傑山寺から、チャリを飛ばして15分。愛宕山へ。
Google先生に従うと、山の東側からヒョイと行けるかのように出てくるが、行き止まり。
すれ違ったオバちゃん言うには、「スマホ片手にこっち来てしまう人、前にもいはったわ。こっちからは行けないよー。」ゆう事で、113号線へ引き返す。
↓愛宕山片倉家御廟案内地図
案内標識があるまで113号を西へ。
駐車場に上がってチャリを停め、まずは片倉家御廟へ。
↓愛宕山墓地案内地図
階段を少し登ると、このような分かり易い地図が。
現在地は右下。まだ遠いのかと錯覚しそうだが、そんなに遠くはない。
↓片倉家歴代廟所
荘厳な雰囲気ですわ。
ここは、初代景綱から十代までの藩主の墓所である。
↓片倉家歴代廟所_説明
なんでも、三代目景長がここを菩提寺と定め、初代景綱の墓も傑山寺から分骨したという。
↓片倉景綱の墓
墓標には阿弥陀如来坐像。
真ん中を撮ったつもりだが、ひとつひとつの墓の形状にあまり違いは無く、多分これが片倉景綱の墓だと思うのだが・・・
↓歴代藩主の墓
向かって左側、2、4、5、9、10代藩主。
失礼だけど、同じ様な絵面になるため、右手の写真は割愛させて頂きます。
↓殉死者の墓
玉垣に囲まれたエリアの外、右手に目をやると殉死した景綱家臣6名の墓が。
旅行に行ってきて、人にドコソコ行ってん、と話をすると、たいがい、「自分、お墓率高いな!」とドン引きされてしまう、ぷにゅたであります。。。
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いったん入口に戻り、チャリで113号をさらに西へ。
墓マイラーは、まだ続きます。。
↓喜多の墓_入口
すぐに着いた、喜多の墓入口。
↓愛宕山墓所_詳細マップ
あれ?
こっちの地図では、喜多の墓から直接、田村家墓所へ向かう道が描かれてないな~
↓滝の観音堂
登り出してすぐ、滝の観音堂。
刈田三十三番観音の第一番札所となっている。
政宗から蟄居を命じられた喜多の方は、滝の観音堂すぐ側に庵を結んで余生を過ごし、慶長15年、この地で没した。
↓喜多の墓
滝の観音堂のすぐ裏山、片倉喜多の墓。
喜多は片倉景綱の異父姉で、伊達政宗の乳母(養育係)。文武両道で兵書にも通じた。景綱や政宗にも、強く影響を与えたという。
「独眼竜政宗」で竹下景子さんが演じ、一躍全国区になった。
↓喜多の墓_説明
白石市の説明板、青地に白字で、とても見やすいよね~。
ただ、この板は禁則処理ができてないよーん。「、」が行初に来ちゃってる。
↓喜多の墓_拡大
そんな喜多の方が、何故政宗の勘気をこうむり、蟄居させられたのか
一説によると、伏見に住んでいた時、政宗留守中に独断で、政宗の愛妾を秀吉に奉公させたからという(秀吉が以前から欲しがってた)。
天下人の心象を悪くさせない為だったが、もし本当なら、政宗、ちっちゃくな~い
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↓田村家の墓_説明
喜多の墓から、直で田村家墓所、来れましたわ。夏場はわからんけど。
田村氏は、坂上田村麻呂の末裔であーる。。
田村家ゆうたら、政宗の正妻・愛姫(めごひめ)の実家やったやろ。それが、なんでここ愛宕山に
↓田村家の墓所_配置図
田村家、奥州仕置で、改易なってましたか。。何か、政宗の謀略の匂いするけどな~。
その後、愛姫の意志で、田村定廣に片倉喜多の名跡を継がせたとか。
↓田村家の墓
愛姫の父・田村清顕はじめ、子孫や関係者の墓がズラリと並ぶ。
↓田村清顕の墓
真ん中の清顕の墓は、後から移したものだろう。
左横が定廣、その左が阿菖蒲の方、そしてここに来るまで知らんかったのだが・・・
↓真田幸村の墓
なんとここ白石に、真田信繁(幸村)の墓があるではないかビックリ。。
たぶん右のやつ。
↓墓標
田村定廣は名跡を継いだのち、真田信繁の娘・阿菖蒲を娶った、いうわけで、妻の父も同じ地に墓を建て、弔おうということか。
なお、片倉重長に嫁いだ阿梅(当信寺に墓)は、阿菖蒲の姉にあたる。
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急いでチャリを返却し、ギリギリ予定の電車に間に合った。
JR東北で、白石から一気に仙台まで北上。
↓仙台駅