家政権の幕府を開いた後、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請(かんじょう)した
牛若丸(源義経(みなもとのよしつね))が「奥州藤原氏」のもとに向かう時、大宮司を「烏帽子親(えぼうしおや)」として元服したと伝えられている
*熱田神宮と源氏の繋がりがよくわかった
それにしてもまたもや「藤原氏」が登場
伊勢神宮の大宮司も藤原氏(四摂家の鷹司氏など)の流れを汲んでいると言われている
8.南北朝のころ
熱田大宮司は、第96代「後醍醐天皇」の武官として使えその勢力を伸ばした
関東と近畿を結ぶ海路の要路も押さえた
後醍醐天皇の皇子「宗良親王」の終わりから伊勢への通行も手助けしている
「足利尊氏」は先祖が熱田大宮司家に繋がるという縁と、神剣を祀る社から、1335年、
権宮司田島氏に戦勝祈願を依頼している
*後醍醐天皇の皇子「宗良親王」の墓は伊那市長谷にある
後に紹介する
後醍醐天皇の皇子「宗良親王」の記述
9.蓬菜(ほうらい)伝説
東の海に「蓬莱島」あり
不老不死の仙薬があると中国では伝えられている
1412年、奉納された鏡や蒔絵(まきえ)箱には蓬莱文様が散見できる
熱田大神が中国に渡って「楊貴妃」となったのはあまりにも有名
*それで清水社の湧き水の中にある三角の石が「楊貴妃の石塔の一部」と言われている由縁
10.室町時代 足利将軍
1419年や1458年の遷宮は、将軍足利家から援助を受けて行われた
このころ架けられた石橋が「二十五丁橋」
板石が25枚並べられていることからそう呼ばれている
*意味が分かっていれば石の枚数を数えたのだが
11.安土桃山期(1)織田信長
1560年、「織田信長」は「桶狭間の戦い」に臨み熱田神宮に参拝し戦勝祈願した
見事「今川義元」を倒し勝利した
この戦いには大宮司「千秋季忠(すえただ)」も参戦しています
境内の「信長塀」はそのお礼に寄進されたもの
信長は社殿の荒廃に心を痛め度々造営を命じている
*困った時の神頼みは効果があるのか
叶った時は必ずお礼をすることが重要
私を含めお礼を忘れている
「千秋氏」は藤原氏、尾張氏の流れを汲んでいる
12.安土桃山期(2) 豊臣秀吉
「豊臣秀吉」は、1590年に熱田門前町の発展のために「押売り」「狼藉(ろうぜき)」
「喧嘩口論」の停止
「伝馬役の停止」「売買物の諸役免除」などの禁制を出した
1591年、秀吉の母大政所が参拝し、社殿の造営を命じ、大宮司家へも領地を与えている
1598年、秀吉が病気の時には大宮司は「平貐(へいゆ)祈願」に伏見城まで出向いている
*秀吉は熱田の発展のために貢献した
13.江戸時代(1) 徳川家康
「徳川家康」は幼少の頃、熱田町の「加藤図書助(ずしまのすけ)宅」に織田家の人質として3年ほど幽閉されていたことから熱田には特別な思いがあった
1598年、米500俵を寄進し、1600年には本宮「八剣宮」などの修復造営を命じている
写真の鎮皇門(昭和20年焼失)は「加藤清正」による造営
*1600年は「関ヶ原の戦い」 八剣宮修復はそのお礼か?
14.江戸時代(2)尾張藩主徳川義直
初代藩主「徳川義直」は神道に感心を持ち「神祇宝典」を著しました
*家康をはじめ徳川家の墓は神廟
17.明治維新のころ
1866年の遷宮では、第121代「孝明天皇」は「格別の御社柄」と仰せられ、弁官を遣わせて斎行致しました
1868年6月、第122代「明治天皇」は「王政復古」の奉告に「伊勢神宮」と「熱田神宮」だけに勅使を遣わせた
*廃仏毀釈の時代に向かう
18.明治期 ご改造
1871年、明治政府から「官幣大社」の指定され、1893年「尾張造の社殿」から「神明造」の社殿に改造された
それは三種の神器を奉斎するにふさわしい当神宮の在り方を考え、「伊勢神宮」と同様な社殿とすることを政府に建言
*写真の鳥居の貫は両端が出ていないのは伊勢神宮の「神明鳥居」と同じだ
20.大正期 「日本武尊(やまとたけるのみこと)」1800年祭
「日本武尊(やまとたけるのみこと)」は、当神宮の創祀に深く関わる古代の英雄
古代日本統一に多大な功績を残した
113年に亡くなわれ、2013年に「御鎮座1900年祭」を奉仕致した
*「日本書記」では「日本武尊」、古事記では「倭建命」と表記されている
中国、朝鮮では日本のことを「倭」と呼んでいた
22.平成の遺産
本宮は、耐震の備えも施して万全とし、2009年10月10日に遷座を斎行し、
「草薙神剣」をお祀りするにふさわしいお社として一新した
歴史的人物と熱田神宮の繋がりが理解でき勉強になった
尾張氏、藤原氏が熱田大宮司をつとめ、千秋氏(現千秋季頼氏)はその子孫である
次回は松坂をレポートします