↓観音岩の眺望_茨木市方面
カメラを右へとずらしていく。
芥川山城跡はどのへんやろぅ。。
↓観音岩の眺望_高槻方面
↓観音岩の眺望_山崎方面
手軽に登れてこの絶景お得感がハンパねえ。
↓観音岩の眺望_八幡市方面
遠くは京都の方角か。
↓交野山最高所
標高341m。
意外とあるけど、白旗池からの比高はそんなに無かった。100mくらいではなかろうか。
↓尾根伝いの道
交野山を降り、白旗池のところで今度は北へ向かう。
↓国見山展望所
→があるので迷わず行ける。
少し石段を登って数mで、国見山展望所に着いた。
↓国見山の眺望1
ここの景色は、一人占めじゃい
↓国見山の眺望2
見えるのは先刻とほぼ同じ方角やな。
ただ、こっちの方がやや低いな。
↓国見山三角点
標高284m。
国見山にはかつて津田城があり、津田周防守正信が築いたといわれている。
↓津田城 曲輪跡?
展望所からハイキング道へ戻った。道を挟んで反対側に休憩所があった。削平地になっているが、曲輪跡を利用して造られたのか、それとも休憩所を造るために削平したのか
いずれ展望所があまり広く無いから設けたと思うのだが・・・
写真奥に見える道を少し登ってみたが、特に遺構らしきものは見つけられなかった。
↓ドングリ
訪問は2023年10月。
↓空堀跡
左が展望所、右が休憩所の高まり。
縄張図を調べると、東西2つのピークを利用した城だったようである。本丸は左手の方か。
↓空堀跡2
反対側より。空堀と表現したが、恐らく自然地形を利用した切通しか。
↓土塁跡
林道を通ってだいぶん降りてきた。
こんな中腹に土塁が意表を突かれた。
写真は桜を見る為に設けられたデッキから撮っている。
↓土塁跡2
近寄ってみる。奥にデッキが見える。土塁に何か小さな札が立っている。何だ
↓土塁跡_説明
「まぼろしの城」津田城は国見山城・本丸山・古城(ふるじょう)・城坂砦跡を総称して言う。
ここにあるのは城坂砦の遺構という事か。
~津田城年表~
- 1490年(延徳2)津田周防守正信が津田城を築城
- 三代・正明のとき、三好長慶の後ろ楯で中原氏を追放(中原氏が津田姓に改称したとも)
- 1568年(永禄11)津田城は三好三人衆方から松永久秀方へ寝返り、その後三好義継が入城
- 1571年(元亀2~3)交野城を攻めるため、松永久秀が「津田の付城」を築く
- 1575年(天正3)上洛した織田信長に攻められ津田城は焼け落ちる
- 1576年(天正4)、五代・正時が本丸山城を築城
- 1582年(天正10)本能寺の変ののち、山崎の戦いで明智光秀に加担し津田氏は滅亡
※当時代資料に津田氏に関しての記載は無く、その存在そのものを疑う向きもある。
出た~!地元のヒーロー創作疑惑。。どっかでも聞いた事ある話やな、籾井教業(もみいのりなり)とか。
↓せせらぎ
チョロチョロいう音に癒されます。
↓津田山案内図
今さらの案内地図、さんきゅー
↓仁丹の社屋
サイトで見ていた場所に出てきたのぅ。
↓登山口
振り返り。
こっちから登る人の方が多かろ。
↓高速道路
第二京阪道路。
道路建設工事などにより、古城の方の遺構は消滅していったと思われる。
↓津田山_遠望
津田駅めざして歩く。振り返っての一枚。
↓津田周防守正信之墓所
住宅地の一角に突然現れる、津田周防守正信之墓所。津田城を築城したとされる人物だ。
中原氏=津田氏なら、楠木正成の後裔ということになる。
↓津田周防守正信之墓
87歳で没したとされ、墓は現在古城(ふるじょう)跡にある。
新しい墓だが、元の墓は石を適当に盛っただけの墓だったらしい。それって城主らしからぬ状態だが、果たして。
↓津田周防守正信_説明
↓地蔵池淵の木
近くには立派な木。
津田正信が植えた事にしない
その奥はため池か。
地蔵の存在こそが、城跡の痕跡と言えまいか。