↓白石城三重櫓(西面)
平成7年、当時の史料に基づき、木造で復元。
木造での復元天守は全国でも少なく、掛川城、白河小峰城、新発田城、大洲城と、この白石城で5つだけである。
↓二の丸跡
本丸帯曲輪のすぐ北に、一段高くなっている芝生のエリアがある。二ノ丸跡だ。
二ノ丸大手二ノ門跡からは離れているが、門のネーミングはそれでよかったのだろうか。
↓白石城三重櫓_二の丸より
~白石城年表~
- 鎌倉時代、刈田氏が居館を構えたとも(詳細は不明)のち、白石氏を名乗る
- 戦国時代、伊達氏領となっており、1586年~屋代景頼が城主
- 1591年(天正19)奥州仕置。豊臣秀吉が伊達政宗領だった会津を、蒲生氏郷に与える。蒲生郷成、益岡城(のちの白石城)を築城し城主に任じられる
- 1598年(慶長3)蒲生氏は減封のうえ移封、代わって上杉景勝に与えられる。甘糟景継(清長)が改修し、城主に
- 1600年(慶長5)関ヶ原の戦い(会津征伐)伊達政宗、白石城を攻略。家康はそのまま領有を認める。石川昭光が城主
- 1602年、片倉景綱、1万8千石で城主に。城の大改修を行う
- 以降、明治維新まで代々片倉氏
- 1868年(慶応4)戊辰戦争。奥羽越列藩同盟が組まれるが、新政府軍に降伏する
- 明治7年、民間に払い下げられ、建物は破却
- 平成7年、三階櫓、大手一ノ門、二ノ門、土塀が復元
↓馬場跡
土塀にも石落し。姫路城を思い出す。
土塀に石落しがあるのは、現存では珍しいが、往時はよくあった事らしい。
↓大手一ノ門
ではいよいよ本丸へ。
大手一ノ門は間口が狭く、扉が無いのが特徴。
↓大手二ノ門
そして立派な大手二ノ門。
門櫓には狭間が幾つも切られ、二階には出格子窓。
枡形内は、直角では無いが、真っ直ぐには進めない造り。
↓大手二ノ門_城内より
↓大手二ノ門と三重櫓
三階櫓との位置関係は、ご覧の通り。
三階櫓へ行くには、Uターンする。
↓本丸御殿跡
三階櫓は後の楽しみにして、本丸の中央へ。
本丸には本丸御殿があった。
↓本丸御殿跡_説明
この図を見ると、かつて本丸は御殿でほぼ埋め尽くされていた(本丸は結構広いのだが)。
また、三階櫓以外にも辰巳櫓、未申(ひつじさる)櫓があったようだ。
↓片倉小十郎景綱公頌徳碑
本丸に堂々建つ、のっぽの碑。逆光だわ高すぎるわで、写真家泣かせ。
片倉小十郎景綱公頌徳碑は、片倉景綱の功績を称え、大正4年に建立された。
↓鐘堂