天地人像に目を奪われて見落としがちだが、後ろの石碑も見てみよう。
↓伊達政宗公生誕の地碑
15代伊達晴宗が米沢に本拠を移し、伊達政宗は米沢城で産まれたという。
いうわけで伊達政宗の像もここに建てたらどうか
↓米沢城_説明
~米沢城年表~
- 1238年(暦仁元)大江時広が米沢に赴任、米沢城築城。長井氏を名乗る
- 1380年?伊達宗遠が米沢を奪い、長井氏を滅ぼす
- 1548年(天文17)伊達晴宗が桑折西山城から本拠を移す
- 1567年(永禄10)伊達政宗が米沢城で誕生
- 1590年(天正18)惣無事令に反したとして、豊臣秀吉が伊達氏を減封。米沢に蒲生氏郷が入る。蒲生鄕安が城主に
- 1597年(慶長2)蒲生氏は宇都宮に減封移動。上杉景勝が越後からのべ120万石で移封。直江兼続が城主に。舞鶴城と命名
- 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍は敗北。徳川家康により、上杉氏は米沢のみの30万石に減封
- 1608~1613年、直江兼続が大改修を行う
- 1664年(寛文4)養子が跡を継ぎ、15万石での藩存続が認められる
- 1767年~上杉鷹山の藩政改革。財政難を立て直す
- のち、領内治め方よろしと表彰され、18万7千石に加増
- 1868年(慶応4)会津戦争で奥羽越列藩同盟を主導し敗北。14万7千石に減封
- 1871年(明治4)廃藩置県により廃城
- 1874年(明治7)松が岬公園となる
↓米沢城_縄張
ありし日の米沢城絵図。
右が北のようである。
伊達氏時代は本丸の正面口は北門で、東は搦手だった。直江兼続が東を正面に改修した。
↓上杉神社_鳥居
上杉神社は、
- 明治4年、松が岬公園内に建てられた。祠堂から謙信公の霊魂を移し(遺骸は上杉家廟所へ)、鷹山公を併せて合祀
- 明治35年、別格官弊社に列せられ、この時鷹山公のみ松岬神社へ移される
- 大正8年の米沢大火で焼失
- 大正12年、再建され現在に至る
↓上杉神社_標柱
↓上杉鷹山公之像(立像)
こちらは立っている状態の、上杉鷹山公之像。
松岬神社にも像があるのに、何故こっちにも造ったのだろう
↓鷹山公の句_石碑
かの有名な鷹山の一句。五七五七七で自分の信念の正しさを表現した名言である。
↓上杉鷹山_説明
母方の祖母が上杉綱憲の娘という縁故から養子に入り、大倹令・産業開発などを断行した。
人にやらせるだけではなく、まずは自らが率先して倹約を貫いた所などが、理想のリーダー像と言われるポイントか。
↓宝物殿のご案内
稽照殿という宝物館に、直江兼続の愛の兜が保管されている、というので入館。
しかし、入ってみると他所に貸し出し中との事で見られなかった。
それならそうと、表に書いといてくれよ~
↓上杉神社
大正12年再建の本殿。
その前にも、鬼小島弥太郎ほか上杉家臣の旗が林立。祭か何かあるのだろうか
↓菱門橋