桑折駅から11時54分発の白石行に乗り、12時15分に白石駅到着。
東北旅行者アルアルで、電車降りるとき、段差につまずく。
山城攻略後のためか踏ん張る事ができず、ホーム反対側の手すりにまで到達。派手な音とアクションで、乗客らの注目を浴びる。。
皆さんもお気を付けて下さい
↓駅前交番
町としての雰囲気作りヨシ
↓駅中の甲冑レプリカ
白石駅でレンタサイクルし、白石城(しろいしじょう)へ。
↓当信寺
先に、道中にある当信寺に立ち寄ろう。
↓白石城二ノ丸大手二ノ門(移築)
当信寺山門は、白石城東門の移築門だ。
二階の大きな窓は、城内外に時を報せる太鼓、あるいは鐘の音を響かせるため。
↓二ノ丸大手二ノ門_説明
これは、白石城内の門跡地にあった説明板だが、先に掲載した。
↓当信寺_説明
当信寺は1597年(慶長2)創建。慶長9年に現在地に移転。片倉小十郎景綱の叔父の菩提寺とされた。
当信寺には移築門のほか、阿梅・大八の墓というのがある。
↓当信寺本堂
1831年(天保2)に造営された、木造入母屋造の本殿。国登録有形文化財。
↓阿梅・大八の墓へ
標識にしたがって、本堂の右手を奥へ。
↓阿梅・大八の墓
おお、こちらの方々か、南無・・・って、一体どちら様でしたっけ
↓阿梅の墓_説明
大坂夏の陣の後、真田信繁(幸村)の子らが、片倉家に身を寄せた・・・聞いた事ある話やな。
この人達がそれだったのか阿梅は片倉重長の後妻となり、83歳と長生きした。
定説では、幸村が大坂城落城寸前に、片倉重長の武勇を見込んで託した、という。
興味深いのは、もうひとつの説・乱取り(捕虜)として連れてこられた、という事が紹介されていた。
↓大八の墓_説明
片倉四郎兵衛守信こそ、幸村の次男・大八だ、とする説(長男の大助は夏の陣で戦死)。
真田信伊(昌幸弟)の系統だ、とする説もある。
※ ※ ※ ※ ※
↓館堀川
白石城の脇をせせらぐ小川。気に留める人は少ない。白石川から水を引き込んでいる。
古絵図では、白石城主要部の南側は、空堀だった。
↓二ノ丸大手二ノ門跡付近
坂を上がる。正確にはこの写真のやや後ろが、二ノ丸大手二ノ門(東門)跡である。
↓セキレイ
と、その時である。
伊達家の花押のモデル、鶺鴒(セキレイ)が不意に飛来してきた。これは、決して偶然では無かろう。
・・・いやいや、偶然やし、そこら中におる鳥やし!
動きまわるもんで、ズームで真ん中に捉えるのは、キビしー
撮影に夢中になっている所を、お姉さん方が通りかかって・・・それがし、決して怪しい者ではござりませぬ
有名な逸話、、、
秀吉:「葛西・大崎一揆を煽動したやろ証拠はあがっとるぎゃー」政宗の花押のある書状を突き出す。
政宗:「それがすの花押には、セキレイの目ん所、針で穴開けてますれば」
秀吉:「ホンマや~開いてへん。疑うてスマンのぅ、許してちょう。」
・・・いやいや、現存する政宗書状に、穴は一つもありませんから~後世の創作
↓本丸外郭石垣