北畠顕家といえば、一度目の遠征における高速移動に言及せざるを得ない。
多賀城を発し、およそ600kmにも及ぶ道程を、一日平均60kmのスピードで進軍したという
これは、世に名高い羽柴秀吉の中国大返しの1.5倍のペースだということで近年、注目を集めている。
TVで紹介された理由として、現在では絶滅してしまった「南部馬」という馬の産地が任地にあり、日本古来の馬より体躯がでかく脚も長かった。
いうても競馬のサラブレッドよりは小さい。
軍の大半が騎乗していたために可能だったのでは、という事だった。。
北畠顕家軍の強さの秘密が、理解できたような気がする。
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安倍晴明神社→北畠公園→阿倍野神社とまわってきた。阿倍野神社にある、北畠顕家公の像を鑑賞中。
この像は、霊山所有の肖像画をもとに作製されている。
武将としての才覚をもった顕家は舞にも長け、りりしくあでやかな姿から「花将軍🌸」と呼ばれた北畠顕家。
しかし、歌まで作られているとは。
↓北畠顕家公像_拡大
~北畠顕家年表~
- 1333年、建武の新政スタート。北畠顕家、陸奥守に任じられ多賀城へ下向する
- 1335年、顕家、鎮守府将軍を兼任。後醍醐天皇に叛いた足利尊氏を討つため出陣
- 1336年、顕家勢、京都の足利勢を破り鎮守府大将軍の称号を得て奥州へもどる
- 同年、尊氏、北朝をたて室町幕府を樹立。後醍醐天皇、吉野に逃れ南朝を立てる
- 1337年、顕家、国府を多賀城から霊山に移す
- 同年、顕家、尊氏を討つため再度出陣
- 1338年、顕家、和泉国石津で戦死。享年21
- 1339年、顕家の父・親房、南朝の正統性を主張する「神皇正統記」を執筆する
- 1353年、南北朝の戦いが事実上終結
- 1392年、足利義満の主導で南北朝が合一する
↓阿倍野神社_由緒
阿倍野神社は、顕家が足利軍と戦った古戦場に、明治15年、創立された。
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東玉手駅から再び阪堺電車に乗ろうとするも、40分以上の待ち時間があった。
する事も無いから、一駅先の塚西駅まで歩いた。
歩いた所で、何一つ状況は好転しないんだけどね。。
↓住吉大社_遠望
やっと乗れたけれど、さらに南下するためには、住吉駅で浜寺公園行きに乗り換えねばならない。降りる際、てくてくきっぷのスクラッチを削って無かったせいで降車に手間取り、目指す乗り換え電車は行ってしまった。
トホホ(;´д`)、また時間ロスやん。。
↓住吉大社_鳥居
住吉駅で電車を待つ間に、近くの住吉神社をチラ見しておくか。
↓阪堺電車
やべえ、次の電車きた。
慌ててホームに戻り、電車をパシャリ。。阪堺電気軌道、通称チンチン電車である。
↓石津川
石津駅で降り、太陽橋を渡る。石津川。
向こうに見える橋梁は、南海電車だろう。
↓道標
橋を渡ってすぐ。北畠顕家 戦死の地に到着。
その傍らにある石碑群。
太陽橋と刻まれた碑と、明治五年の道標。
旧太陽橋は明治5年完成し、通行税を取って建設資金とした。
↓北畠顕家 戦死の地
こちらが北畠顕家 戦死の地。
紀州街道に面して、顕家供養墓などが立つ。
↓北畠顕家供養塔
供養塔の手前に「此附近北畠顕家奮戦地」の碑が立つ。大正8年、大阪府がたてた碑である。
「南無阿弥陀佛」の碑は正徳三年(1711年)とあり、古くからこの地が合戦の場所と考えられていた事が窺える。
↓北畠顕家戦死の地_説明
ここ石津で行われた石津河原の戦いにおいて、高師直(こおのもろなお)率いる足利勢18000人に対して善戦するも、3000人ことごとく討死したという。
↓北畠顕家戦死の地_説明2
北畠顕家の奮戦のようすと、この地に五輪塔が建てられた経緯が書かれている。
供養塔とともに昭和12年建立。
↓北畠顕家供養塔_拡大
正確には、源顕家公・南部師行公殉忠遺跡供養塔という。
昭和12年、南部氏子孫の男爵と有志により建立。南部師行は、顕家に従って奥州軍を率いた主な武将で、顕家とともにこの地で討死した。
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阪堺電車でさらに南下、終点・浜寺公園前駅で降りる。
↓浜寺公園案内図
浜寺公園、初めて🔰きた。
何があんのやろぅ
↓防風林