米沢城!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

山形駅12時過ぎの電車で、米沢駅に13時過ぎに到着。

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城攻め中にグルメは求めないぷにゅたではあるが、せっかく米沢まで来たんだし、ランチは米沢牛牛が食べられる店を。

電車の中でスマホで見つけた「牛の恩返し 鷹山公」
ピークが過ぎていたのか、席も空いていた。

↓米沢牛
米沢牛
ランチは良い肉を手頃な値段で食べられる焼肉
肉はもちろん、小鉢とかおしんことかも美味しかった。

↓米沢駅前
米沢駅前
駅へ戻ってバスを待つ。

駅前には前田慶次のノボリが。前田慶次推しなんかはてなマーク最近は。
前田慶次住居跡と供養塔が駅の東にあるが、時間が足りず、行きそびれた。

↓上杉鷹山公之像(座像)
上杉鷹山公之像(座像)
上杉神社前に停まるバスじゃなかったので、適当に近いバス停で降りて歩く🚶。

まず目に入ってきたのは城に入る少し手前にある、上杉鷹山公之像。松岬神社の横に建つ。

↓松岬神社
松岬神社
これがその松岬神社神社
明治35年の創建で、主祭神は上杉鷹山である。

↓松が岬公園マップ
松が岬公園マップ
まず、伝国の杜という施設で「上杉本 洛中洛外図屏風」を鑑賞。
ちょっと団体さんと被ってじっくり鑑賞、という訳にはいかなかったショボーン

米沢城本丸跡と周辺エリアは、松が岬公園と呼ばれている。

↓本丸部分拡大
本丸部分拡大
本丸は四方を堀に囲まれ、東西南北4ヵ所に橋が架かる。

1811年(文化8)の城下絵図では、南側に橋は無かった。

↓舞鶴橋
舞鶴橋
西に架かる舞鶴橋から入る。

上杉家が入部した際に、直江兼続がそれまで北側だった正面入口を東側に変えた。

↓東内堀_北側
東内堀_北側
舞鶴橋の上から内堀を見る。程よい堀幅である。

↓黒の軍団
黒の軍団
ナニコレ珍百景。
メッチャ黒い鯉だらけやん、きっしょビックリマーク

↓東内堀_南側
東内堀_南側
米沢城本丸は、程よい広さなようだ。

↓松が岬公園_石碑
松が岬公園_石碑
明治7年、城跡は松が岬公園として一般に開放された。
上杉神社神社が本丸に移転したのは、その2年後のことである。

↓上杉謙信公祠堂跡へ
上杉謙信公祠堂跡へ
城内入ってすぐ、左手の高台を上がってみよう。
↓上杉謙信公祠堂跡碑
上杉謙信公祠堂跡碑
高台の上には、上杉謙信公祠堂跡の碑が建つ。

謙信公の御霊は紆余曲折を経て、現在、上杉家廟所に祀られている。

↓上杉謙信公祠堂跡_説明
上杉謙信公祠堂跡_説明

↓東堀際の様子
東堀際の様子
柿崎景家ら、上杉家臣の旗が林立する。

↓上杉謙信公之像1
上杉謙信公之像1
この場所から城の方を見ると、早くも存在感を放つ人影が。

↓舞鶴橋2
舞鶴橋2
振り返って舞鶴橋を再び。
灯籠があるように、あくまで上杉神社の参道という位置付け。

↓上杉謙信公之像2
上杉謙信公之像2
うえすぎけんしん。キタコレ。。

上杉謙信公之像3
実は、謙信自体は一度も米沢で暮らした事はないのだが。。というツッコミは無しョ。

上杉謙信公之像4
めっちゃ貫禄ある。昭和49年の建造。

↓上杉謙信公_説明
上杉謙信公_説明
豊臣秀吉によって越後より移封してきて以来、米沢はずっと、明治時代に至るまで上杉氏が治めた。

↓上杉謙信公之像_顔拡大
上杉謙信公之像_顔拡大
よく見ると中年太りしてるな。

・・・お笑いコンビの錦鯉・渡辺じゃないよねはてなマーク

↓天地人像
天地人像
謙信公像の少し先にも、2体の像が並んで建っているのが見えた。天地人像である。

天地人像2
2010年建てられた、天地人・上杉景勝公と直江兼続公主従像

でも逆光やな。

天地人像3
左が景勝で右が兼続か。

直江兼続は、新田開発などにより、米沢30万石を実質50万石にまで引き上げた名君である。

一方、死人を生き返らせてほしいと嘆願する遺族3人に、閻魔大王宛の手紙メモを持たせて処刑ナイフしてしまう叫びなど、苛烈な一面も持ち合わせていた。



つづく。。。