岡山城!!!~その3. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

~岡山城年表~
  • 1570年(元亀元)宇喜多直家が金光宗高を滅ぼし、石山城を奪い、のち住まう
  • 1590年(天正18)宇喜多秀家、岡山に本丸を構える
  • 1597年(慶長2)天守が完成キラキラ
  • 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いナイフ小早川秀秋が城主に
  • 1603年(慶長8)池田輝政の子、兄の池田利隆が後見する形で5歳の池田忠継が城主に。西ノ丸西手櫓などを増築
  • 1615年(元喜元)池田忠雄城主。廊下門、月見櫓、表書院などを増築
  • 1632年(寛永9)鳥取藩から池田光政が転封。以降、明治維新まで光政系池田氏
  • 1687年(貞享4)池田綱政、御後園(後楽園)の築庭に着手。14年かけ完成
  • 1945年(昭和20)岡山空襲により天守が焼失メラメラ
  • 1950年(昭和25)月見櫓、西ノ丸西手櫓が重要文化財キラキラに指定される
  • 1966年(昭和41)天守、不明門、廊下門などが復元されるキラキラ
  • 2022年(令和4)天守が令和の大改修

↓岡山城天守_南面
平日にも関わらず、天守内は人であふれかえっており、メンバーも辟易オエー。出る頃にはもうぐったり。
リニューアルオープしたばかりなので仕方ないか。

↓記念撮影した
珍しく記念撮影カメラしてみた。

↓六十一雁木門
下の段では雁木を見逃した、六十一雁木(上)門。設置当時、この門を出ると六十一段の雁木があった事からのネーミング。

上門のみ昭和41年再現。

3層6階で、2層の大入母屋基部を2つ重ねた上に、2層の望楼部を乗せている。

幅があるため、南面は立派に見える。

↓本城御殿跡
城主の私的な生活空間である、本段御殿があった。江戸でいう大奥的な。

ここも、愛憎渦巻く伏魔殿叫びだったのかはてなマーク

↓不明門
中の段で最初に見た門。この門は通らなかったので、本段からも見ておく。

左横の塩蔵が本来の出入口だが、天守台から入城するようになっている。

↓中の段石垣_北面
本段を降り、廊下門から北へ出た。左手を見る。奥に見えるは月見櫓

確かこのエリアは、石狭間から狙い撃たれるハズ。でも石狭間は外側からは確認できない。つまり、攻め手はどこから撃たれているか銃も分からないまま死んでいくという、恐ろしいシステムゲッソリだ。。

↓天守_北面
ジャニー喜多川、じゃなしに北側から初めて見る。石垣と1階部分が手前にせりだした形。

岡山城は、全国唯一の不等辺五角形をしている。

↓月見橋
ここから月見橋を渡った先に、後楽園がある。

月見橋は1954年(昭和29)竣工した、ゲルバー式トラス橋。
この橋が架かるまで、岡山城⇔後楽園を往き来するには船船に頼るしか無かった。

↓碧水園ボート乗場
後楽園手前にある舟屋。桃ボート🍑は3人乗りで1600円(20分)。

↓旭川_上流方向

↓旭川_下流方向
旭川の流路をぐるっと回り込ませる形に改変したのは、宇喜多秀家である。

↓天守_月見橋より

↓岡山後楽園史跡石碑
藩主の退屈を紛らせた池泉回遊式庭園だが、実は時代によってはイモ畑があったりした。

↓天守北面_旭川より
メンバーの同意を得、桃ボートでいざ出港ビックリマーク足漕ぎなので楽チン。

実は、堀から城を見上げるという機会は今までなかった🔰。何人かで来ている今この時しかないビックリマーク

この角度は、他でなかなか見れないやつ。

惜しむらくは、この時間は逆光だった。


↓水鳥の群れ

桃ボートを降り、戻ってきた。後楽園、行かへんのかいビックリマーク

↓月見櫓石垣
再び月見櫓。外面には石落しを備える。

櫓台に注目すると、表面を綺麗に揃えた石で積み上げている。

打込接ぎだが、宇喜多秀家が朝鮮から石工を連れて帰ったため、他の地域よりも早く入ってきているという。

↓月見櫓と天守
北側の道を、そのまま西へ抜けてから堀外を南下する。

↓旧岡山城本丸址碑
駐車場へ戻るのにこっちの方が早いから、などと皆を誘導したが、真の目的はコレニヤリ。。

石山城跡(旧岡山城跡)
宇喜多直家時代まではここが本丸だった。といっても、石碑以外何も無いのだが・・・

↓桜の馬場

↓桜門 桜の馬場_説明

↓生坂藩邸移築向屋敷門

↓岡山歴代城主の家紋
上から宇喜多氏、小早川氏、池田氏の家紋。

岡山城をたっぷり堪能した後は、倉敷へ向かう。



おわり。。。