田原城!!!~その2. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

主郭と西隣の曲輪を見終え、堀底の道へ戻り、北へ進む。

↓北へと続く堀切道
北へと続く堀切道
写真右手の高まりは、先ほどいた西郭。

↓隠し井戸
隠し井戸
はてなマークこれが「隠し井戸」みずがめ座とやらなのか。

↓隠し井戸_拡大
隠し井戸_拡大
今なお、コンコンと水が涌き出ている温泉ようだ。

↓水の手郭
水の手郭
水の手郭は、全体に地面がぬかるんでいる。
もっとも、倒木が多くて中に入れないが知らんぷり

↓水郭_説明
水郭とも呼ぶらしーな。

もう一つの井戸は、ちょっとわからんかったな。

↓土橋のような
土橋のような
なのでこの先へは、造成されたであろう道を通る事となる。ここをコの字に折れ曲がり、今度は南へ。

↓南へ伸びる道
南へ伸びる道
竹藪の間七夕をずんずんと進んでいく。

↓スズメバチだとぅ?
スズメバチだとぅ?
ふと足元を見ると、
ナニィィィィビックリマークスズメバチ🐝の巣だってぇビックリマーク思わず二度見。
でも、幸い見かけなかった。ホッ😌

↓切通し
切通し
ずんずんと光の射す方へ。
この辺も両サイドが高くなっており、上には郭があるようだ。

↓西出丸
西出丸
竹藪を抜けると右に道が折れ、少し進むと開けた農場?みたいな所に出た。恐らくここが西出丸だろう。

↓崖状の地形
崖状の地形
農場から少し引き返す。
岩盤を削ったような場所を見つけた。

↓ここも郭の一つか
ここも郭の一つか
竹藪ストリートから、左の高まりへよじ登ってみた。
平坦になっており、ここも郭の一つだったのだろう。

↓搦手口
搦手口
水の手郭まで戻り、さらに北へ進むともう一つの登城口があった。
北谷川に架かる石橋を渡って、振り返っての一枚カメラ
こちらがどうやら搦手口のようである。

↓北谷川
北谷川
城跡のまわりを囲むように北谷川が流れている。縄張するにもってこいの地形だ。

↓田原城址_遠景
田原城址_遠景
北から見た遠景。本丸にあった「史跡 田原城址」の大看板が小さく見えている。

今考えると、この時、近くにあるであろう矢の石を探せばよかった。

↓田原城址_遠景2
田原城址_遠景2
さらばだ、田原城址。。のどかな農道を北へ登っていく走る人

↓千光寺跡移築広場
千光寺跡移築広場
田原城址より徒歩5分。千光寺跡(寺口遺跡)に着いた。
正確には、発掘現場近くのこの場所に移築して保存・展示されている。

↓千光寺跡
千光寺跡
まるでビニルハウスのような形の、ガラス貼りの屋根がついた面白い展示方法。
雨露雨はしのげますね。

↓千光寺跡_説明
千光寺跡_説明
平成6年に田原城主の五輪塔があった近辺を調査したところ、伝説の田原城主一族の菩提寺の存在が実証されたという。

↓四条畷市いろはかるた
四条畷市いろはかるた

↓柱穴
柱穴
天気がいい日は影が濃くなるんで、少し見づらい。

↓寺跡_説明
寺跡_説明

↓総供養塔基壇(6号墓)
供養塔基壇
本来はこの上に大きな供養塔があったようで、穴の下には遺骨を入れた大甕(おおがめ)みずがめ座を埋めていた。

↓田原城主夫婦の墓(3号墓)
3合墓
2基の埋葬施設(窪み)が寄り添うように発見され、その上に供養塔があったとみられる。

墓の廻りは、石を置き区画している=特別大切に扱われた存在の人=田原城主夫婦の墓雛人形と考えてよいかと。

↓土塀礎石
土塀礎石

池跡

↓土塀断面
土塀断面
土塀の断面を剥ぎ取ったものを展示。肉眼だと見えるが、写真だと反射して見えづらい。

↓キリシタン墓碑出土地_説明
キリシタン墓碑出土地_説明
近くの脇道に入った所にある田原レイマン説明板。
築城した田原対馬守某と、最後の城主・田原レイマンの関係はよくわかっていない。同一人物の可能性、あるかもよ?グラサン

田原レイマンはルイス・フロイスの「日本史」に記述がある。

↓キリシタン墓碑_写真
キリシタン墓碑_写真
このように文献上の人物と、遺物の刻印が一致したのは、貴重だ。
見つけた時、跳びあがったアップでしょーな。。

墓碑は、寺跡の端っこの土塀の際々に人為的に埋められていた。追放令、禁教令十字架が出されたため、隠したんでしょーな。。

↓本丸にあった説明板
本丸にあった説明板
現物は四条畷市立歴史民族資料館にあるらしい。予習不足で見れず、残念ショボーン

四条畷界隈は戦国時代、キリスト教の普及が進んだ土地だった。

↓月泉寺墓地
月泉寺墓地
続いて徒歩2分。少し細い路地を進んだ先にある月泉寺墓地

金網で囲われた敷地にあるが、施錠はされていないので開けて入る。

↓田原城主夫妻の供養塔
田原城主夫妻の供養塔
立派な3基の供養塔が並んでいるのにすぐ気付く。田原氏一族に縁ある人たちを祀ったと伝えられるお願い

倒れたりバラバラになっていたものを組み合わせ立てられたという。昔に千光寺跡から移したものかもしれないね。

↓本丸にあった説明板2
本丸にあった説明板2

織田信長が機内を平定(田原城主も挨拶に窺った、という資料もあり)すると、やがて三好氏は没落。
田原城も1576年(天正7)飯盛山城とともに廃城となった。



おわり。。。