↓お左近の手水鉢

お左近(さご)とは池田長吉夫人の侍女のことで、女性ながら石垣の構築に貢献した。
お左近愛用の手水鉢を入れ込んだ所、難工事だった三階櫓石垣が無事完成したという伝説。
昭和38年にこの石材が発見され、その後の大修理のさい埋め込まれた。
↓三階櫓台

高い。
山頂の天守が無くなって以降、ここにあった三階櫓は天守的な存在だった。
↓裏御門跡石垣

石垣のごちゃついてた場所(前回紹介した)で隅石があったが、その頂点がこの裏御門跡。この上には門櫓があったのだろう。
積み直し感がメッチャある。
↓裏御門跡_礎石

裏御門で行く手を遮られ、三階櫓から弓矢
が雨あられ
と降り注いだ事だろう。


って一回も戦闘は行われてないけど。。
↓右膳ノ丸跡

二ノ丸の西側下はスルーしてきたが、ここから見とこう。右膳ノ丸跡。
おや、園児か小学生の遠足かな

↓登り石垣

二ノ丸西端にある、登り石垣を見逃すな。

正面から。
米子城にも登り石垣があったが、こちらは保存状態がいい。それもそのはず、幕末の1849年の改築時に造られたそうだ。
幕末に造られた登り石垣は、国内唯一。
↓二ノ丸跡

二ノ丸は江戸時代前期には藩主の御殿があり、政治の中心地であった。
↓刻印石

何か刻まれ、三階櫓の脇に置かれた刻印石。
「享保十三戌申九月二日 吉田氏甚四郎」などとある。元は三階櫓の天端石(てんぱいし=隅石の一番上)で、享保年間に修復の際、外された。
↓二ノ丸跡2

二ノ丸の雰囲気。
↓菱櫓跡

二ノ丸の南西端の菱櫓跡が見えてきた。
↓菱櫓石垣上

櫓台も建物も正四角形ではなく、菱形をしていたというが・・・
ドローンでも飛ばさない限り菱形とは分からなそうだ。
↓天球丸下段・腰曲輪_菱櫓より

天球丸の下段が左上に、その下にも腰曲輪がある。立派な石垣もあるが、腰曲輪には整備中で入れない。
↓天球丸石垣_菱櫓より

天球丸跡の立派な石垣。
その手前に登り雁木。右の方に巻石垣も少し見えている。
↓天球丸などに至る道_菱櫓より

石垣の上は右手が天球丸、左手が二ノ丸へ至る。
↓大菱櫓跡_菱櫓より

風呂屋敷御門跡。
奥は山上ノ丸への登り口がある。
↓表御門跡

菱櫓台から降り、巻石垣を近くで見られる天球丸下段を目指す。
↓崩落石?

左手の中途半端なスペースには、何やら崩れた(あるいは崩された?)石がゴロゴロしていた。
↓腰曲輪

立派な櫓台が見えるが、立入禁止
だ。

↓天球丸石垣_西側

巻石垣を間近で見るには、こちらから。
よく見ると二段、または三段の石垣を積み重ねている。
↓巻石垣_側面

横顔が見えてきた。
↓天球丸下段

天球丸下段。楯蔵跡。
↓巻石垣

キターーーーー

浅田真央
の代名詞といったらトリプルアクセル、鳥取城の代名詞といったら巻石垣でしょ


↓天球丸_説明

1807年頃、天球丸石垣の一部が崩れかけたのでその崩落防止のために築かれた。
甲羅状の補強石垣は全国で唯一無二。平成の修復工事で甦った。

巻石垣は盛土の表面を石で覆ったもの。
それにしても何故このような現在アートのような形状になったのだろう

↓天球丸石垣_東側

上段の石垣は、1617年以降に大改修された時に築かれた。上には三重櫓があったが、焼失
した。


生で見るとスゲーな。。

ゴジラの卵やないの


ちなみに「天球丸」という名は球型に積み上げられたからではなく、城主池田直吉の姉・天球院が住んだ事に由来する。
だが、江戸時代文化年間に、せっかく天球丸なんやし丸くしたろ、みたいな遊び心があったんじゃないか、とするぷにゅたの説。。