山形城!!!~その2. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

↓本丸跡
本丸跡
本丸の西北へ回り込む。
柵が無かった所から、本丸内部の様子をチラ見目

正面奥に見えるのが、一文字門か。

↓北不明門
北不明門
西不明門と北不明門を見て回るつもりだったが、西不明門に向かう道の分岐を見落とし、通り過ぎてしまっていた赤ちゃん泣き

写真は城外から見返した北不明門(きたあかずもん)

↓北堀_東側
北堀_東側
北不明門橋から右手の堀を見る。

正面奥の出っ張った所が、肴町向櫓(さかなまちむかいやぐら)跡。二ノ丸の北東部にあたる。

↓北堀_西側
北堀_西側

↓北不明門橋
北不明門橋
山形城では二ノ丸内に駐車場満があり、こちらの橋を車車が通行できるようになっている。

・・・さては後世に改変したか。

↓北不明門跡
北不明門跡
北不明門の近くに山形城址碑がある、とパンフに載っていたが、ちょっとどこにあるかわからなかった知らんぷり

↓本丸発掘調査
本丸発掘調査
北不明門から再入城し、時計回り時計に南下する。
再び本丸を見ながら歩いていく。

何か、石積みっぽいものが見えてますね。

↓最上義光公勇戦の像
最上義光公勇戦の像
ようやく東大手門付近まで来た。その前には最上義光像が。

最上義光公勇戦の像2
二本脚で絶妙なバランスで建っているところが、カッコいいポイントか。

最上義光公勇戦の像3
手にもってるのは槍では無く、指揮棒らしーな。

最上義光公勇戦の像4
兜の前立てカブトのみ、金色。
お顔はよう見えんかった。

最上義光公勇戦の像5
反対側からも一枚。

↓最上義光公勇戦の像_説明
最上義光公勇戦の像_説明
最上義光が産まれた時は、最上家は数ある出羽の一大名に過ぎず、しかも伊達家に服属する状況。

からスタートし、ザックリ言うと出羽・庄内52万石の大大名にまで押し上げた凄腕の武将節分である。

↓最上義光顕彰詞碑
最上義光顕彰詞碑
妹の義姫お母さんをそそのかし伊達政宗の毒殺を図るグラサン、というドラマの影響からか、これまであまり良いイメージを抱いてこなかった。

無論そんな事実は無さそうだ。

前回紹介した白鳥長久の謀殺はじめ、数々の謀略を用いた事も、この時代のしあがった大名なら珍しくない事。

今回、記事を書くにあたって色々調べるうちに、案外いい殿ちゃうかな~と思えてきた。

↓斯波兼頼公レリーフ
斯波兼頼公レリーフ
最上義光像より少し西にある、斯波兼頼公レリーフ
1356年(延文元)清和源氏の流れを汲む斯波兼頼は、羽州探題として山形に赴任、山形城の基礎を築く。

↓斯波兼頼公_説明
斯波兼頼公_説明
その後、子孫は最上姓を名乗る。つまり、義光の先祖に当たる人物である。

↓石垣展示
石垣展示
斯波兼頼公レリーフより本丸方向へ進むと、堀の中から発掘されたであろう石垣の石が、数個展示されているエリアがあった。

石を運ぶ木製のソリも、一緒に展示されていた。

↓安政二年刻印石
安政二年刻印石
安政二年は1855年だ。

天下普請の城において、担当者を判るようにするものだと思ってたが、山形城のように藩内で作業する場合でも刻印するものなのはてなマーク

↓一文字門_北より
一文字門_北より
いよいよ本丸に入るとしよう。

↓一文字門の石垣_説明
一文字門の石垣_説明
一つ前の写真の、櫓台石垣の右側にも一部石垣があるが、古図には描かれていなかったのに発見されたそうだ。

なお、石垣は大幅に修復されている。

↓大手橋
大手橋
いよいよ大手橋を渡り本丸へ。



つづく。。。って続くかよビックリマーク