山形城!!!~その3. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。


~山形城年表~
  • 1356年、斯波兼頼が山形に入り、翌年旧山形城築城(現在の二ノ丸付近か)
  • 1592年(文禄元)~、最上義光が山形城を大城郭に拡張・改修に着手
  • 1622年(元和8)最上家が改易され鳥居忠政(鳥居元忠の子)が城主に。城の改修を行う
  • 1636年(寛永13)保科正之が城主に
  • 1644年(正保元)松平直基(結城秀康の子で松平忠直の弟)が城主に
  • その後、→松平乗佑→秋元家→水野家
  • 1870年(明治3)廃城となる
  • 1896年(明治29)~約50年間、本丸と二ノ丸が陸軍の駐屯地となる。本丸の堀、土塁など壊されるゲッソリ
  • 1986年、国指定史跡に登録キラキラ
  • 1991年、二ノ丸東大手門が復元
  • 2006年、本丸一文字門の大手橋が復元
  • 2014年、本丸一文字門の土塀、高麗門が復元

↓高麗門
高麗門
本丸の枡形内から高麗門を見返す。
周りの土塀ともども2014年に復元された。

↓一文字門跡
一文字門跡
そして右前方には一文字門跡
写真では判らないが左右の石垣は横長で、その上に幅の広い櫓門があり「一」の字の様に見えた事から、一文字門と呼ばれた。

↓一文字門櫓台
一文字門櫓台
打込み接ぎ、隅部は算木積みだが、平成に復元したもの。

なお、本丸には御殿はあったが、天守は一度も造られなかった。

↓狭間より
狭間より
土塀に穿たれた狭間(さま)から外を見る。
堀の向こう岸にいる敵兵は、丁度いい射程距離銃ではなかろーか。

勿体つけた割には、本丸の見処は早や終わってしまった。
外へ出て、東大手門櫓の方へ。

※ ※ ※ ※ ※

↓土塀と控え柱
土塀と控え柱
最上義光像の背後にある階段を上がったところ。ここから門櫓内に入れる。
入場無料。

↓東大手門櫓内部
東大手門櫓内部
1991年の復元。櫓内はかなり広い。

↓山形城ジオラマ
山形城ジオラマ
ガラスに照明の反射が、大事な箇所にピンポイントで入ってしまう造り。

しかも、上が南である。

↓東大手門枡形内
東大手門枡形内
門櫓内部から外を見る。二ノ丸東側の玄関である高麗門と、枡形の溜まり場が見えた。

↓東大手門櫓への石段
東大手門櫓への石段
門櫓から降りてきた。
階段は復元した時造ったものだろう。

↓東大手門櫓
東大手門櫓
門櫓全体を撮ろうとして後ずさったが、大きすぎて収まり切らない。立派な櫓だ。

↓東大手門
東大手門
門外に出てから振り返って一枚。
格子窓ビッシリで銃弾の雨あられ雨である。

東大手門枡形内2

↓二ノ丸東堀_南側
二ノ丸東堀_南側
高麗門から城外へ出た。

↓二ノ丸東堀_北側
二ノ丸東堀_北側
二ノ丸の東は、堀キワキワに線路地下鉄が走っている。堀を一部埋め立てて通したのだろうか。

土地を買い取り住民を立ち退かせるよりは、建設的なやり方ではあるが・・・

↓東大手門櫓群_城外より
東大手門櫓群_城外より


東大手門櫓群_城外より2

↓二ノ丸東大手門_説明
二ノ丸東大手門_説明
石垣は馬見ヶ崎川で採掘された玉石(安山岩)を割ったものを石材とし、割り面を表にして積まれているのが特徴である。

※ ※ ※ ※ ※

↓最上義光立像
最上義光立像
東大手門橋を渡ってそのまま東へ歩くと、最上義光記念館というのがある。

今回、時間の関係で入らなかったが、記念館の前にはもう一つの最上義光像が立っている。

↓最上義光記念館
最上義光記念館

↓最上義光_説明
最上義光_説明
義光は政治の手腕にも優れており、街道の整備や特産品の奨励を行ったりした。
また、連歌や和歌メモにも通じており、文人としても非常に優れていたという。

この像は、文人としてのイメージで建立か。

※ ※ ※ ※ ※

山形では、他に最上義光廟所や長谷堂城、上山城(かみのやまじょう)へ行く手段を講じたが、今回廻る行程を考えると時間が足りなかった。

↓上山城
上山城
なので車窓から上山城だけでも写真に収めようとしたが、通過駅でもあり、タイミングがちょっと難しかった。

三層の模擬天守は、郷土資料館である。

武衛義忠が築城。天童氏派なので最上と対立し、義光に攻め落とされた。


おわり。。。