五條市の街並み!!!~その2. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

五條駅から新町通りを西へ。その後北上し、五條市民俗資料館までやってきた。。

↓史跡公園概略
史跡公園概略
五條代官所の長屋門を含む、機関車など展示している一帯を、史跡公園とよんでいる。

↓明治維新発祥の地碑
明治維新発祥の地碑
公園内にある石碑。

土佐脱藩藩士らが中心となって結成された天誅組ではあるが、明治維新につながった義挙として評価すべき拍手だとしている。

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さらに北東へ歩き、五條市役所へ。

↓五條代官所跡
五條代官所跡
ここ市役所前に(市役所は近年他の場所へ移転)石碑や説明書がある。

天誅組に襲撃を受けたほうの、五條代官所の跡地である。

↓天誅組と五條代官所_説明
天誅組と五條代官所_説明
尊王攘夷(そんのうじょうい)の志篤い連中ムキーが、先走ってしまった。代官・鈴木源内を殺害し、代官所を焼き払うメラメラ

どれほどイカれた行いなのか、現代で例えれば・・・警察庁長官を殺害し警察所に放火、いや、交番を襲って巡査を殺害、、ちょっと違うか。。

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新町通りへ戻り、再び西へ。

↓新町松倉公園
新町松倉公園
古い町並の一角に、急に拓けた真新しいエリアが出現した。新町松倉公園という。

↓松倉豊後守重政之碑
松倉豊後守重政之碑
ここに大きな松倉豊後守重政之碑が建つ。

松倉重政ゆうたらアンタ、島原の乱の遠因を作った奴やで。それが何でここにはてなマーク

↓松倉豊後守重政之碑_説明
松倉豊後守重政之碑_説明
肥前国有馬日野江4万3千石へ加増転封されるまえ、大和二見に1万石余で八年間、統治した。

その間、緒役免許の特権を与えるなどして商家を集め、新町通りを新設して大いに賑わったという。

そう、島原のA級戦犯が、ここ五條では「良いお殿様雛人形」として顕彰碑まで建てられ慕われているのであったびっくり。。

↓柿本家住宅
柿本家住宅
新町松倉公園のすぐ前にある柿本家住宅

大正元年の築で、新町で唯一の土蔵造り。でも、特徴的な二段のうだつ、見逃しとるゾビックリマーク

↓旧国鉄五新線鉄道構造物群
五新鉄道高架橋の残骸
さらに西へ歩き、寿命川まで来た。
川沿いに建つ、五新鉄道高架橋の残骸。

↓幻の五新鉄道_説明
幻の五新鉄道_説明
五條市~和歌山県新宮市間を結ぶべく、昭和12年から着工されたが、太平洋戦争などの影響で開通する事無く、工事は中断されたえーん

予定ルートを調べると・・・新宮市まで山ばっかりやんビックリマークトンネル造ったり地下鉄メチャクチャ大変やん。無理ゲーwww驚き

吉野川を横断しようとする高架の一部がそのまま放置され、現在に至る。

↓幻の五新鉄道_高架
幻の五新鉄道_高架
ありゃ、ここでプッツリ切れてますね。
廃線マニアにはたまらないってか。。

↓五條新町の家々
五條新町の家々
引き続き西へ向かう。

↓五條新町の家々2
五條新町の家々2
高架が見えるから、振り返っての一枚か。

↓西方寺山門
西方寺山門
新町通り沿いにある西方寺(さいほうじ)へ到着。

↓西方寺拝殿
西方寺拝殿
この寺は、松倉重政の菩提寺だ。

↓松倉豊後守重政の墓碑
松倉豊後守重政の墓碑
おおこれかビックリマーク
「松倉祭」ののぼりが、町民に慕われていることを窺わせる。

西方寺では、重政の位牌も今に伝えられている。

↓松倉重政の墓碑_拡大
松倉重政の墓碑_拡大
松倉重政の戒名のほか、彼を讃える文が刻まれている。

↓松倉重政の墓碑_説明
松倉重政の墓碑_説明
なんでも、江戸時代にはすでに「松倉祭」が、西方寺でとり行われていたようだ。

(↓参考_島原城天守)
島原城天守
たしかに、4万3千石にしては過ぎたるお城だ。

(↓参考_島原にある松倉重政の墓)
島原にある松倉重政の墓

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↓山田旅館
山田旅館
山田旅館は明治中頃の築で、今なお現役の旅館。

↓お面
お面

↓ツルニチニチソウ
ツルニチニチソウ

ここから、南へ向け足を運ぶ。

↓二見城跡
二見城跡
だいぶん歩いた。二見城(ふたみじょう)は、1331~1334年頃に二見氏が築いた城館で、1608年に松倉重政が所領を与えられると、近世城郭に改修した。

↓桜
桜

↓堀跡
堀跡
埋め立てられてしまっているが、堀跡か。

↓妙住寺
妙住寺
本丸があったとされる、妙住寺

↓妙住寺の赤ツツジ
妙住寺の赤ツツジ

↓二見城跡
二見城御殿跡



つづく。。。