最近、乗換案内アプリ
の時間通りにいかない事がよくあり、遂にやっとICOCAカード購入。

今さらかい

なんてお手軽で何と便利なのだろう
。なぜもっと早く使わなかったのか。色んな路線やバスを駆使するぷにゅたこそ、うってつけではないか


ただ、「切符高っか
」言いながら切符買う事は無くなり、それはそれで怖い事ではある。

↓三日市町駅前の石碑


駅前ロータリー内に、ここに寄せ集めました感のある石碑群が。これは

左は岩湧寺、河内長野市の南の山上にある古刹。右は三日市町にある鬼住延命寺
の道標。

↓三日市北遺跡_説明

こちらは駅前再開発がきっかけで見つかった、弥生時代中期後半頃の集落遺跡
(の説明)。

住居跡や大量の弥生式土器等が出てきた。駅前やし、埋め戻すしかなかったんやろーね。
↓自販機_楠木正成バージョン

かっちょいい楠木正成デザイン
。

少年時代、楠木正成は観心寺で学んだあと、ここを通って加賀田にある大江時親の家へ通った。
↓多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像

それは大江時親に兵法を学ぶためであった。
いうことで平成30年建てられた像。左が楠木正成(多聞丸)。
大江時親は毛利元就の先祖で「鎌倉殿の13人」に登場した大江広元のひ孫にあたる。
楠木正成で大河ドラマ誘致無理ちゃうかな~。わからんけど。。
↓高野街道

明和7年建立の弘法大師常夜灯。
三日市は高野街道の宿場町だったようだ。
↓八木家住宅

高野街道を北へ。
入ってすぐにある八木家住宅。18世紀後半の築か。木綿問屋をへて酒造を営んだ。もろもろが国登録有形文化財
。

↓八木家住宅2

反対側より。
↓天誅組史跡

少し北へ進むと、天誅組史跡。
↓天誅組史跡_説明

読みづらい碑文なので、めっちゃ画像補正した。
かつてここに油屋があり、天誅組が大和五條を襲撃する道中、休息し態勢を固めた場所とのこと。
奈良街道を南下せずに河内長野を経たのは、楠公首塚のある観心寺で決起したかったがためだという。
↓加賀田川

加賀田川に架かる橋より。
乗ってきた南海電車の架橋か。
↓加賀田川2

加賀田川は岩湧山から流れ出て、下流はやがて石川に合流し、石川は大和川に合流している。
↓柿の木

訪問は2023年10月
。

↓烏帽子形山_遠望

ようやっと見えてきたな
烏帽子形(えぼしがた)山。標高は182m。

↓烏帽子形八幡神社鳥居

烏帽子形八幡神社の南参道の入口。
あとで時間が許せば寄ってみるか。
↓新池

白い鳥がおるけど、遠すぎてよう見えん。
↓烏帽子形城跡史跡碑

駅から2~30分ほど歩いただろうか。
ようやくここから城ブログです。
↓烏帽子形城跡_俯瞰図

河内ではあるが紀伊との国境に近く、若江城や高屋城を守る南の防衛線といえる要の城だった。
また、高野街道をやくし、周辺の城が見渡せる優れた眺望を持つ。
↓烏帽子形公園案内マップ

現在地からわんぱく広場をへて、城の西にある堀切に到達する。
帰りは古墳広場をへて烏帽子形八幡神社に向かおうか。
↓烏帽子形城跡_遺構解説

↓烏帽子形公園へ

↓烏帽子形城の年表

- 1463年(寛正4)嶽山籠城戦。幕府の介入で畠山義就は畠山政長らに攻められ、2年以上抵抗するも嶽山城は陥落、畠山義就は逃亡
- 1466年(文正元)畠山義就が逆襲し烏帽子形城ほかを攻め落とし、政権復帰。河内と近隣を実効支配する
- 1467年(文正2)義就と政長の争いが応仁の乱
に発展する
- 1524年(大永4)大永4年の合戦。畠山義尭(義就のひ孫)が日野に進軍。畠山稙長(政長の孫)が迎撃のため烏帽子形城ほかに入ると、畠山義尭は撤退。
- 1560年(永禄3)三好長慶が河内を支配していく。
- 1567年(永禄10)三好三人衆方の烏帽子形城を、畠山方の根来寺衆が攻める。
- 1568年(永禄11)織田信長が上洛。河内は三好義継と畠山秋高の領有が認められる。
- 1570年(元亀元)三好三人衆が畠山秋高を攻め、烏帽子形城も攻められる。
- 1573年(元亀4)遊佐信教により、畠山氏は滅亡
。
- 1575年(天正3)信長が高屋城の三好康長を攻め、降伏させる。
- 1582年(天正10)ルイス・フロイスが烏帽子形城下の切支丹
の数が300人と記す。
- 1584年(天正12)小牧・長久手の戦い
家康方の保田安政が国見山城に陣取ったため、秀吉方の中村一氏が烏帽子形城を修復、陣を置いて戦う。
↓烏帽子形城跡_登城口

なんや、ここからが城跡かいな~

↓堀切

すぐに、城の内外を分断する堀切にとーちゃく。
↓堀切下より

少し下に降りた所から。