黒井城!!!~その3. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

~黒井城年表~
  • 1335年(建武2)赤松貞範が入殖、築城か
  • 1542年(天文11)赤井才丸、荻野十八人衆の盟主となり、荻野直正を名乗る
  • 1554年(天文23)直正、叔父の荻野秋清を暗殺しナイフ黒井城主となる。悪右衛門を称し城の大改修を行う
  • 1557年(弘治3)直正の兄赤井家清が戦傷により死去。直正、赤井一族の盟主となる
  • 1565年(永禄8)直正、松永久秀の弟・松永長頼を討ち取り、三好勢力を丹波から一掃。多紀郡を除く丹波一円を支配する
  • 1568年(永禄11)直正、上洛を果たした織田信長に降る。同年、将軍に追放された近衛前久の妹を娶る
  • 1570年(永禄13)山名祐豊に攻められた山垣城を救援し、勢いに乗じて竹田城を攻略ナイフする。山名は織田方ゆえこれが火種メラメラとなる
  • 1573年(天正元)足利義昭・武田勝頼と通じる
  • 1576年(天正4)信長の命で明智光秀に黒井城を包囲される。丹波勢を味方につけ、織田軍に大勝ナイフする
  • 1578年(天正6)織田軍、丹波再攻。脇坂安治が降伏勧告しに来るが、これを撥ねつける。同年、直正病没する
  • 1579年、支城を次々落とされたのち、黒井城総攻撃され落城赤ちゃん泣き。光秀、家臣の斉藤利三を氷上郡の代官とする
  • 1582年(天正10)本能寺の変ののち、羽柴秀吉は堀尾吉晴を城主とす
  • 1584年(天正12)小牧・長久手の合戦ナイフ直正末弟・赤井時直は徳川家康に呼応し、黒井城に立て籠り一揆を策動すグラサン

↓本丸眺望_西北
本丸眺望_西北
千丈寺岳。
どれがはてなマークどれか。

↓眺望_西
眺望_西
春日町古河方面。
手前に氷上高校のグラウンド。

↓眺望_南西
眺望_南西
JR福知山線、国道171号線、黒井川などが見える。

↓眺望_南
眺望_南
春日町野村方面。
国道483号線。

↓三等三角点
三等三角点
猪ノ口山。
標高356.8m。

↓本丸南側石積み
本丸南側石積み

↓二の丸北側面
二の丸北側面
北側には石垣は見られない(残っていない?)

↓本丸北側面
本丸北側面
ぐるりの犬走りしっぽフリフリが見えた。

↓眺望_南東
眺望_南東
篠山城方面。
舞鶴若狭自動車道。

↓眺望_東
眺望_東
南丹市方面。

↓太鼓の段へ
太鼓の段へ
石踏の段まで降りてきた。
ここから急坂コースで下山し、途中で太鼓の段に立ち寄る。

太鼓の段へ2
こういう主要コースから少し外れる時こそ、熊の出現に注意すべき注意ではなかろうか。

↓太鼓の段
太鼓の段
幸いクマさんには出会わず。ホッチュー

太鼓の段は伐採されていて、割と広い曲輪だ。

↓コシアブラ
コシアブラ
カバ🦛の首みたいなシワあるやん。

↓三段曲輪(三段目)
三段曲輪(三段目)
下山途中にも、狭いながらも削平された空間が。こんなん案内板にあったっけ・・はてなマーク

↓三段曲輪(一段目)
三段曲輪(一段目)
もう少し下って振り返ると、やっぱり。。

ここは三段曲輪になってるんやね。

↓急坂コースを下る
急坂コースを下る
階段を降りた先は、もう登城口広場。
登り始めにこの段数、心が折れそうガックリやな。

↓桃の木
桃の木
無事下山。
桃🍑の花が満開である。

↓黒井城跡_遠景
黒井城跡_遠景
わずかに山頂の石垣が見える。
手前に武家屋敷風建造物。

↓黒井城跡_遠景2
黒井城跡_遠景2

↓黒井城跡_遠景3
黒井城跡_遠景3
ズームイン。
七号目あたりに、犬踏の段らしき10円禿げも見える。

↓春日局アピール看板
春日局アピール看板
駅前まで戻ってきた。
恐らく大河ドラマの時の駅看板。駅ホームは奥なので、看板ウラ面を再利用しているのか。

「春日局」は1989年放送。ふるっ!
大原麗子主演。若い子は知らんやろぅな。。

↓お福の像
お福の像
「こんばんは、大原麗子です。」
じゃなかった、春日局ことお福の像
駅前で電車を待つ間に。

↓お福の像_説明
お福の像_説明
この地で野山を駆け巡っていた幼い頃。
その経験があったから、大奥を造ったのか~ビックリマークなんでやねん!(゜o゜)\(-_-)

↓お福の像_拡大
お福の像_拡大
お福というか、おたふく顔やね。

手に何持ってんのん?どういう状況はてなマーク

↓駅前にある黒井城跡看板
駅前にある黒井城跡看板
季節と気象条件によっては、雲海が見られるという、黒井城をオススメする。



おわり。。。