五條市の町並み!!!~その3. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

 ↓二見城跡_説明板
二見城跡_説明板
ふと、通りの反対側を振り返ると、二見城の説明板らしきものを発見。

↓二見城跡_説明
二見城跡_説明
松倉重政は、元は筒井家の重臣だった。

彼はこの城を出撃し、大和郡山城を救援するという活躍をした。これは、大坂夏の陣で最初の武功で、徳川家康は大いに喜んだという。

↓二見城跡_説明後半
二見城跡_説明後半

↓二見城跡_縄張図
二見城跡_縄張図
城は南北に本丸・二の丸を配し、濠で囲み、その南側に馬場、西側に外郭を設け、三方には土塁を巡らせた。

↓北側堀跡
南側堀跡
堀というか、河岸段丘の崖か。

南側堀跡2
上の写真の崖のさらに奥。吉野川河原まで達している。右が妙住寺。左手が外郭か。

↓吉野川
吉野川
外郭と思われる場所から吉野川を見る。
河原との高低差がよくわかる。

↓二見城跡_遠望
二見城跡_遠望
これ以上何も無さそうなので、立ち去ろう。

※ ※ ※ ※ ※

↓二見の大ムク
二見の大ムク
二見城跡から徒歩8分。二見の大ムク

遠くから見てもあまり「うわ、なんて立派な木ビックリマーク」とはならない。

↓天然記念物碑
天然記念物碑
天然記念物に指定キラキラされてるのか、へぇ~。

指定の2年後、昭和34年の伊勢湾台風台風で主幹が倒れてしまったというショック
倒れる前は今の倍ほどの背丈があったようだ。・・・やっぱりな。

↓二見の大ムク_見上げ
二見の大ムク_見上げ
近くから見ると、幹は結構太いな、と。

↓二見の大ムクの幹
二見の大ムクの幹

↓五條マップ_右側
五條マップ_右側
JR大和二見駅に着いた。本数が多くは無いが、電車を待つ。

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↓小林家住宅
小林家住宅
電車に乗って和歌山方面へ3駅、橋本駅でおりる。

小林家住宅。母屋は嘉永3年頃の築で、国の登録有形文化財。

↓橋本橋
橋本橋
下から呼んでも橋本橋、を渡って南へ。

↓南の山手
南の山手
結構距離あるな~。

↓吉野川_上流方面
吉野川_上流方面
五條方面。

↓ハナミズキ
ハナミズキ

↓ハナミズキ_拡大
ハナミズキ_拡大

↓織田秀信終焉の地
織田秀信終焉の地
歩くこと1.5km、ようやく目的地。

↓善福寺跡
善福寺跡
もともと、ここには善福寺という寺があった。

↓織田秀信顕彰碑
織田秀信顕彰碑
織田秀信は、清須会議のとき秀吉が担いでた三法師ほんわか(信長の嫡孫で信忠の嫡子)と説明した方が、知ってる人も多かろう。

↓織田秀信顕彰碑_銘文
織田秀信顕彰碑_銘文
大正7年に後裔の方々が建立した、織田秀信顕彰碑

↓織田秀信墓所へ
織田秀信墓所へ
そんな三法師の墓が、和歌山県橋本市にあるのはナゼはてなマーク

↓織田秀信の墓
織田秀信の墓

↓織田秀信の墓2
織田秀信の墓2
成人した秀信は関ヶ原の時、西軍についた。
岐阜城の戦いナイフで東軍の先鋒に敗れ、開城→円徳寺に入り剃髪→高野山蟄居→高野山追い出される→向副村(この辺)に居住→関ヶ原のわずか5年後の1605年、この地で死去していたビックリマーク


↓織田秀信公ゆかりの地_説明
織田秀信公ゆかりの地_説明
不幸中の幸いというか、短い向副村での生活の間、妻をもうけ、子を成していた。

↓吉野川_下流方面
吉野川_下流方面
このあと足を伸ばして九度山へ行こうと思っていたが、朝出遅れでもういい時間となってしまった。結構歩いてキツくなっていたゲッソリのもあり、帰宅した。



おわり。。。