烏帽子形城!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

最近、乗換案内アプリスマホの時間通りにいかない事がよくあり、遂にやっとICOCAカード購入。
今さらかいビックリマーク

なんてお手軽で何と便利なのだろう爆笑。なぜもっと早く使わなかったのか。色んな路線やバスを駆使するぷにゅたこそ、うってつけではないかビックリマーク
ただ、「切符高っかビックリマーク」言いながら切符買う事は無くなり、それはそれで怖い事ではある。

↓三日市町駅前の石碑
三日市町駅前の石碑

はい、いうわけでやって参りましたビックリマーク南海高野線・三日市町駅。河内長野駅のひとつ先である。

駅前ロータリー内に、ここに寄せ集めました感のある石碑群が。これははてなマーク
左は岩湧寺、河内長野市の南の山上にある古刹。右は三日市町にある鬼住延命寺節分の道標。

↓三日市北遺跡_説明
三日市北遺跡_説明
こちらは駅前再開発がきっかけで見つかった、弥生時代中期後半頃の集落遺跡骨(の説明)。

住居跡や大量の弥生式土器等が出てきた。駅前やし、埋め戻すしかなかったんやろーね。

↓自販機_楠木正成バージョン
自販機_楠木正成バージョン
かっちょいい楠木正成デザインカブト

少年時代、楠木正成は観心寺で学んだあと、ここを通って加賀田にある大江時親の家へ通った。

↓多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像
多聞丸(楠木正成)大江時親に学ぶ像
それは大江時親に兵法を学ぶためであった。

いうことで平成30年建てられた像。左が楠木正成(多聞丸)。

大江時親は毛利元就の先祖で「鎌倉殿の13人」に登場した大江広元のひ孫にあたる。


楠木正成で大河ドラマ誘致はてなマーク無理ちゃうかな~。わからんけど。。


↓高野街道
高野街道
明和7年建立の弘法大師常夜灯。
三日市は高野街道の宿場町だったようだ。

↓八木家住宅
八木家住宅
高野街道を北へ。
入ってすぐにある八木家住宅。18世紀後半の築か。木綿問屋をへて酒造を営んだ。もろもろが国登録有形文化財キラキラ

↓八木家住宅2
八木家住宅2
反対側より。

↓天誅組史跡
天誅組史跡
少し北へ進むと、天誅組史跡

↓天誅組史跡_説明
天誅組史跡_説明
読みづらい碑文なので、めっちゃ画像補正した。
かつてここに油屋があり、天誅組が大和五條を襲撃する道中、休息し態勢を固めた場所とのこと。
奈良街道を南下せずに河内長野を経たのは、楠公首塚のある観心寺で決起したかったがためだという。

↓加賀田川
加賀田川
加賀田川に架かる橋より。
乗ってきた南海電車の架橋か。

↓加賀田川2
加賀田川2
加賀田川は岩湧山から流れ出て、下流はやがて石川に合流し、石川は大和川に合流している。

↓柿の木
柿の木
訪問は2023年10月オレンジ

↓烏帽子形山_遠望
烏帽子形山_遠望
ようやっと見えてきたなビックリマーク烏帽子形(えぼしがた)山。標高は182m。

↓烏帽子形八幡神社鳥居
烏帽子八幡神社鳥居

烏帽子形八幡神社の南参道の入口神社

あとで時間が許せば寄ってみるか。


↓新池
新池
白い鳥がおるけど、遠すぎてよう見えん。

↓烏帽子形城跡史跡碑
烏帽子形城跡史跡碑
駅から2~30分ほど歩いただろうか。
ようやくここから城ブログです。

↓烏帽子形城跡_俯瞰図
烏帽子形城跡_俯瞰図
河内ではあるが紀伊との国境に近く、若江城や高屋城を守る南の防衛線といえる要の城だった。
また、高野街道をやくし、周辺の城が見渡せる優れた眺望を持つ。

↓烏帽子形公園案内マップ
烏帽子形公園案内マップ
現在地からわんぱく広場をへて、城の西にある堀切に到達する。
帰りは古墳広場をへて烏帽子形八幡神社に向かおうか。

↓烏帽子形城跡_遺構解説
烏帽子形城跡_遺構解説

↓烏帽子形公園へ
烏帽子形公園へ

↓烏帽子形城の年表
烏帽子形城の年表

  • 1463年(寛正4)嶽山籠城戦。幕府の介入で畠山義就は畠山政長らに攻められ、2年以上抵抗するも嶽山城は陥落、畠山義就は逃亡
  • 1466年(文正元)畠山義就が逆襲し烏帽子形城ほかを攻め落とし、政権復帰。河内と近隣を実効支配する
  • 1467年(文正2)義就と政長の争いが応仁の乱ナイフに発展する
  • 1524年(大永4)大永4年の合戦。畠山義尭(義就のひ孫)が日野に進軍。畠山稙長(政長の孫)が迎撃のため烏帽子形城ほかに入ると、畠山義尭は撤退。
  • 1560年(永禄3)三好長慶が河内を支配していく。
  • 1567年(永禄10)三好三人衆方の烏帽子形城を、畠山方の根来寺衆が攻める。
  • 1568年(永禄11)織田信長が上洛。河内は三好義継と畠山秋高の領有が認められる。
  • 1570年(元亀元)三好三人衆が畠山秋高を攻め、烏帽子形城も攻められる。
  • 1573年(元亀4)遊佐信教により、畠山氏は滅亡叫び
  • 1575年(天正3)信長が高屋城の三好康長を攻め、降伏させる。
  • 1582年(天正10)ルイス・フロイスが烏帽子形城下の切支丹十字架の数が300人と記す。
  • 1584年(天正12)小牧・長久手の戦いナイフ家康方の保田安政が国見山城に陣取ったため、秀吉方の中村一氏烏帽子形城を修復、陣を置いて戦う。

↓烏帽子形城跡_登城口
烏帽子形城跡_登城口
なんや、ここからが城跡かいな~ビックリマーク

↓堀切
堀切
すぐに、城の内外を分断する堀切にとーちゃく。

↓堀切下より
堀切下より
少し下に降りた所から。

つづく。。。