摂津・高山城!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

↓高山バス停
高山バス停
バス停・余野から北千里駅行きのバスに乗ると、止々呂美を経由せずに狭い山合いの道に入っていく。
高山に停まるバスバスは本数が少ないので留意したい。

いきなり「右近の郷」という看板が見えている。

↓高山地区_北方向
高山地区_北方向
高山は、山に囲まれた小さな集落といった風情だ。

↓お旅所前の道標
石標
高山公民館の南を東折れ70mの所に建つ道標。

「左 かつを寺 三十丁(勝尾寺のこと)
右 みのを 八十丁」(箕面)とある。

↓お旅所前の道標_裏面
石標_裏面
大正四年建立。

↓右近の郷コミュニティセンター
右近の郷コミュニティセンター
バス停の背後に見えてた、右近の郷コミュニティセンター。少し南から迂回する形となる。

門は閉ざされていたが、鍵はかかってなかったので開けて敷地内に入るドア

↓高山右近と志野夫婦像
高山右近と志野夫婦像
十字型にデザインされた植込み十字架をバックに、高山右近夫妻像は建つ。

平成17年、高山右近没後400年を記念して、高山御影石で製作された。

↓高山右近と志野夫婦像2
高山右近と志野夫婦像2
豊能町高山は高山右近生誕の地であり、妻・志野(ジュスタ)はお隣の余野の出身。

志野お母さんは黒田氏の娘で、金沢、マニラと彼が死ぬまで右近と行動を供にした。



↓高山右近と志野夫婦3
高山右近と志野夫婦3


~高山右近年表~

  • 1560年(永禄3)高山飛騨守(右近の父)松永久秀に属し、大和・沢城主となる
  • 1564年(永禄7)右近、洗礼を受ける。洗礼名ジュスト
  • 1568年(永禄11)飛騨守、和田惟政より芥川城を与えられる
  • 1573年(元亀4)和田惟長に高山父子暗殺を企てられ、逆に惟長を討つ。飛騨守、荒木村重より高槻城を任される。まもなく隠居し、高山重友(右近)が高槻城主
  • 1574年(天正2)高槻に天主堂を建設
  • 1578年(天正6)荒木村重、織田信長に謀叛し敗北。飛騨守は村重側につき退去、右近は城を捨て信長に面会、許され戦後所領安堵される
  • 1582年(天正10)本能寺の変メラメラ山崎の戦い、賤ケ岳の戦いナイフでは羽柴秀吉の先陣をつとめる
  • 1584年(天正12)余野国綱を討つ。余野城は黒田氏(妻ジュスタの実家)に委任
  • 1585年(天正13)明石に転封される。船上城を築く
  • 1587年(天正15)秀吉、伴天連追放令を出し右近の所領没収、追放。小西行長によって小豆島に匿われる
  • 1588年(天正16)前田利家の招きにより肥後から金沢高岡へ
  • 1614年(慶長19)徳川家康、禁教令を出す。右近一家、マニラに国外追放となるが、現地で大歓迎クラッカーを受ける
  • 翌年、到着40日ほどで熱病にかかり死亡


↓高山右近と志野夫婦像_説明
高山右近と志野夫婦像_説明

↓高山右近_説明
高山右近_説明

高山右近について、殉教者の一面ばかりがクローズアップされる。茶人お茶としての顔、築城名人・・・もっとガツガツした戦国大名の側面は無かったのだろうかはてなマーク


父・飛騨守はともかく、どう調べても、和田惟長を殺戮したぐらいしか出てこなかった(その時瀕死の重傷ナイフを負い、ますますキリスト教に傾倒していったらしぃ)。


↓旧高山右近像
旧高山右近像
敷地内の片隅にあった、何だコレ?像。

平成時代に高山右近志野夫婦像が造られる以前にあったと思われる夫婦像か。シンプルな胸像。

↓高山高札場跡
高山高札場跡
4号線を西へ越えてすぐ。高山高札場跡

↓高山高札場跡_説明
高山高札場跡_説明
維新後廃止されたが、昭和52年に明治時代の構造を保ち改築された。

↓高札内容
高札内容
高札の内容は、ズバリ切支丹禁教を伝える内容となっている。びっくり

↓西方寺_鐘楼
西方寺_鐘楼
1563年開基と伝わる真宗大谷派。ただし右近の時代には祈祷所があったともいい、謎である。

↓西方寺
西方寺

↓高山右近生誕之地碑
高山右近生誕之地碑
西方寺の奥すぐ。高山右近生誕之地碑

↓高山右近生誕の地
高山右近生誕の地
生誕の地は、神社神社の境内となっている。

↓八幡神社
八幡神社

↓高山右近生誕之地碑_裏面
高山右近生誕之地碑_裏面
高山右近は1552年(天文21)高山城で産まれ、幼名は彦五郎といった。

平成10年建立。



つづく。。。